Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

神の いない 世界

2013-10-30 13:57:51 | 日記

★ 第三者の審級――その代表が神です――が存在しているということ、つまり人々が第三者の審級の存在を信頼しているということは、どういうことかを考えてみるとよいのです。それは、必然的に「信仰の飛躍」を含意しています。信仰の飛躍というのは、根拠なしに、無条件に、「えいやっ」と飛び込むように受け入れるということです。神を信じること、あるいは神でなくても誰かを信じるこということは、ただ端的に、彼(彼女)、または彼(彼女)の言葉を受け入れるということです。

★ たとえば、こんな状況を想像してみてください。あなたが、何か、身に覚えのないことで嫌疑がかけられているとき、あなたが、親友や恋人に「俺はそんなことはやっていない、信じてくれ」と言うでしょう。そのとき、親友なり恋人なりがあなたに証拠を要求したら、ちゃんとした証拠があれば信じましょうと言ったとしたら、その親友や恋人は、あなたをほんとうには信じていないということです。その人がほんとうの親友や恋人であれば、あなたが真剣に訴えることを、無条件で、何の証拠など提示しなくても信じるでしょう。

★ このように第三者の審級が存在しているということは、無条件に受け入れられている前提がある、ということです。逆に言うと、第三者の審級が撤退し、存在しなくなるということは、すべてが反省的な選択の対象になっているということ、「ただ受け入れる」という部分が無くなっていることを意味します。

★ 今日、この惑星の進化や自然史について知られている事実からすると、地球の環境は、有機的な調和のとれた「自然」どころではなかった。そこには、現在恐れられている程度の温暖化とは比較にならないほどの環境の激変がありました。私たちが眼前にしているものとは比べものにならないほどの徹底した生物の消滅(大量絶滅)もあったのです。それらはしかも、いずれも、偶発的な要因――惑星の衝突や進化の暴走――によって惹き起こされているものです。それは、私たちが無意識のうちに「自然」に投影している、調和的な再生産の場どころではないのです。人間がその野生の姿の中で、まどろんでいられるような場所でもない。とするならば、エコロジストたちが称揚している「自然」とは、それ自体、幻想なのです。

★ 調和的な「自然」を、自然の本来の姿として受け入れるということは、そのような「自然」を創造したり、与えたりした「神」を信じているのと同じことです。信仰しているという自覚とは関係なしに、「自然」を無条件で受け入れれば、それは、特定の内容をもった第三者の審級を受け入れ、信じているということなのです。

★ こうしたことを前提にして考えてみると、私たちが、とりわけ今日の科学技術の進展とともに直面している事態が、いかに根源的で、大きなことであるかが、露になってきます。それは(与件・前提としての)「自然」の消滅です。

★ 今日の自然科学、とりわけ生命科学の発展を、それが潜在的に目指していることまで延長してみれば、自然が、もはや神から与えられた条件ではなく、人間による反省的な選択(……)の産物となりうる、ということなのです。自然は、今や、あらかじめ存在していて、人間があとから消極的に介入する対象ではない。そうではなくて、自然そのものが人間の自覚的な構築の産物となりつつあるのです。

★ 生命科学者は、人間によって作られた新たな生命のことを「Life 2.0」と、まるでソフトウェアのように呼ぶのだそうです。ということは、もともとの自然の生命は、「Life 1.0」だったという認識を裏打ちするものです。かつて「自然/人工物」の間には、越境できないような、質的な区別がありました。しかしLife 1.0とLife 2.0の差は、ただのヴァージョンの違いに過ぎませんから、相対的で連続的な違いしかありません。

★ 科学的な知見に依拠すれば、事実を、第三者の審級はもはや機能していないという事実を直視することができるのでしょうか。実は、そうはならないのです。逆に、現代社会では、科学的な知見こそが、最も強力な、事実を否認するスクリーンになってしまうのです。どういうことでしょうか。最初の方で述べたように、リスク社会のリスクの多くは、それが生起する確率を原理的に計算することができません。たとえば、地球の生態系の壊滅の確率など、原理的に算定不能です。あるいは、先進国のど真ん中でテロが起きる確率も計算できるものではありません。

★ ところが、科学は、原理的に答がないことにも、回答しないわけにはいきません。科学が提起していることは仮説ですから、嘘ではない。科学が主張することは、どんなに信頼性の高い通説でも、仮説は仮説ですから、結局、この件に関して「仮説」であるということは特に問題にはなりません。むしろ、科学は、その予想に、「客観性」を標榜する評価を持ち込みます。科学は、原理的に不可能なものに、客観的とされるような何らかの回答を与える。このとき、人は、それに自らが望むものを読み込んでしまうのです。

★ そして、今日の講義でやや詳しく紹介したように、市場においても、科学(金融工学)が、<恐怖>を否認する道具として機能したことを思い出してください。CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)こそ、「第三者の審級の不在」を否認する、これ以上ないほど直接的な方法だったのです。最先端の(金融)科学的な裏付けをもった、<恐怖>否認の道具だった。

★ 奴隷は、自分の客観的真理を否認する限りで、死の恐怖の虜になっており、主人に隷属せざるをえません。これこそは、リスク社会の隠喩です。リスク社会は、第三者の審級(主人)がすでに撤退しているという真理を否認しようとしている社会です。

★ しかし、キリストの死は、第三者の審級の不在を勇気をもって引き受けることでした。

<大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社2011)>






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