当たり前と思って過ごしてきたことは、実は当たり前ではなく
選択した結果なのだ、ということを思い知らされた日になりました。
昨日は例年通り、実家に籾摺りの手伝いに行ってきました。
電動ハンドリフトを使うにしても、袋詰め・積み上げ作業は
それなりにしんどく、今朝は(昨晩から?)手は痛いわ、
腰は痛いわ、太ももは筋肉痛だわと、毎度相変わらずな状態です。
ただ例年と違うのは…、これも今年が最後ということ。
実家の両親も高齢になり、稲作の面倒を見るのも厳しく
今年をもって自分たちでの作付けはやめにしよう、と
いうことになりました。
自分たちがもっと入り込んで手を貸せればよいのかも知れませんが
イネは水を張って植えておけば後は勝手に育つ、というわけでもなく
田起こし準備から日々の水の管理など、気軽にもっと手伝います!と
言えるレベルでもない。
自分たちが手伝っているのはその中の極々一部なわけで…
(知ったかぶりで書いているものの、細かい業務は正直把握してません。。。)
実家のコメ作りは自分が物心ついた時から(もっと前から)当たり前にやっていたことで、
若い時には、田植えやら稲刈りやらの手伝いが嫌で嫌でしょうがなく、
(特に刈り入れ。もみ殻の細かいゴミが肌にへばりついてチクチク痛いんだよねぇ)
でも大学に入って実家を離れてからは、部活の練習に優先してはせ参じ、
社会人になってからは、少しでも両親の負担を減らそうと力仕事を引き受けたり、
もはや稲作は、自分にとってはやるかやらないかを選択するものではなく、
やるという既成事実の中で、どう(極力楽に)やるかを考えるのが
当然のものと考えていました。というか考えることもなかった。
で冒頭に戻りますが、今、自分がやっていること、置かれている
立場というのは、コメ作りに限らず当たり前ではなく選択した結果なのだ、
ふとしたタイミングで終わってしまうのだと、そんな当たり前と言えば
当たり前のことに気づかされた一日でした。
仕事も何だかんだといろいろありますが、今の環境を当たり前と思わず
やれることを精いっぱいやらねば。いつかは終わりが来るのだから。
そんなこんなで、少々感傷的になりながらもラスト籾摺りは想定以上に
収量があり豊作。終わりよければすべてよし。かな。