仏教とは何なのでしょう?
答えはすごく簡単です。
「こだわるな!」
この5文字で終わりです。
世界中のお坊さんや、仏教学者がいろいろとおっしゃいます。
八正道がどうの・・・四苦八苦がどうの・・・六波羅密というのは・・・
しかし、こういうのはどうでもいいことなんです。
いや、むしろ忘れた方がいいでしょう。
「こだわってはいけない!」
この掟さえ守っていれば、
その人は、紛れもない求道者。
あまつさえ、立派な菩薩にも如来にもなれることでありましょう。
私自身、般若心経、維摩経、法華経、華厳経などの経典が好きですが、
最終的には、こういうものもどうでもいい。
しかし実際に、「こだわるな」という掟を守ることは、とても難しいこと。
将棋や碁をすれば、つい勝ちたくなる。
野球やサッカーを見れば、ひいきチームを
全身で応援している自分に気づきます。
金のために、他人をだまし、
女性の歓心を得るために、
お世辞を言っている自分に気づきます。
ヘレン・ケラーは三重苦でした。
でも指の感覚が残っていることに満足。
「自分はとても幸福だ」とおっしゃいました。
しかし日本人のほとんどは、五体満足でも、
毎年、何万の人が自殺をしております。
芸能人や作家でも、
ハンサムや美人や才能豊かな人に限って、しばしば自害。
いかに仏教の教えが正しいかの証明です。
(逆に・・・
いわゆるアホの坂田さんや、アヘアヘの間寛平さんは、
毎日、頑張っておられます。
「芸能界一キモイ男」と言われる出川さんも元気いっぱい。
大食いのギャル曽根さんは、盛んにパクついております。
おバカさんトリオ(木下、里田、スザンヌ嬢)も、有卦に入っています。
・・私のように才能のない人間は、かえって幸福かもと、一安心です)
私はパンクした自転車の修理をします。
そのたびに思います。
ああ、また「ここだった!」
そうです。
自転車のパンクの85%は、
空気入れの近辺が、パンクをします。
なぜでしょう?
そう。そこだけが、動かないからです。
固定した所は、
障害物をよけきれずパンク。
修理をしながら、いつも思います。
人生も「こだわったら」、負け。
一時的な勝利は得ても、
きっと、そのために心身に深手を負うこともあるでありましょう。
でも、もう一つ逆の真理もあります。
「自転車は固定するところがないと、空気が入れられない!」。
そう。
人生も、全く何のこだわりがなければ、
逆に浮浪者になる可能性もあるでしょう。
つまり、結論を申せば、
最低限のこだわりを持ちながら、
なるべく自然体で生きる、
これが最も正しい生き方なのでしょうか。
田舎に行くと、過疎で陋屋だらけ。
でも御寺だけはピカピカに輝いております。
上手なこだわりを持っているせいでしょうか?
子供のころ、御寺がこれほどお金の儲かる仕事とは
思いませんでした。
このような駄文を書いている間にも、
高齢化社会はどんどん進んでゆきます。
あと何十年かすると、私も確実に死にますが、
そこここにある建物や樹木は、存在し続けるでしょう。
「自分が死んでも、この木は生き続ける」、
そんなことを思い、町を散策します。
一瞬さみしい気がすると同時に、
そのうち心が澄み、落ち着いてきます。
そんなとき・・・
少しでも、意味のある人生を歩みたいと思います。
そのあと、心の中で、訂正します。
「少しでも」ではなく、「少しだけでいいんだな」と。
過去を悔やまず、他人を憎まず・・・
笑顔でこの世とさらばしたいものですね。
・・・・なんてことを思っていた昨日。
昼寝をしながら、自分が4歳の頃に戻ったような気がしました。
そんな半無意識状態の中、
4歳以降の自分のことがどうでもいいように思えてきました。
死ぬほどつらかったことや悲しいことや、不安なこと、
逆に、とても楽しかったこと、強烈な恋愛、気負い、憎しみ・・・・
59年間、いろいろなことがあったけれど・・・
すべて(肉体的な苦痛以外)は、どうでもいいことに思えてきました。
まして、社会の出来事などはさらにどうでもよく、
戦争などをしている人たちは、実にバカバカしく思え、
結局、自分の最盛期は4歳のような気がしてきました。
天下統一をした信長が愛した言葉が「下天は夢か?」。
私ごときの人生などは、一瞬の幻かもしれません。