<大澤真幸:“動物的/人間的”>
★ 人は知ろうとして探究する。しかし何を知りたいのか?何が探究の目標なのか?
★ 人が知ろうとしているもの、人の探究の最終的な目標、あらゆる学問の蓄積が最終的にそこへと向かって収斂していく場所、それは何か?自分自身である。
★ とするならば、人間のすべての知を規定している究極の問いとは、<人間とは何か?>にほかなるまい。一見したところでは、この問いに関係していないような知的探究の領域もある。素粒子の構造についての研究とか、金融政策の効果についての研究とか、特殊な素材の電気の伝導率についての実験等々と、われわれは、何でもかんでも、すべてを知ろうとしているように思われる。だが、こうした多様でばらばらな主題や諸分野も、畢竟、<われわれは何者なのか?><人間とは何か?>という謎へと迫るための多様な迂回路なのだ。もしわれわれがわれわれ自身が何者かを、何としてでも知ろうという強い情熱に取り憑かれていなければ、今日見るような多様な学問が発展することはなかっただろう。したがって、<人間とは何か>を直接に問うことは、あらゆる知の至高の主題であると言わなくてはならない。
★ ところで、「Xとは何か」という同一性についてのあらゆる問いは、ときに暗黙のうちに、ときに明示的に、差異を前提にしている。「Xとは何か」という問いは、常に「Xならざるもの」「非X」を念頭においた上で意味をもつ。<人間>について何であるかを問うとき、人間と対照させられている<間>は何であろうか?それは二つある。
★ 第一に、それは「神」である。人間を初めとするあらゆる地上的な存在者を越えた神(々)、超自然的な存在である神(々)との比較・対照において、われわれ人間とは何か?神(々)の前で、神(々)に対して人間とは何者なのか?第二に、それは、自然的存在者たち、とりわけ「動物」である。人間以外の動物種との対照において、人間とは何か?人間が他の自然的な存在者との比較において、どのような示差的な本質を有するのか?
★ 現代においては、神との差異を媒介にして人間を定義することの意義は、大幅に低下した。宗教が私的な信仰の領域に追いやられたからである。(……)この空隙は、すなわちかつて神との関係における人間という主題が占めていた、知の覇権の地位は、何によって埋められるのか?それは、当然、<間>のもう一つの項との差異を通じて<人間とは何か?>を問う探究であろう。
<大澤真幸『動物的/人間的 1.社会の起源』(弘文堂・現代社会学ライブラリー2012)>
<立岩真也:“私的所有論”>
★ 私は誰か、私達はどこから来たのかと問うのではなく、何が私のものとされるのか、何を私のものとするのかについて考えてみたい。例えば以下に列挙するいくつかの疑問や、矛盾や、抵抗。それがどこから来るのか。
① 一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。しかしなぜか。また、その人のものであれば、同意のもとでの譲渡(交換)は認められるはずだが、これも通常認められない。なぜか。
② 例えば代理出産の契約について。それを全面的によしと思えない。少なくとも、契約に応じた産みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。つまり、ここでは自己決定をそのまま認めていない。
③ ヒトはいつ生命を奪われてはならない人になるのかという問いがある。上で自己決定の論理で推し進めていくことをためらった私は、しかし、ここで女性の「自己決定」が認められるべきだと思う。
④ 私達は明らかに人を特権的な存在としている。しかしなぜか。人が人でないものが持たないものを持っているからだろうか。このように言うしかないようにも思われるが、私達は本当にそう考えているのか。また、それは③に記したこととどう関係するか、しないか。
⑤ 売れるもの=能力が少ないと受け取りが減る。あまりに当然のことだが、しかし、その者に何か非があるわけではない。こういうものを普通「差別」と言うのではないか。つまりそれはなくさなくてはならないもの、少なくともなくした方がよいものではないか。しかし、何を、どうやってなくすのか。それは可能か。
⑥ 他方で、私は能力主義を肯定している。第一に、私にとって価値のない商品を買わない。第二に、能力以外のもので評価が左右されてはならない場があると思う。しかし、能力原理は属性原理よりましなものなのか、そうだとすれば、なぜましなのか。また、第一のものと第二のものは同じか。
⑦ 生まれる前に障害のあるなし(の可能性)が診断できる出生前診断という技術があり、それは、現実には、障害がある(可能性がある)場合に人工妊娠中絶を行う選択的中絶とこみになっている。それを悪いと断じられないにしても、抵抗がある。
⑧ 「優生学」というものがある。遺伝(子)の水準に働きかけて人をよくする術だという。ならばそれはよいものではないか。少なくとも批判することの方が難しいように思われる。
★ これらは、一見多様な、散乱した問いに見える。しかし、このことをこの本で述べるのだが、これらはすべて同じ問いである――だから、一つの本の中で書かれねばならなかった。つまり、何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるものとして、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答なのだが、この答えはどんな答なのか。つまり私はこの本で、「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。
<立岩真也『私的所有論』(勁草書房1997)序>
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