中国が一人っ子政策を転換し、二人目をつくってもいいことになったという。きっと歴史上の大きな転換点を迎えているのだろうと思うと同時に、どちらにせよ、あらためてすごい政策だと感じる。
少子化が問題になっている日本で、逆に二人以上必ず子どもをつくることという法律が制定されようとするなら、どれだけの反発があるだろう。何歳までには必ず結婚すること、とか。
同じレベルのことあの大国で実施しているということ自体、ある意味エラい。よくみんなついていっている。
文科省の「高校生の政治的活動を部分的に認める」という通達も、同じように感じてしまった。
ていうか、高校生が政治的なことをしてはいけなかったと今知った。
1969年、つまり大学生の学生運動が盛んだった時期、高校にも広がりを見せようとして、「望ましくない」という通達が出されたという。
そんな生まれてもいない頃の話は知らないが(うそぴょん)、高校生も大学生みたくアツかったのだろうか。
もちろん、都会の、かぎられたいくつかの進学校だけに見られた状況だったというのが現実だったとは思うけど。
仮に、大学生のようにバリケード封鎖を高校生がしてたなら、文部省が通達をだしたところで言うことを聞かなかっただろう。むしろ不法占拠とかの普通の法律にのっとって対応すればいい。
暴力的な授業妨害など、政治的活動ではないのだから。
逆に法に触れない行いなら、それが政治的な活動であっても、勝手なのではないか。
子ども何人つくろうがほんとうは当人の勝手であるのと同じで。
むしろ、積極的に政治について考え、行動までする生徒がいるくらいの方が学校に活気が生まれる。
勉強ばかりする子もいれば、部活命の子もいればいい。
だめって言われたら、「日本の社会を考える会」とかつくって部活動にしてしまえば活動しやすい。
考えてみると部活動の方が、よほど本来的な学校生活に支障をもたらしている部分がある。
高校生の政治活動について我々ができることがあるとしたら、やはり論理的に考える力をつけることを第一に考えるべきだろう。だから、直接それに役立つ国語の勉強こそ大事だ。
そうすれば新聞やテレビの報道を見て、「何が正しいのだろう?」と疑問をもてるようにもなる。
評論文を読むと、名詞の意味は実に多用であることを学べる。
「だから」「しかし」といった接続詞は、記号的にかぎられた意味でしか使われないが、たとえば「民主主義」という言葉は、筆者によって様々な意味に変わる。「正義」「真実」のような言葉の意味も人それぞれだ。
自分の頭で考えた結果の行動は、極力あたたかく見守ってあげるのが大人の仕事で、しかしそれがあまりに浅はかなものであったら、そう指摘するのも大人の仕事だ。