Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

カーニバルの朝

2013-10-17 16:21:13 | 日記

★ 新しい古文書学者が町に任命されてきた。しかし、ほんとうに任命されたといえるだろうか。むしろ、彼はじぶんの方針にしたがってふるまっているだけではないだろうか。彼は、一つのテクノロジーの代弁者、構造主義的なテクノクラートの新しい代弁者である、と憎しみをこめて言うものがある。また、じぶんの愚かなお喋りを気のきいた洒落と勘違いして、この男はヒットラーの回し者、あるいはとにかく人権をおびやかしている、と言うものもある(彼が「人間の死」を宣言したことが、彼らには許せないのだ)。また、彼はどんな権威あるテキストにも頼ろうとはせず、ほとんど大哲学者を引用することもないペテン師だ、と言うものもある。これとは逆に、何か新しいもの、根本的に新しいものが哲学のなかに生まれ、その著作は決して自分では望まない美しさを備えている、と言うものもあるのだ。まるで祝祭の朝のように。

★ フーコーは書くことを決して目的や終局だとは考えなかった。まさにこのことが、彼を偉大な書き手にし、彼の書くものにますます大きな歓び、ますます明白な笑いをもたらすのである。

★ 刑罰の神曲。それはつまり、こんなにも多くの倒錯的な発明と、冷笑的な言説と、手のこんだ恐怖を前にして、気違いじみた笑いに行き着くところまで熱中するという原始的な権利なのである。子供に自慰を禁ずる装置から、成人のための監獄の機構まで、一つの連鎖の全体が繰り広げられ、恥辱や苦悩や死が口を封じなかったかぎりは、意想外な笑いを呼びおこすのである。

★ 死刑執行人たちは、めったに笑わないものだ。あるいは、彼らの笑いはこのような笑いと同じものではない。ヴァレスはすでに、死刑執行人たちのおぞましい快活さとはまったくちがう、革命家たちに固有の、恐怖のさなかの快活さについて語っている。そこから何かを、ある大いなる喜びを引き出すには、憎しみが十分に生き生きしているだけでよいのだ。それは両義性の喜び、憎悪する喜びではなく、生命をそこなう何かを破壊してしまう喜びである。

★ 拡散し、混沌としながらも、新左翼の特徴となっていたもの、それは理論的には、ブルジョワ的思考にもマルクス主義にも向けられた、権力の問題についての新たな問いかけであり、実践的には、局地的で特異な闘争の形態であり、それに必要な関係や統一性は、もはや全体化や中心化からではなく、ガタリのいうように、ある横断性からやってくるということであった。これら二つの実践的理論的側面は、密接につながっていた。

★ しかし新左翼もまた、マルクス主義のあまりに粗雑な断片を相変わらず保存し再編して、またもそこに埋もれてしまい、スターリニズムも含めた、古めかしい実践とよりをもどす集団の中心化をまるで再構築するようにしたのである。

★ おそらく、1971年から1973年まで、G・I・P(監獄情報グループ)は、フーコーとドゥフェールの激励をうけて、監獄闘争と他の闘争のあいだに独自の関係を保ちながら、このような再構築を避けることができるグループとして機能した。そして、1975年に理論的著述に復帰して、フーコーはあの新しい権力の概念を先がけて作り出したと思われる。それは、私たちが見つけ出すことも、言表することもできないまま、探し求めていたものだった。

★ 『監獄の誕生』で問われているのは、まさにこのことなのだ。確かに、フーコーはそのことを、この本の最初の数ページでほのめかしているのにすぎないが。ほんの数ページだけ、というのは、彼が「論文」とは全く別の方法で、アプローチしているからだ。彼は左翼の伝統的な位置を規定していたいくつかの公準を放棄すると、暗示するだけにとどめている。そして、もっと詳細な展開のためには『知への意志』をまたなくてはならない。

<ジル・ドゥルーズ『フーコー』(河出文庫2007)>






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