学年だより「プロセス」
「○○大学に受かりたい → 合格できた」=うれしい!
一見なんの問題もないように見えるこの式には、実は一箇所飛躍がある。わかりますか?
佐藤雅彦著『プチ哲学』に、「魔法の杖」というお話が漫画で紹介されている。
猿が神様に「一度でいいからバナナをおなかいっぱい食べてみたいのです」とお願いする。
すると神様は、「よしかなえてやる」と言って、トントンと杖を振る。
次の瞬間、その猿のお腹がバナナで大きく膨れあがっている。
「そういうことじゃないんだけど … 」その猿はとつぶやく。
雄カエルが、「あこがれのケロ子ちやんと一生を添いとげたいのです」と神様にお願いする。
神様は、「よし、かなえてやろう」と言って、トントンと杖を振る。
すると次の瞬間、その雄カエルとケロ子ちゃんが並んで老人になっているのだ。
雄カエル「そうじゃなくて … 」。
~ この2つの漫画に共通していることは、最終的な「結果」が目的なのではなく、好きな人と一生過ごす過程や、念願のバナナをムシャムシャ思いっきり食べる、その経過が目的だったということです。一般的には、「結果」はとても大事です。
特にプロスポーツやビジネスの世界では、いくら途中経過がよくても、いい結果を出さなければ評価されないというのが現実です。それはそれでとても健全でかっこいいことでもあります。しかし、それに反して、この漫画のように、結果だけでは意味をなさない事柄も、日常には少なくありません。 (佐藤雅彦『プチ哲学』中公文庫) ~
受験はどうだろう。
「○○大学に合格する」と目標を立てる。
魔法の杖によって、一瞬のうちにそれがかなえられるとする。
つまり、次の瞬間ににみんなは○○大学の学生になっているのだ。
うれしい? うれしいかもしれない。ラッキーではあるだろう。
でも、そのように目標をかなえた人が、自分の学生生活をかけがえのないものとして大切にできるだろうか。何より、晴れ晴れと大学の門をくぐれるだろうか。
おなかいっぱいバナナを食べたいという夢が、知らないうちにおなかがふくれているという形でかなっていたときの、何か釈然としないものと同じにならないか。
目標の達成を喜ぶには、それまでの日々が実は大事なのだ。
目標を達成して「やったー!」と叫ぶ時、そこにあるのは結果そのものへの喜びだけではなく、そこにいたるまでのプロセスへの思いが含まれている。
「○○大学に受かりたい → がんばって努力した → 合格できた」=うれしい!
こうなってはじめて正しい式と言えるのだ。