相変わらず、多くの著名人が、自らの命を断っています。
加藤和彦さん、上原美優さん、奥山英志さん、田中実さん・・・・
実に悲しいことです。
私は愚かなりに、
「死にたい」と「死ぬ」の違いを、
じっくりと考えてみました。
まず私が最初に考えたこと・・・
「最終的に宇宙は無なのではないか?」
無であるから、人の心は、
ゼロの状態を求める。
特に、苦しみが深い時に・・・・「死にたい」と思う。
ですから「無になりたい=死にたい」は、
間違ってはいません。
「楽になりたい」は自然な感情です。
しかし、自らの命を断つとなると、これは大いに間違っております。
なぜなら、この世と言うのは、
必ず「陰に対する陽」が備わっているからです。
寒に対する暖
女に対する男
電子に対する陽子
コブラにマングース
カレーライスに福神漬
・・・・・
すべてがそうなっております。
「絶対悪」は存在しないし、
「絶対不幸」もありません。
すべては「相対」です。
女性がいるから、男はいるのであり、
男がいるから、女は存在します。
地球も太陽から見ると、アリのようにちっぽけだし、
太陽も銀河の中では、砂粒です。
しかし・・・
星座から原子に至るまで、
宇宙は、何と秩序正しく、運行していることでしょう!
その規則性は、
陰陽がうまく寄り添っているからこそ、
可能になります。
そしてまた、海や野山の景色は何と、美しいことでしょう!
つまり私たちの日々の「状態」は、
もっと高みにある「それと均衡を保とうとする何か」
によって、存在を許されているのではないか?
だから「窮すれば、通ず」と言い、
どんなときも、何らかの解決策はあるもの。
また逆に「好事魔多し」。
調子の良すぎると、一転して良くないことが起きるもの。
私は思います。
「死にたい」「死にたい」「死にたい」・・・
のあと、解決策は用意されているのだと。
「死にたい」「死にたい」「死にたい」・・・
と思っている間に、
気づきます。
「ああ、あんなこと、どうでもよかったんだ!」
「他人の思惑や世評など、気にしなくていいんだ!」
「お金が万能じゃないんだ!」
「桜や紅葉は何と美しいのだろう!」
・・・私たちの心はどんどん軽くなり、
私たちを海底に沈めんとするものに打ち勝つことができます。
(実際、裸になれば、海面に浮きます!)
いつかは、肉体としての生命は終焉します。
しかし魂は生き続け、死後の世界も存在すると言われます。
たとえ、死後の世界が存在しないとしても、
この宇宙が、陰陽のバランスが取れている以上、
心さえ広く持ち、すべてを許容する心さえ持てば、
死に至ることはありません。
「持てる」者は、それを捨て去るだけで、いいわけです。
持っている物は、所詮たいしたものではない
そもそも人間、裸で生まれてきたじゃないか・・・
身体に絶対に必要なもの・・・水や塩は、一番安い食品じゃないか!
そういうことに気づくのが、
「死にたい」と思っている過程・・・であると思われます。
残念ながら、幸福な時には、この真理に気づきません。
だからこそ、世の中に不幸は存在するのではないでしょうか?
高名な多くの霊能者が言いました。
「自殺したって、無駄だよ。
だって、来世で、また同じ苦しみを受けるだけなんだからね」
これが正しいかどうかは別として、
「死にたい」ときは一時的に「死ねばいい」のです。
座禅だって、一種の「死」です。
日々の眠りも「死」です。
お風呂も、過去の汚れを洗い流す「死」です。
旅行だって「日常の死」なのでしょう。
そうやって、「日々わずらうこと」を捨て、
新しく出直せばいいのだと思います。
大いに困った時は、
まず、すべてを忘れます。
一晩寝て、うまいものを食べれば、解決策が浮かぶもの。
宇宙の究極は無である以上、
それはいつでも可能だと思われます。
宇宙とは・・・・
無から不死鳥が生まれる「無限回のプロセス」ではないでしょうか?
何かを捨てながら、私たちは「生命」を得続けます・・・
いったい、「生命」より大切なものは、この世にあるのでしょうか?