つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

考えてみればおもしろい慣用句

2022-03-31 06:36:12 | 日記
新聞のコラム欄で、こんなのをみつけた。
たしかに指摘されてみると、実際にはそういう状況はないのに、しっかりと意味が成立している。
そんな例をいくつか教えてくれた。

◆慣用句というものは言葉の可能性を拡げている
 なんとなくラーメンを食べたい気持ちになった時、「ラーメンの口になってきた」なんて言い方がある。
 実際には、ラーメンに合わせた口の形があるわけでもないのにだ。
 「開いた口が塞がらない」=そう話し終えたら口は塞がっていないのか。
 「口がすべる」=口の位置が変わるわけではないだろう。
 「口に合う」=実際に味覚を判断するのは舌だと思われるが。
 「口が堅い」=柔らかい口もあるのかな。
 「口が重い」=まさか顔から落ちるほど重くはないと思うが。
 口だけを見ても、実際の口の動きや働きとはまったく違うものだが、言葉として立派に機能している。
 
 頭だってそうだ。
 「頭を冷やす」=具体的にどうやって冷やすのか、アイスノンか。
 「頭が切れる」=本当に切れちゃったら大変だ。
 「頭が上がらない」=そうは言っても上げているように見えるが。
 「頭をひねる」=どうやって捻るのか、首ならばまだわかるが。

 →なるほどねぇ 指摘されてみるとたしかにおかしいですね。
  でも、ちゃんと意味は通じそうです、へんですね。

桶狭間の戦い異論

2022-03-30 06:44:42 | 日記
おいらたちが住むこの愛知県の生んだ三英傑は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康だ。
その中での織田信長だが、一般的に知られることとはずいぶん違う説を聞いた。
あべ・りゅうたろうさんで、多くの研究と著作のある方だ。

◆奇襲ではなかったそうだ
 ごく一般的に知られている史実では、尾張の小豪族である信長が、奇襲により10倍の兵力を持つ今川義元に勝利したということだ。
 それは豪雨の中、桶狭間の谷間の道を長蛇の列で行軍している今川勢を、迂回して本陣を急襲したというものだ。
 おいらもそれを信じていたのだが、この説が広く伝播し、旧日本陸軍士官学校の教材にもなったそうだ。
 その結果、陸軍のインパール作戦にも応用されたという。

 だが、これに異論を述べたのが、あべ・りゅうたろうさんだ。
 桶狭間の合戦は1560年だが、実はその6年前の1554年に信長は今川勢の村木砦を鉄砲を用いて攻め落としているそうだ。
 その成功体験をもとに、鉄砲を500ほども手に入れていたらしい。
 信長の非凡なところは、鉄砲と長槍部隊(3間半:約6・2m)との組み合わせだ。
 鉄砲の最大の弱点は、弾込めに時間を要することなのだが、長槍部隊はその間を敵の騎馬や歩兵を防いでくれるのだ。
 こうすることで、鉄砲隊は次々と敵を倒すことが可能となるのだ。

 さらに驚くことには、この戦法はポルトガル人から教えられたものらしい。
 既存の概念にとらわれることなく、新しい知見を取り入れることはこんなにも有益なことなのです。

 ふうん 運任せ、偶然任せではなく、確固たる信念のもとに戦術を立てて実行したという事なんですね、見習いたいものです。

 
 

勝負の「潮目」

2022-03-29 06:41:20 | 日記
あるスポーツ指導者が、勝負について持論を開陳していたが、ふっとこんなことを感じた。
これは、おいらが行っているささやかな株式投資にも通じるのではないかと。
元々は、能楽師の世阿弥(ぜあみ)が説いていたことだという。

◆勝負には「潮目」というものがある
 世阿弥の時代、能は「立ち合い」という競技形式で上演されていたそうだ。
 複数の役者が、同じ日に同じ舞台で芸を披露し、勝負を競っていたのだ。
 この一日の勝負の内には必ず「勝負の波」のようなものがあり、この波があることは努力ではどうにもならないと説いた。
 さらにこう続ける、勢いの波が相手に行っていると思う時は小さな勝負に徹し、あまり力を入れるな。
 そこで負けてもあまり気にすることなく、大きな勝負に備えるべきなのだ。

 たしかに、対戦型の勝負事には相手側に勢いのある時がある。
 対抗して何か策を講じても、たいていは失敗するものだ。
 そんな時は、じっと耐えながら攻めるための準備を万全にしてチャンスを待ち、
 こちらに有利な波が来たところで、一気に勝ちに行くのが有効という事なのだろう。

 →株式市場も似たようなものかもしれないと、勝手に思いました。
  常に勝負をし続けるのではなく、ここぞという時にドカンと行くのがいいのかも知れませんね。
  株式市場は勝負の場ではなく、投資や企業支援の場だという御意見は十分に承知していますが・・

物事は中立

2022-03-28 06:56:34 | 日記
以前にも似たようなことを書いた記憶があるが、世の中には運のいい人とそうではない人がいる。
昨日ビジネス誌を読んでいたら、そのことに対しての興味深い新しい説を目にした。
筆者によれば、運の本質とはこういうことだという。

◆起こっている物事そのものは中立である
 どうすれば運を味方にできるのかと言えば、それは「意識の仕組み」について理解を深めることが早道だ。
 その意識には、4つの構造がある。
 「知覚」・「視点」・「認知」・「記憶」がそれだ。
 ①知覚:起きた物事を単なる情報として捉えている状態。物事にはまだ意味はない。
 ②視点:一つの物事を様々な角度で捉えること、過去の体験からこの視点を増すことが出来る。
 ③認知:運が悪い人というのは、物事を短絡的かつ画一的に受け止めがちである。
     運が良い人は、物事を多角的に受け止め自身にとって良い意味付けとすることができる。
 ④記憶:数々の認知が経験としてたまった状態が記憶である。この場合、不要な記憶は忘れてしまったり、
     ノートに記しなどして外部化することも大事なことであり、知覚が鈍くなることを防ぐこととなる。

 もうおわかりいただけただろうか。
 起きている物事は、良いも悪いもなく、中立なのだ。
 どうとらえて意味づけするかという、受け止め方によるわけだ。
 だから整理して言えば、「運」とは、起こる物事よりも「意識のとらえ方」によるもの、ということなのだ。

 →ふうん、物事は中立でただそれの受け止め方によるですかぁ
  わかったような気もしますが、それでもなお、とんでもなく運の悪いことってあるような気もします・・

牛肉はそうなのか

2022-03-27 06:47:01 | 日記
おいらは、名古屋市の在住だ。
名古屋以西では、牛肉文化のように感ずる。
つまり、牛肉が比較的高価=ごちそう、豚肉=一般的、鶏肉=庶民的といったイメージだ。
だが東京在住の友人は、ちょっと違ったイメージのようだ。
そのことに関してはおいらの主観かもしれないのだが、東京以東は豚肉文化のように感ずる。
一般的=豚肉・鶏肉、嗜好品=牛肉、のような感じだ。
つまりは、東京では牛肉に対しあまり価値観を感じていないのではないのかなと、おいらは思っているのだ。
それが証拠に、名古屋以西のSM(スーパーマーケット)の牛肉生肉の尺数(売場陳列フェイス数)は、18尺はある。
それが東京では6尺か多くて12尺だ。
ではその差はどうかというと、豚肉の脂身とか細切れとか切り落としとか、各種の加工肉が尺数を占めているようだ。
そしてもうひとつ、牛肉が比較的高価なのは、こんな理由があるそうだ。

◆生産コストが違う
 もしかすると、これが価格決定要因なのかもしれませんね。
 1キロの鶏肉を生産するためには、2~3キロの飼料が必要となるそうだ。
 同様に、1キロの豚肉を生産するためには、4~5キロの飼料。
 牛肉1キロだと、7~8キロの飼料が必要となるそうだ。
 牛肉の価格が高い=高級品というのは、生産のための飼料のコストがかかっているからかもしれませんね。

 あとそのほかの食文化については、東西で味噌・うどん・そば・うなぎの焼き方・ねぎ等で差を感じますが、
 それはまた別の機会に。