4月11日(木)
こういう二面性で物事を見る考え方は、外界に内在する論理を探るという努力よりも、当面した状況にいかに合わせるかという対症療法的な思考に傾きやすい。それに卓越した人が日本人の中で出世するのだが、当然そういう人が責任者となって外国と折衝することになるのだが、外国人(西洋人)は内在する論理を探る派であるから、日本人の中で偉くなった人ほど外国人との交渉がうまくゆかない。
戦前でその一番の例が松岡洋右である。松岡はアメリカの対日圧力を何とかかわそうと努力した。松岡が外務大臣になったのは昭和15年7月であるが、アメリカはその前年に日米通商航海条約の廃棄を通告してきていて、日米関係は相当に悪化していた。彼はそれに何とか対処しようとしたのである。
松岡はアメリカに力で対抗しようとした。ドイツ・イタリアとの三国同盟を締結した帰り道に、モスクワで日ソ中立条約を締結した。松岡の思惑では日本・ドイツ・イタリア・ソ連の四か国がユーラシア大陸で団結すれば、さしものアメリカも日本に戦争を仕掛けられないだろうとの読みであった。その力を背景にルーズベルトと交渉し、妥結を図るというのが彼の計算であった。なるほどこれは名案である。フランスが降伏しイギリスも負けそうな時である、強いドイツに日本のみならずソ連まで加われば、アメリカも怯まざるを得ない。日本も自存自衛を全うしてアメリカと妥結できる。
ここで本当に不思議なのはどうしてドイツとソ連が仲良くできると考えたのかということである。松岡のみならず多くの軍と政府の高官が、ソ連も加わるということで松岡外交に賛成をした。日本にヒットラーとスターリンを満足させておくだけの餌があるのなら別だが、25年前には大戦争をした間柄である。不安に思わなかったのだろうか。事実半年後に独ソ戦が始まったのだから、当時の日本国の高官たちの見通しは実に浅薄だったといわなければならない。
独ソ不可侵条約とポーランドの分捕りを見て、独ソはB面になった、ならば仲良くすると、単純に考えたのだろう。考えたというよりA面に転嫁する論理過程の考察がないのだから、A面になったらどうしようと仮に思っても、打つ手がないというのが実情だったと思う。天皇制の許では、それに習熟した人ほど、論理性が失われるのである。だから目の前の現象に引きずられる。この論理性の脆弱さが、外交の大失敗をもたらしたのだ。
余談だが私は何故日本は対米戦に走ったのか本当には腑に落ちていない。東条は海軍が本当に対米戦に自信がないと言うなら、開戦を考え直さねばならないと発言している。海軍の誰もがアメリカに勝てるとは思っていなかった。近衛は勿論開戦反対である。それで戦争になったのだから論理を超えた何かが作用して、日米戦になったのだと考えるしかない。
全くの思い付きであるが、幕末以来の攘夷思想がいよいよ発揮されたと、考える訳にはゆかないか。幕末に沸き上がった攘夷思想は、欧米列強の力の前に屈服して、長らく地下に伏流せざるを得なかった。しかし今や五大国のひとつである。今こそ耐えに耐えた末の攘夷実行だとの情動が、論理を超えたのではないか。
こういう二面性で物事を見る考え方は、外界に内在する論理を探るという努力よりも、当面した状況にいかに合わせるかという対症療法的な思考に傾きやすい。それに卓越した人が日本人の中で出世するのだが、当然そういう人が責任者となって外国と折衝することになるのだが、外国人(西洋人)は内在する論理を探る派であるから、日本人の中で偉くなった人ほど外国人との交渉がうまくゆかない。
戦前でその一番の例が松岡洋右である。松岡はアメリカの対日圧力を何とかかわそうと努力した。松岡が外務大臣になったのは昭和15年7月であるが、アメリカはその前年に日米通商航海条約の廃棄を通告してきていて、日米関係は相当に悪化していた。彼はそれに何とか対処しようとしたのである。
松岡はアメリカに力で対抗しようとした。ドイツ・イタリアとの三国同盟を締結した帰り道に、モスクワで日ソ中立条約を締結した。松岡の思惑では日本・ドイツ・イタリア・ソ連の四か国がユーラシア大陸で団結すれば、さしものアメリカも日本に戦争を仕掛けられないだろうとの読みであった。その力を背景にルーズベルトと交渉し、妥結を図るというのが彼の計算であった。なるほどこれは名案である。フランスが降伏しイギリスも負けそうな時である、強いドイツに日本のみならずソ連まで加われば、アメリカも怯まざるを得ない。日本も自存自衛を全うしてアメリカと妥結できる。
ここで本当に不思議なのはどうしてドイツとソ連が仲良くできると考えたのかということである。松岡のみならず多くの軍と政府の高官が、ソ連も加わるということで松岡外交に賛成をした。日本にヒットラーとスターリンを満足させておくだけの餌があるのなら別だが、25年前には大戦争をした間柄である。不安に思わなかったのだろうか。事実半年後に独ソ戦が始まったのだから、当時の日本国の高官たちの見通しは実に浅薄だったといわなければならない。
独ソ不可侵条約とポーランドの分捕りを見て、独ソはB面になった、ならば仲良くすると、単純に考えたのだろう。考えたというよりA面に転嫁する論理過程の考察がないのだから、A面になったらどうしようと仮に思っても、打つ手がないというのが実情だったと思う。天皇制の許では、それに習熟した人ほど、論理性が失われるのである。だから目の前の現象に引きずられる。この論理性の脆弱さが、外交の大失敗をもたらしたのだ。
余談だが私は何故日本は対米戦に走ったのか本当には腑に落ちていない。東条は海軍が本当に対米戦に自信がないと言うなら、開戦を考え直さねばならないと発言している。海軍の誰もがアメリカに勝てるとは思っていなかった。近衛は勿論開戦反対である。それで戦争になったのだから論理を超えた何かが作用して、日米戦になったのだと考えるしかない。
全くの思い付きであるが、幕末以来の攘夷思想がいよいよ発揮されたと、考える訳にはゆかないか。幕末に沸き上がった攘夷思想は、欧米列強の力の前に屈服して、長らく地下に伏流せざるを得なかった。しかし今や五大国のひとつである。今こそ耐えに耐えた末の攘夷実行だとの情動が、論理を超えたのではないか。