後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本とは非常に違う琉球、沖縄の歴史」

2024年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本の領土は北海道から沖縄までの長い列島にまたがっています。従ってその地方や地域の歴史は随分と異なっています。日本の南端の沖縄の文化も非常に違い興味深いのです。ここにも何度も行ました。興味深い所です。
さて沖縄の歴史はどんなものだったのでしょうか?
簡略に書けば本州、九州、四国にあった縄文時代、弥生時代、古墳時代は沖縄には存在していません。石器時代に続き貝塚時代が鎌倉時代の頃まで続きます。
そして12世紀に農耕が普及し豪族たちが石垣で館を囲った「グスク時代」が始まります。
3人の豪族が沖縄本島を3分割するようになると、その時代を三山時代といいます。
その後1429年に尚巴志(しょうはし)が三山を統一し「琉球王国」が誕生することになるのです。
この第一尚氏王国は第二尚氏王国へと発展し「琉球王国」は合計約450年続きます。
この450年の琉球王国の文化は、現在の沖縄人が誇りにしている伝統文化です。
しかし明治維新後の1879年に明治政府は琉球を日本に合併して沖縄県としたのです。これを「琉球処分」と言います。
1番目の写真は沖縄の歴史を本州、九州、四国の歴史と比較した年表です。
出典は以下でhttp://www.tabirai.net/sightseeing/okinawa/info/about/history.aspx 
話は変わりますが沖縄に観光旅行に行くとバスガイドさんが人頭税の石碑のところに案内し、薩摩藩の過酷な税金徴収の話をします。これは薩摩藩による琉球侵攻(1609年)の後で琉球王国が薩摩藩の属国のようになった以後ことです。
薩摩藩の属領のような状態があったので明治政府の琉球処分があまり大きな抵抗が無く進行したのです。
ここで琉球文化の一端を示す写真を掲載します。
2番目の写真は琉球王国の首里城です。立派に復元されて沖縄の中心の那覇市にあります。
3番目の写真は琉球文化が展示してある琉球村です。
4番目の写真は琉球王朝時代の踊りです。日本には無い華やかな踊りで中国の踊りのようでした。
5番目の写真も琉球王朝時代の踊りです。中央の玉座は中国と同じです。
さてもう少し詳しく沖縄の歴史を見てみましょう。以下は1番目の写真の出典を分かりやすく抜粋したものです。
(1)先史時代の沖縄と古琉球時代
沖縄は約1万年前までは大陸と繋がっていました。沖縄では東南アジアに生息する動物の化石が発見されていることから、人間も動物を追って大陸からやってきたといわれています。
昭和42年(1967)沖縄県具志頭村(現・八重瀬町)で化石人骨が発見され、その後の発掘調査により、1万8000年前の人骨であることがわかります。これは「港川人」と命名され日本の旧石器人として世界の考古学界では有名です。
このほかにも沖縄各地で旧石器時代の化石人骨が発見されています。しかし当時の生活に関する遺物は発見されていないため、当時の暮らしがどういったものかは不明です。貝塚が発見されるなどから海辺で魚介類を採取して生活していたことがうかがえるだけです。
古琉球時代になると、長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移ります。社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現し、グスク、城が築かれることになります。その後、勢力争いへと発展していき沖縄本島を北山、中山、南山の3つの「三山時代」へと時代は変わっていったのです。
(2)グスク時代、各地に城が出来た時代:
海辺の生活から平野部、台地へと移り住み、農耕社会へと変わっていくのと同時に、集落が形成されます。このころから村の守り神としての拝所、「聖地」が作られています。一方、海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に按司(あじ)が地域を治め、各地に城、グスクを築き支配力したのです。勝連城をはじめとする有名なグスク以外にも沖縄各地には、当時のグスクの石垣が現存しています。この頃は日本では鎌倉時代にあたります。
(3)三山時代:
グスクを中心とした各集落では、農耕社会が形成されるとともに、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まります。今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言われています。浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力をさらに拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きな城、グスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となったのです。
これを三山時代といます。
(4)琉球王国誕生(第一尚氏王朝)
三山時代に終わりを告げるのは、1429年。佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた頃です。
これを第一尚氏王朝と呼んでいます。琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになり、もてなしの儀式や宴会などが催されたのです。
(5)第二尚氏王朝:
第一尚氏王朝の第5代王・金福が亡くなると、再び武力による権利争いが起きたが、跡を継いだ尚泰久が王位につくと、仏教を重んじて寺社を建立したり、「万国津梁の鐘」を作ったりと、琉球王国の平穏化に尽くしました。
その後、護佐丸・阿麻和利の乱を治めた尚徳が王位につきます。これが第一尚氏王朝の最後の王でした。先の王朝の官僚であった「金丸」が即位し、尚円と称することとなり、これが19代続く第二尚氏王朝の始まりです。そして本格的な王朝の繁栄が訪れたのです。
しかし薩摩藩による琉球侵攻(1609年)により、第二尚氏王朝は薩摩藩の実質統治下に置かれることとなったのです。
(6)1879年の琉球処分によって沖縄県となす
1609年の薩摩藩の侵攻があっても沖縄は文化的には琉球王朝の文化が栄えたのです。沖縄は本州、九州、四国とは随分と違う異国だったのです。
(7)アメリカ軍の沖縄占領
その沖縄県では太平洋戦争の末期には米軍が上陸し、約10万人もの犠牲者を出したのです。その半分以上は民間人です。
アメリカ軍の戦死者も16000人も出た激しい地上戦だったのです。そして戦後、沖縄の人々は広大な米軍基地の問題で苦しみます。
(8)沖縄の日本への返還
沖縄は、第二次世界大戦の旧連合国の対日講和条約として1951年(昭和26年)に署名され日本国との平和条約においてアメリカ合衆国の施政権下に置かれました。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を設置し、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設立するなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカ政府が握ったままであった。
しかし 1971年にアメリカ軍基地を県内に維持したまま返還が決定し1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰したのです。

今日は沖縄の歴史と文化をご紹介いたしました。縄文時代が無かった沖縄の歴史は日本とあまりにも違うのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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