朝の集合の後、学年だよりを書いていたら、道を尋ねる電話がかかる。日曜はこういう電話がたまにある。練習試合でそちらに行くのだが、途中で道がわからなくなったとか、学校見学に伺いたいがどうやっていけばいいのかといったもの。今日は、「おたくのそばにあるというシニアリーグの野球場に行きたいので、そちらの住所を教えよ」との電話だった。「川越市久下戸6060です」と答える。住所をきくのだからナビを見るのかと思ったが、それなら電話番号を入力してしまえばいいのにとも思った。いったん切って5分後くらいに、再度電話。「いま飯能を出るのだが、久下戸という看板はあるのか」ときく。別に変な人っぽくはないし、話し方に横柄なところもないのだが、なぜか質問がずれているような気もした。「では川越にむかってきてもらって、あらためて電話ください」と答える。しばらくして「いま秀明学園をすぎた」と電話がかかる。「もうしばらくまっすぐ進んで、喜多院という信号を右折してください」といい、「あの、ナビも地図もないのですか」と尋ねると「そうだ」という。その後、もういっかい電話で学校が見えるあたりまでをお教えした。はじめて向かう場所に地図もなく出発する人がいるということに、まことに意表をつかれた出来事だった。
と書くと、いかにも電話の相手が非常識で、電話を受けた自分が普通のように見えてしまうが、逆に地図もなく、ときには行く先もわからずに出発していることが、自分にも多々あるのではないかとも思う。
たとえば、今の練習は行き先が見えているのか。ちゃんと地図にしたがって正しい道のりを進んでいるのか。考えてみるとかなり手探りだ。行き先を決めかねている面もある。どこまで進みたいのかを。だから部員一人一人の歩き方にも差があるのだろうか。
と書くと、いかにも電話の相手が非常識で、電話を受けた自分が普通のように見えてしまうが、逆に地図もなく、ときには行く先もわからずに出発していることが、自分にも多々あるのではないかとも思う。
たとえば、今の練習は行き先が見えているのか。ちゃんと地図にしたがって正しい道のりを進んでいるのか。考えてみるとかなり手探りだ。行き先を決めかねている面もある。どこまで進みたいのかを。だから部員一人一人の歩き方にも差があるのだろうか。