「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「法蔵禅寺」(ほうぞうぜんじ)

2009年02月01日 11時18分29秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鳴滝より周山街道を隔ててその北に三方を山にとりかこまれた小さな渓谷地がある。ここは仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の泉殿の旧跡地に因んで、泉谷(鳴滝泉谷町)と呼ばれている。仁和寺を過ぎて福王子神社の交差点を高雄方面に向かい、一つ目の点滅信号のところに嵯峨野病院の看板、その交差点を右折し、病院を過ぎたところを左に急坂を上ると右手に別荘を思わせる山門がたたずんでいる、ここが法蔵禅寺である。左折せず直進すると、時代劇や「京都地検の女」に登場する禅寺の「西寿寺」がある。

 鳴滝(なるたき)は、古くは小松の里とも長尾の里とも呼ばれた古い村落で、鳴滝川(御室川)がこの地に至って滝となり、滔々たる水声が遠くまで鳴りひびいたので鳴滝と呼ばれ、滝に因んで鳴滝村となった。周山街道沿いの民家の背後(鳴滝宅間町)に滝があり、幾段にも岩にせかれて落下しているのがみられる。
 西行法師は、「暫しこそ人目慎みに堰かれけれ果ては涙や鳴滝の川」(山家集、中、恋)と、その奔流に、悲恋に泣く想いを托してうたっている。
 また王朝時代には七瀬の霊所の一つとなり、滝のほとりの清浄な水辺をえらんで、禊祓(みそぎはらい)や祈雨祭等がおこなわれていたという。

 法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度か改修されている。近年まで無住の時代が続き、いつしか小寺となってしまったようだ。趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の穴場である。ぜひ秋に訪れることをお勧めしたい。寺宝は、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等がある。近衛家の家臣渡辺始興の描いた襖絵があったとされているが、現在は不明だという。

 乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にある。
 乾山は絵師としてすでに名声を誇っていた兄の光琳の協力のもと数多くの作品を生み出している。制作は13年に及んだが、正徳2年(1712)に乾山(深省と改名)が住
居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げる。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てた。享保16年(1731)69歳の時、深省は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保3年(1743)に81歳の生涯を閉じた。
 
 鳴滝乾山窯は、その後、近衛家熙(このえいえひろ=予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)和尚が、享保16年(1731)ごろに、予楽院の出資を得、桑原空洞の旧宅をゆずりうけて黄檗宗(おうばくしゅう)の寺とした。
 百拙は京都の人で、高泉和尚の弟子となり、伏見大亀谷の仏国寺や但馬国(兵庫県)にあった興国寺の住職をつとめ、晩年泉谷に閑居し、寛延2年(1749)82歳で没した。詩歌、茶事及び絵画に長けていた、墓所は境内背後にある。

 所在地:京都市右京区鳴滝泉谷町19。
 交通:JR京都駅から市バス26系統で「福王子」下車、徒歩7分。阪急烏丸(四条烏丸)から市バス8系統で「福王子」下車。
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