「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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 「淀城跡」(よどじょうあと)

2009年02月15日 18時59分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
「淀城」と聞くと、豊臣秀吉の愛妾・秀頼の母だった淀君の居城と思われがちだが、京・大坂を護る徳川幕府の要衝的な城だったもので、享保8年(1723)稲葉氏10万2千石の居城であった。
 明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、春は桜、夏は蓮の花が咲き、地元の人たちに親しまれている。また、淀君の館が淀城跡北東5百メートルの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。

 淀城跡は、京阪電鉄淀駅の西にあたるが、近くには、京都競馬場があり、城下町であった風情は忘れ去られているかのようだった。城跡の石碑は本丸跡に建っており、石碑の「淀城址」の文字は、子爵・稲葉正凱の手によるものとのこと。
 桂川、宇治川、木津川が合流する淀は、古代から交通の要所であった。西日本から淀川の水運によって平安京に運び込まれる様々な物資は、「淀津」で陸揚げされるのが通例で、中世には川の中島(現在の京阪淀駅周辺)に「魚市」が存在し、都に運び込まれる塩で加工した海産物や塩の販売を一手に掌握していた。
 また、戦国時代には戦闘の拠点として「淀城」がたびたび史料に登場するが、これは現在の納所付近に存在したようである。この古淀城は天正17年(1587)に淀殿の産所として豊臣秀吉によって修築されたが、伏見城の築城計画とともに廃城となった。 

 現在京阪淀駅の北西に隣接して石垣と堀が残る淀城は、室町末期、細川政元が築城しのち廃城になっていたのを、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて修理させたが、その後廃城となった。後年、関が原の戦いのの火蓋の舞台となり、廃城していた伏見城にかわる新たな京都護衛の城として、古淀城の宇治川を挟んだ対岸の中島に元和9年(1623)から寛永2年(1625)にかけて築かれた。最初の城主は松平定綱で、寛永10年(1633)には新たな城主である永井尚政が入城する。この永井藩政時代に木津川流路の移動による城下町の拡張が行われた。次いで、寛文9年(1669)には石川憲之、宝永8年(1711)には戸田光熈。享保2年(1717)には松平乗邑と相次いで城主が変った。しかし、享保8年(1723)に春日局の子孫稲葉正知が城主となった後は、幕末まで稲葉家が城主をつとめた。歴代城主はいずれも譜代大名であるが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、敗走する幕府軍を入城させず、官軍側についた。このときの戦火で城下が焼亡した。(参考:財団法人 京都市埋蔵文化財研究所調査資料)

 所在地:京都市伏見区淀本町。
 交通:京阪京都線淀駅下車徒歩2分。
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