後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出

2012年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

地方によっては呼び名や製法に違いがあるようだが、下仁田地区、特に我が家では、短い手打ちのうどんを「おきりこみ」と呼んでいた。

土地や家々で中に入れる具にも違いがある。山梨、長野の佐久地方では「ほうとう」と言って、かぼちゃを入れるが、我が家ではかぼちゃは入れないし、私の好き嫌いから、にんじんは決して入れなかった。

一般的には、平たく延ばしたままで、包丁を入れるので、出来上がりは長いままだが、我が家は15cm程度の短い長さを主流としていた。

戦後、僅かに物心のついた頃から、長男の私は、夕食を作ることが日常の大きな受け持ちになっていた。中学の男子が夕食を作る事など何時の時代でも珍しい光景であったに違いない。作業中に突然、ほんの突然知らない人の訪問を受け、作業風景を見られた時の恥ずかしさは何とも言えないものだった。

昭和25~6年の頃からの少しずつではあるが、世の中に余裕が出て来て外国産の小麦粉が大量に入って来た結果、地粉(小麦粉)が簡単に手に入るようになった。

当時の夕食は何処の家でも一食は麺類としていたが、我が家でも夜は自宅で作る「おきりこみ」だった。もちろん私が作った。

学校から帰ってくると、母は行商に出ていて留守、妹や弟はまだ幼く、手伝いは川の水を汲み上げて風呂桶に入れることくらいだったろうか。

大きな鉄鍋で家族7人分、翌朝まで食べられるだけの、「おきりこみ」を一度に作るのだ。翌朝の「おきりこみ」の美味さは格別だった。

午後の3時を過ぎると、勝手の板の間で地粉をこね鉢に取り分け、粉の中に少しずつ水を入れて行く。「おきりこみ」を作る最初の工程だ。

粉を固めるには一度に多くの水を入れた方が早く固まるのだが、それでは出来上がった「おきりこみ」に腰がなく、翌日の朝食の際、熱を加えると、ふやけた状態になり美味くない。

少々の水で粉を手でまとめて行く。この作業は今のプロの職人のそばやうどんの作り方と全く同じだ。これには力がいる。

当時の小麦粉は近くの農家で生産したもので、グルテンを多く含んでおり、うどんに適していた。

ある程度の固めが済んだら、具の準備をする。ねぎ、じゃがいも、いもがら等、総て畑で収穫した野菜だった。

肉類はさすがに簡単には買えなかった。まだ国産に限られていたので量も少なく他の物と比較してそれは高かった。

7人家族の食べ盛りが多かった我が家では、父親の月給日に、父親が買って来る豚肉の細切れがやっとだった。

話を戻そう、当時の炊事用の燃料は、手作りの釜戸がどこに家にでもあり、雑木(燃木ーもしきー)を主としていた。私の家では隣に木材の製板工場があり、木材の加工時に電動帯鋸を使うので多量のおが屑が出る。当時は利用されず屋外に山積されていた。これを自由に貰って来られた。

そのおが屑が燃えやすい釜戸を家族で作り利用していた。

この釜戸は火力が意外に強く、自由に火力の調節が出来、便利な釜戸だった。

(以下続く。次回に完結します。)


春曇りに咲く桜花の風情をお楽しみ下さい・・・多摩川中流の堤に沿って

2012年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は朝から曇りです。曇り日の桜花もそれなりの風情があってなかなか良いものです。府中市の故郷の森公園のそばの多摩川沿いに散歩しながら写真を撮ってきました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。家内は相変わらず走っていました。

006

050

051_5

002

043


明治初期の西洋技術導入の現場、富岡製糸場(1)13人のフランス人の活躍

2012年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

世界遺産候補として有名な群馬県の富岡製糸場は明治5年に始まりました。訪問してみると少し汚い工場群が寒々と広がっているだけです。西洋建築の美しい住居を見慣れた人々は落胆するでしょう。

しかしこの製糸場は日本の殖産興業と富国強兵の引き金を引いた場所なのです。そこから近代工業が爆発的に発展して行ったのです。

繭から生糸を取り出す自動機械をヨーロッパから輸入し、絹糸の大量生産を始めた場所が富岡です。

その工場を作ったのがフランス人のブリュナです。そしてブリュナを含めて13人のフランス人が定住して富岡製糸場の操業を指導したのです。そこで技術を学んだ日本人の女工が各地に散って行き、数多くの製糸場を作ったのです。明治期の日本経済を支えた絹糸と絹織物の大量輸出はこのようにして始まったのです。

今回から何回かに分けて「明治初期の西洋技術導入の現場、富岡製糸場」に関するいろいろなエピソードをご紹介して行きたいと思います。

その前に何故、富岡に出来たか?その理由はいろいろ書いてあります。養蚕が盛んな地方で繭が多量に入手出来た。工場で使う蒸気機関の燃料の石炭が出たから。製糸業につかう多量の水があったから。などなどです。しかし一番大きな理由は、当時、明治政府で殖産興業を推進していた渋沢栄一の出身地の埼玉県、深谷に近いからです。北関東に絹織物業を拡大しようとする意図があったに違いありません。そして日本全国に絹織物業を拡大、発展させようとする渋沢栄一の天才的発想があったのです。

さて現在の工場建屋の様子と、13人のフランス人の写真を下に示します。

030

015

013_3 上の写真の後列の右から2人目の白服の男がブリュナです。ブリュナの出身地はフランスでも生糸の山地として有名だった所でした。彼は絹織物産業の仕組みや自動機械について知っていたのです。

前列の女性は彼の妻と日本人に生糸の大量生産方法を教えたフランスの女工です。

下の写真はブリュナと妻が4年近く住んでいた工場長のの官舎です。

工場に隣接してあります。

その下の写真はフランスから来た女工達が住んでいた建物です。

明治5年に完成した木造の西洋式建物が現在でも残っています。

この13人の群馬県での生活の記録は残っていません。冬は空っ風が赤城山から吹き下ろす場所での生活は大変だったと想像に難くありません。

053

ブリュナ以外のこれらフランス人のことも忘れないようにしたいと思います。

055 

当時、彼等は時々、赤いブドウ酒を飲んでいました。それを日本人が見て人の血を飲んでいると噂して、女工のなり手が集まらなかったそうです。彼等、フランス人達の苦労が偲ばれます。富岡製糸場を歩きまわりながら、彼等に対する感謝の気持ちが自然に湧いて来ました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)