Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ドレイの主体性(笑)

2013-07-13 12:38:18 | 日記

★ ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである。ドレイは、かれみずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮する。なぜなら、そのときかれは主観的にはドレイでないから。魯迅は「ドレイとドレイの主人はおなじものだ。」といっている。「暴君治下の臣民は暴君よりも暴である。」ともいっている。「主人となって一切の他人をドレイにするものは、主人をもてば自分がドレイに甘んずる。」ともいっている。ドレイがドレイの主人になることは、ドレイの解放ではない。しかしドレイの主観においては、それが解放である。

★ このことを、日本文化にあてはめてみると、日本文化の性質がよくわかる。日本は、近代への転回点において、ヨーロッパにたいして決定的な劣等意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨーロッパを追いかけはじめた。自分がヨーロッパになること、よりよくヨーロッパになることが脱却の道であると観念された。あらゆる解放の幻想がその運動の方向からうまれている。そして今日では、解放運動そのものがドレイ的性格を脱しきれぬほどドレイ根性がしみついてしまった。解放運動の主体は、自分がドレイであるという自覚をもたずに、自分はドレイでないという幻想のなかにいて、ドレイである劣等生人民をドレイから解放しようとしている。呼び醒まされた苦痛にいないで相手を呼び醒まそうとしている。だから、いくらやっても主体性が出てこない。つまり、呼び醒ますことができない。そこで与えられるべき「主体性」を外に探しに出かけていくことになる。

★ こうした主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している。放棄したことは、日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)抵抗を放棄した優秀さ、進歩性のゆえに、抵抗を放棄しなかった他の東洋諸国が、後進的に見える。日本文学の目で見ると中国文学がおくれてみえる。そのくせ、おなじように抵抗を放棄しなかったロシア文学は、おくれて見えない。つまり、ロシア文学がヨーロッパ文学を取り入れた面だけが見えて、ヨーロッパ文学に抵抗した面は見逃されている。ドストエフスキイにおける頑強な東洋的抵抗の契機は見逃されている。少なくとも、それがヨーロッパに反射してくるまでは、日本文学の肉眼に直接には映らない。トルストイがどんなにバカになろうとして苦しんだかは、その苦しみを体験せぬ日本文学には、ひとごとであって、自己の内部の問題にならない。だから、おなじ苦しみを苦しんだ魯迅を、そのものとしては理解しようとしない。両者に共通な抵抗の契機を見る統一的な目が欠けているのだ。

<竹内好“中国の近代と日本の近代”(『魯迅』)―『高校生のための批評入門』>







COSMIC DANCER

2013-07-13 11:38:40 | 日記


ぼくは12歳で踊った
ぼくは踊った
ぼくは子宮から踊り出た
そんなにはやく踊るなんて奇妙かな
ぼくは子宮から踊り出た

ぼくは8歳で踊った
そんなにおそく踊るなんて奇妙かな

ぼくは子宮の中へ踊り込んだ
そんなにはやく踊るなんて奇妙かな
ぼくは子宮の中へ踊り込んだ

わけわかんない
男のなかには恐怖が住んでいるのさ
風船みたいなもの
ぼくはそれを風船にたとえる

ぼくは子宮から踊り出た
そんなにはやく踊るなんて奇妙かな
ぼくは子宮の中へ踊り込んだ
さあそしてもう一度

ぼくは子宮から踊り出た
そんなにはやく踊るなんて奇妙かな
ぼくは子宮から踊り出た



I was dancing when I was twelve
I was dancing when I was ahh
I danced myself right out the womb
Is it strange to dance so soon
I danced myself right out the womb

I was dancing when I was eight
Is it strange to dance so late

I danced myself into the tomb
Is it strange to dance so soon
I danced myself into the tomb

Is it wrong to understand
The fear that dwells inside a man
What's it like to be a loon
I liken it to a balloon

I danced myself out of the womb
Is it strange to dance so soon
I danced myself into the tomb
But then again once more

I danced myself out of the womb
Is it strange to dance so soon
I danced myself out of the womb

<T.REX;COSMIC DANCER>







迷路の奥

2013-07-12 12:11:54 | 日記

★ 世の中にはどうしても相容れない矛盾した現象や考え方がある。たとえば、人類とは果たして理想の達成に向かって進歩する文明なのか、それとも破壊と蛮行を引き寄せる愚かな生き物なのか、といった正反対の見方の対立をとってみてもそうだ。双方での有力な証拠を提出し合えばそれぞれにいくらでも見つかることだろう。そのどちらによっても、一方の見方で断定しきることは不可能である。

★ あらゆる宗教は平和の大切さを説き、殺すなかれと教えているはずなのに、歴史上の戦争の大半は宗教の対立が原因ではないか。これもおかしなことである。また、技術文明が発達すればするほど人間生活は便利になっていくが、それ以上に、せわしく騒がしく苛立たしいばかりの暮らしになっていくようだ。だからといって今さら電気も乗り物もない生活に戻ることなどできはしない。どうしたものか……。

★ このような大問題でなくとも、たとえば私という人間は好ましい人間なのか、と自問してみるだけでも、私たちのだれもがたちまち言葉に窮して立ちすくんでしまうにちがいない。

★ 私たちの知性が陥りやすいひとつの落とし穴は、「問題」には必ず「答え」があると思い込みがちなことである。たえまなく問題を与えては「答え」を要求し続けた教育の影響かもしれない。答が見つからなければ、問題そのものを放棄するか、さもなければ無理に答えをつくってしゃにむに信じ込んでしまうという場合すら少なくない。答を出すことが“生産的”であって、従って答えの出せない割りきれない問題は“非生産的”で無益な問いだという感覚が、私たちに知らず知らず染みついてはいないだろうか。

★ だが本当は人間の精神が疑問を産み出すことじたいが、かけがえのない豊かさなのである。疑いを抱き、検討し、模索するその過程こそが、人間の精神の歩みなのだ。

★ もともと人間はみな違った個性と環境を生きている。融合しあえない他者との境界は厳然として私たちの周囲にある。矛盾を拒むということは他者を拒むことであり、対話を拒むことだ。

★ 古代ギリシアの哲学者プラトンは、理性的な思索を導く方法として常に対話(ダイアローグ)による検討を心がけた。さらに、ドラマ作りの基本は矛盾した対立する人物を配置することにある。人は、性的他者である男と女とから生まれる。……考えてみれば、他者との矛盾こそ創造の養分ではないか。

★ どんな筋の通った考えも独りよがりの一人言(モノローグ)にすぎないおそれがあるのだ。豊かな宝は、混沌や矛盾の迷路の奥に隠されている。

<“手帖4 矛盾を引き受ける”― 梅田・清水・服部・松川『高校生のための批評入門』(ちくま学芸文庫2012)>







“黙っていることは共犯である”

2013-07-09 13:37:17 | 日記

★ 現実政治の愚劣さを理由とする政治的無関心は、その意味で、「共通善(common good)」に対する倫理的義務の放棄の最たるもののひとつである。このような国民は自ら倫理的自己破産を宣言していることになる。

★ サルトルの言に曰く、「黙っていることは共犯である」。中世ヨーロッパの教会法においてもこれと同じ原則がすでに表明されていた。すなわち、「しなければならぬことをしないのは、してはならないことをするのと同じである」。不正を不正として批判することを怠るのは、その不正を自ら犯しているのと同じことなのである。

★ しかし、これとは逆に、政治への非常に強い社会的関心が特定の政権や政策を熱狂的に支持し、それに対する異論や反論の存在を許さないような状態も「共通善」に対する倫理的義務の放棄を意味する。なぜなら、そのような「熱狂」があらゆる討論を沈黙させるところでは、社会そのものが「暴君」となるからである。ジョン・スチュアート・ミルのいわゆる「多数による暴政」である。

★ このような「暴政」は為政者による「暴政」よりもある意味ではいっそう悪質である。なぜなら、こうした「暴政」は「生活の細部に食いこんで」各個人の「魂そのものを奴隷にしてしまい、これから逃れる手段をほとんど残さない」ために、社会を構成する大多数の個人によってはもはや認知されえないからである。そのような社会的暴政の下にあっては、たった一人を除く全員が同一意見で、その例外の一人だけが真理を語るとしても、その真理は誰によっても耳を傾けられることがない。国家権力がわざわざ軍隊や警察を差し向けなくても、「暴徒」と化した民衆によって「異分子」の口はふさがれてしまうことになる。

★ 以上のことをわれわれ現代日本人は肝に銘じなければならない。さもなければ、民主主義という「看板」はそのままでありながら、気がついたときには実質的に隷従の境涯に置かれることになりかねない。民主主義という看板があることは、民主主義が行われているということの保証にならない。そしてまた、民主主義という理念は「お守り」でもない。

★ いうまでもないことだが、権力担当者の側が自分の政治が「暴政」であるなどと自ら明言することなどありえない。権力者はあくまで自分の権力を正当化しようとするものである。指導者の顔を変え政府のイメージをメディア操作によって塗り替え、本来なら本格的議論を要する争点をも「言語明瞭意味不明瞭」なコトバで煙に巻いたり、それとは逆に「わかりやすいコトバ」や「歯切れのよい弁論」によって問題を極度に単純化してその場を切り抜けようとする。為政者は手を替え品を替え、不正な権力を正当化し、不正な権力行使を既成事実にしてしまうことを試みるものなのである。

★ このように自分の権力行使が「民主主義的」であるとどこまでも言いくるめようとする権力者に対して、被治者はその権力行使の正当性をつねに吟味しなければならない。そして、そのような吟味をいっそう鋭利なものとするために「識眼力」を磨かねばならない。「暴政」か否かは被治者が決めることであって、権力担当者自身が決めることではない。

★ したがって、われわれ現代日本人が知るべきは、自分が被治者の立場にあるにもかかわらず、それをものともせず、権力を厳重に監視し、不正であると考えられる権力には抵抗の意思を明示する義務があるということである。これもまた「倫理的義務」である。共通善に対する倫理的義務である。それは、政治という天下国家をめぐる問題に限らない。一企業内、一学校内、一地域内、およそ人間が構成するあらゆる公共的団体においてなされる不正一切についてもいえることである。

★ イギリスの経済史家R・H・トーニーは、古典的名著『宗教と資本主義の興隆』においてこう記した。「民主主義の基礎は、個人をしてこの世の権力に一人で立ちむかわせる勇気を与える、精神的な独立意識である」。この言葉をわれわれ現代日本人は繰り返し噛み締める必要があるのではないか。民主主義は単なる制度ではない。いわんや民主主義は「多数決」ではない。民主的な制度を運営する人間一人ひとりの思想が問題なのである。

★ 国家権力とは、いざとなれば、自国民に対してさえ銃口を向け、私有財産を没収し、個人のあらゆる権利と自由を侵害しうる存在である。このことを忘れては、「政治」のイロハも論じられないことを繰り返し銘記しなければならない。

<将基面貴巳『反「暴君」の思想史』(平凡社新書2002)>








一滴の血

2013-07-09 09:22:25 | 日記

★ 初夏の頃にためしにガラス張りの観光船にのってみると、船首にサーチライトがつけてあって、大構築物のあたりへくるとそれをふりむけ、ノートルダム寺院やルーブル美術館が夜空に浮きあがっては閃いて消えていくのだが、ときどきいたずらで河岸を照らしてみせることがある。すると胸壁のしたで陥没している二人組が一瞬見えて消える。ときにはズボンをおろしたアポロンにスカートをたくしあげたアマゾンがうちまたがっているのが見える。アマゾンは光茫を浴びせられても恥じも臆しもせず、白い歯を見せて晴朗に高笑いし、こちらをふりかえってちょっと手をふってみせたりする。その白い、みごとな臀に光輝が衝突して、まるで蒼白い青銅の果実のようである。

★ マロニエの枯れ葉が老人の掌のようになって道を走っていくのは冬の間によく見たが、おなじ木から雪が初夏に飛ぶとは知らなかったので、私はポン・ヌフの島の先端に腰をおろして釣りをしながら、黄濁した水のゆっくりとした流れに小人国のパラシュート部隊がつぎつぎと消えていくのを眺めていた。石で畳んだ岸の水ぎわに緑いろのべとべとした藻がついているが、それをとってきて小さく丸めて鉤のさきにつけるといいのだと釣師に教えられて、私は日本から持ってきたハヤ釣の鉤に藻の団子をつけてみたのだが、どうしてか、グウジョンもガルドンも食ってくれない。釣ったら一匹のこらず逃がしてやろう。そのときは“アデュウ!”といおうか。“オルヴォワール!”といおうか。それとも“ちきしょう!”といおうか。科白をあれやこれやと考えてあるのだが、いっこうに食ってくれない。河岸のペット屋へいって金魚の餌にするアカムシとアスティコ(ウジ虫)も買ってきてやってみたのだが、やっぱり食ってくれない。

★ 私は釣りに心を集中していない。プラハへいこうか。サイゴンへいこうか。東か、南かと迷っている。プラハではソヴィエトの戦車が行進し、サイゴンには北ヴェトナム正規軍と解放戦線が二月と五月につぐ第三波の総攻撃をかけるという噂がある。どちらへいったらいいか。誰にたのまれたのでもないが、ここにこうしてはいられないが、どちらへいったらいいか。どうしたらいいか。水は流れていくが私はとらわれていて、漂っているはずなのにこわばっている。

★ 水銀を散らしたように淡い陽がキラキラ輝くなかを白い綿毛がとめどなくかすめていく。対岸のアパルトマンは垢を洗いおとされて史前期の巨獣の骨をつみかさねたようだが、どうしてかそこに一つだけ窓があいている。それが頭蓋骨の眼窩のように暗い。そこに真紅の血が一滴輝いている。声もなく輝いている。茸のように輝いている。
ゼラニウムが咲いているのだ。

<開高健『眼ある花々』(中公文庫1975)>







伝達不能

2013-07-07 14:00:21 | 日記

★ 本当に存在するものは何だろうか?
私の「今・ここでの体験」だろうか?それとも、他人からみた「物質としての脳」だろうか?もちろん、両方だろう。ところが、そう言った瞬間、「私の」体験と「他人からみた」脳を結ぶメカニズムが知りたくなる。しかし、他人からみた世界、三人称で語られる客観的物理的世界では、脳は複雑な回路にすぎない。そこに一人称の世界、「私」に体験できる質(クオリア)を「生み出す」機構は今のところ見つからず、今後も分からない。

★ 「脳」というのは、三人称的世界、つまり、誰でもその内容に同意できるとされる客観的世界にある。一方、クオリアや私的体験は、伝えられない・その手触りを伝達不能という意味で、基本的に一人称的、主観的なものだ。「痛い」と言うことは簡単だ。が、「私の痛み」というクオリアを伝える方法はない。だから、クオリアというのは極度に一人称的で、秘密の世界を含意してしまう。また、今のような例示以外で、「クオリア」という言葉の「使い方」を教えるのは難しいだろう。

★ そして、いわゆる「心身問題」が、この二つの世界、「三人称的世界=脳」と「一人称的世界=クオリア」の間に現われる。つまり、(物質としての)脳は、いかに(体験としての)クオリアを生み出すのか?という疑問だ。恐らく、非常に素朴な意味での「心身問題」は、このような流れで出てくる。

<西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社選書メチエ2011)>








“やさしいおじいさん”の死

2013-07-04 15:16:55 | 日記

★ 「昭和天皇」は、80年代末の日本人、とりわけ若い世代にとってどのような存在であったのか――。筆者ら調査チームは、89年1月7日から数日間、皇居前広場に記帳に訪れた人びとを対象にインタビュー調査を行った。筆者らが訊ねたのは、「天皇の死」についての感想や記帳にきた動機、皇室イメージとメディアの関係、家族内での天皇についての会話、「自粛」騒ぎについての感想などであったが、昭和天皇のイメージについては、いくつかのはっきりとした世代差が示された。

★ 高齢の世代の場合、「天皇と自分は、いっしょに戦ってきた」という発言が示すように、天皇への思いを本人の戦中・戦後体験と結びつける傾向が顕著であった。彼らにとって、天皇の死は「昭和」の終わりであり、自分たちの人生がずっとそこにあった場所の喪失を意味していた。これに対して若い世代の場合、「天皇はやさしいおじいさん」という発言にみられる「天皇=祖父」イメージが支配的であった。つまり、前者にとっては天皇が同時代的存在であるのに対し、後者には家族的存在として受けとめられていた。そしてこの「天皇=祖父」は、決して家父長として君臨する「祖父」ではなく、「死んでしまって淋しい」「こんなところ(皇居)に閉じ込められちゃってかわいそう」といった発言にもあるように、家族の片隅で存在感を消しながら受け入れてもらっている祖父といった感があった。

★ このような80年型の天皇イメージの形成において、メディアの果した役割が決定的に大きかった。戦後メディアのなかでの「天皇/皇室」のイメージの変遷を振り返るならば、①全国を巡幸する人間天皇がせりあがってくる1940年代後半から50年代半ばまで、②天皇よりも皇太子と皇太子妃に関心が集中する50年代末から60年代にかけて、③「革新」気分のなかで天皇への関心が弱まった60年代末から70年代にかけて、④再び昭和天皇が、今度は一家の片隅にたたずむ「やさしい祖父」として再浮上してくる80年代という、およそ4期にわけることができる。この最後の段階で、「やさしい祖父」のイメージは、10代の若者にも受け入れやすいものになった。そしてこれは、同時代の日本人の天皇に対する態度ともほぼ合致しており、「昭和」はそれ自体、この「祖父」イメージにピン止めされていたのである。

★ したがって、「天皇の死」は、そうした家族的に想像される「祖父の死」でもあった。この家族=国民は、「祖父」を喪うことで「昭和」という国民国家的な時空間から解き放たれた。それは、それまで連続体として想像されてきた国民共同体が不安定化していくことを予感させた。「昭和」から「平成」への移行は、単なる元号の変化ではない。「昭和」の終わりは、ある国民共同体の時代の終わりであった。その後に来る「平成」は、その字義上の意味とは正反対に、それまで「天皇=祖父」によってピン止めされていた自己意識が、大きく拡散と統合の間で揺れ動き、分裂ないしは空洞化していく可能性を孕んでいた。

<吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>







Tomorrow is a long time

2013-07-04 12:53:02 | 日記

★ Tomorrow is a long time:Bob Dylan

もし今日が果てしないハイウェイでなく
もし今夜が曲がりくねった小道でなく
もし明日がこんなに遠くなかったら
寂しさになんの意味もないだろう
そう、真実の恋人が待っていてくれさえすれば
そして彼女の心臓のやさしい鼓動がきこえさえすれば
彼女がぼくのそばによこたわっていさえすれば
ぼくもまたベッドで休むことができる

ぼくの影が水にうつるのを見れない
くるしまずに話すことができない
自分の足音のエコーを聞くことができない
自分の名前のひびきが思い出せない
けれど、真実の恋人が待っていてくれさえすれば
そして彼女の心臓のやさしい鼓動がきこえさえすれば
彼女がぼくのそばによこたわっていさえすれば
ぼくもまたベッドで休むことができる

河には銀色の歌の美がある
空には日の出の美がある
けれどもこれらの美も
ぼくの思い出にある恋人の眼にはおよばない
そう、真実の恋人が待っていてくれさえすれば
そして彼女の心臓のやさしい鼓動がきこえさえすれば
彼女がぼくのそばによこたわっていさえすれば
ぼくもまたベッドで休むことができる


If today was not an endless highway,
If tonight was not a crooked trail,
If tomorrow wasn't such a long time,
Then lonesome would mean nothing to you at all.
Yes, and only if my own true love was waitin',
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin',
Only if she was lyin' by me,
Then I'd lie in my bed once again.

I can't see my reflection in the waters,
I can't speak the sounds that show no pain,
I can't hear the echo of my footsteps,
Or can't remember the sound of my own name.
Yes, and only if my own true love was waitin',
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin',
Only if she was lyin' by me,
Then I'd lie in my bed once again.

There's beauty in the silver, singin' river,
There's beauty in the sunrise in the sky,
But none of these and nothing else can touch the beauty
That I remember in my true love's eyes.
Yes, and only if my own true love was waitin',
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin',
Only if she was lyin' by me,
Then I'd lie in my bed once again.







岸辺のアルバム

2013-07-03 12:47:20 | 日記

★ 果てしなく拡大した郊外は、戦後核家族の「幸せなマイホーム」が演じられる舞台であると同時に、そのようなドラマが内側から崩壊していく現場でもあった。知られるように、このような多幸症的危機こそすでに77年、山田太一のテレビドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系、1977年)で取り上げられたテーマであった。

★ このドラマでは、多摩川べりの新興住宅地に住んでいる会社一筋の商社マンの夫とその妻、大学生の娘と予備校通いの息子の四人家族が主人公であった。まさしく典型的な郊外家族のなかで、静かに家庭崩壊が進行していく。夫は会社に言われるまま売春を斡旋し、妻は毎日の生活の空しさから不倫に走り、娘は外国人英会話教師に強姦される。息子は家族の荒んだ秘密を知って思い悩み、最後にすべてを暴露する。そんな崩壊のクライマックスで、実際に起きた台風による多摩川の氾濫が題材にされ、家族が築きあげてきた家屋は濁流にのみ込まれていく。山田はこれに続き、79年の『沿線地図』をはじめ、いくつもの作品で郊外住宅でのさまざまな「崩壊」を取り上げ、80年代のトレンディドラマが反転させていく現実の底にあった社会変化をえぐりだしていった。

★ しかし、70年代以降の家族の分解は、テレビドラマに描かれたような劇的なかたちでなくても、より日常的な過程として生じてもいた。実際、コミュニケーション構造のレベルからこの傾向を促してきたのは、新しい個人志向のメディアの生活空間への侵入である。

★ この動きは、すでに70年代からの家庭での電話の使い方の変化に現われていた。(・・・)『岸辺のアルバム』でも、八千草薫の演じる妻が、不倫に走るきっかけとなるのが電話口からの見知らぬ声であった。つまり電話は、声という次元で家庭が外の社会と交わる出入口をかたちづくる。当初、このような「戸口=窓」としての電話が、しばしば物理的にも家庭が社会と接する玄関口に置かれていったことには理由があったわけで、共同体としての家族は、このようにして外部の社会との接点を空間的に限定することにより、見知らぬ他者が家庭のなかにどこからでも入れるようになるのを制限しようとしていた。

★ ところが、この電話の位置が、電話利用の日常化とともに、しだいに応接間や台所、リビングルームへと移動し、やがて親子電話やコードレス電話といった機能的拡充に伴い、電話は両親の寝室や子ども部屋にも置かれ、個人を直接、外部の他者と結合し始める。(・・・)「幸せなマイホーム」は、「私の部屋の電話」が増殖するなかで、多数の個室の集合体へと変容していくのである。

★ かつて電話が住居の境界部に置かれたとき、このメディアは外部からやって来る異物であった。ところが80年代、若者たちは、メディアを通じて最も親密な世界を形成し始めていた。物理的な生活の場よりもメディアを通じたコミュニケーションの方が、私的世界のリアリティを支える基盤として感じられ始めていた。

★ 70年代末、このような現実感覚の反転を先駆けて示したのはソニーのウォークマンである。(・・・)ウォークマンをかけている一人ひとりは、たしかにその場所にいるのだが、まるでもうそこにはいないかのように存在している。

<吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>







女たち

2013-07-02 13:07:15 | 日記

★ よく知られるように、ウーマン・リブは学生運動に巣くうセクシズム――高らかに世界革命を叫びながら女性を銃後のハウスキーパーとしてしかみなしていない新左翼の欺瞞、男女の権力の非対称性を二次的な問題としてしか認識することのできない自称ラディカルたちの能天気ぶり――を徹底的に暴き出した。「新左翼の極まった現実の中で、女は殺されてゆくのだ。どの党派も、その本質に変わりはない」という新左翼への絶望と、女性であることの肯定から、リブという思想-実践は立ち上がった。

★ 田中(美津)の議論も、そうしたリブ的な思考空間のなかから「自己否定の論理」が隠し持つマスキュリニズム(男性中心主義)を問題化したものといえるだろう。しかし注意すべきは、それがたんにエリート学生のセクシズムを指弾しただけのものではないということだ。田中は、《自己のポジショニングに向かい合い、自らの欺瞞を真摯に反省する》という自己否定の素振りそのものが持つ暴力性、つまり「60年代的なるもの」が内包する暴力性を根底から批判しているのである。「ああ、東大生というのは、自己肯定しえるものをもっていたから、あんなにラディカルに、「自己否定の論理」を打ち出せたのだなあ、と今さらながらに思い当たったというわけだ」(田中美津『いのちの女たちへ』)。リブは、たんなる「新左翼の女性部門」だったのではない。それは、新左翼によって体現されるような反省の思想、連合赤軍の総括によってグロテスクな形で純化されていくような思想の脱構築を図る、きわめつきにラディカルな思想実践だったのである。

★ 田中は、永田洋子に誘われて山岳ベースにまで足を運んだことがあるらしい。それは「60年代的なるもの」の鬼っ子と、「60年代的なるもの」の解体者が邂逅した奇跡的な一瞬であったといえるだろう。先にも述べたように、永田は革命左派の実践のなかに「婦人解放」の契機を見いだそうとしていた。しかし、彼女の性や恋愛に対する古風な感覚は、不幸にも森恒夫の女性恐怖症――性愛を抑圧することによって、革命戦士の身体性の獲得を目指す――と共振し、自己否定すべきものを持たないという田中=リブの「便所からの解放」思想とすれ違ってしまう。女性解放を目指した二人の「同志」は、自己否定の極限化/自己否定の拒絶というまったく異なった道筋をたどり、70年代初頭を迎えることとなったのだ。

★ 「60年代的なるもの」の極点と限界が一挙に現われた1971、1972年。このあたりを境に学生運動は退潮し、団塊世代は日常へと帰還していく。しかし、と同時に、連赤事件以降の70年代は、60年代的な反省の形式をリブとは異なる形で批判していくこととなる。「自己否定」的な反省の形式に対する「抵抗としての無反省」である。永田や坂口が事件の総括に勤み、中核派と革マル派の内ゲバがエスカレートするなか、後に「シラケ世代」と呼ばれることとなるポスト団塊の若者たちは、あたかも連赤事件などなかったかのように世界を相対化し、80年代を用意していく。

<北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス2005)>








文脈を理解する

2013-07-02 12:08:30 | 日記

★ 現象それ自体に密着した記述が「薄い記述」なのですから、フィールドワーカーがまず行うべきことは、その「薄い記述」で言い表されるふるまいを、その記述のままにとどめておかないで、「によって関連」の階梯を上位にのぼった記述に書き換えてゆくことです。「話している」ではなく、話すことによって「教えている」ということ。「牛を叩いている」ではなく、叩くことによって「牛を眠らせている」ということ。「片方のまぶたを動かしている」ではなく、そうすることによって「ウィンクをしている」ということ。いずれの記述も、「によって関連」の階梯をのぼり、包括度の高いものにするためには、そうした記述に何らかの意味を与えている文化的背景に習熟する必要があります。

★ さらにそれに加えて、例えば「教えている」と記述できそうなあるふるまいが、果たして文字通りに「教えている」ふるまいなのか、それとも「教えるふりをしている」のか、あるいは「教える練習をしている」のか、などなど、ということを把握できなければなりません。それができるためには、「教える」という記述が当該文化でもつ意味の把握に加えて、そのふるまいがなされた現場において、誰が誰に対して、どのような意図でどのようなふるまいをどのように行っているのかという状況を把握することが必要であり、その誰と誰とがどのような関係を築いているかについての知識が必要です。

★ 文化人類学においてフィールドワークという経験は避けて通ることのできないものですが、それは実際に現地に赴いて現地の人々と生活をともにすることによって、その人々のふるまいを幾重にも取り巻いている重層的な文化的・社会的な文脈にアプローチし、それを解きほぐすことができるからです。それによって、包括度の低い記述は包括度の高い記述へと書き換えられ、「薄い記述」は「厚い記述」へと書き換えられてゆくのです。そのためには、あるふるまいを現象に密着したかたちで、見えたままに記述していたのではいけないということに気づかなくてはなりません。そして、ひとたび自分が与えた記述よりも、より包括度の高い記述や、より「厚い」記述がその場のふるまいの記述としては妥当性をもつという可能性に、常に自分自身を開いていなくてはなりません。

<森山工“ふるまいと記述―文化人類学の異文化理解”―『高校生のための東大授業ライブ』>








人類最古の麺

2013-07-01 14:48:24 | 日記

★ では、この人々の暮らしが悲惨なのか、というと、私は全然そうは思いません。それどころか、とても快適なのです。木が生えていなくて、旱魃に苦しみ、雨が降ったら洪水が起きて、村人が貧困にあえいで、出稼ぎに行って苦しい労働を強いられるような、そんな村が快適だというのは、悪い冗談のように思うかもしれません。しかし、私は心からそのように思っています。

★ その快適さの要因のひとつは、「窰洞(ヤオトン)」と呼ばれる独自の住居にあります。これは、黄土の特性を巧みに生かすことで、地元でとれる石をアーチ状に組み上げて、それの上に厚く黄土を積み上げて作るトンネル状の美しい建築物です。土にとりかこまれているため、保温や保湿に優れ、夏に涼しく冬に暖かいという特徴があります。

★ 窰洞の前面は、上部が窓になっている木製の門で蓋をしてあります。この窓の部分の細工は見事なもので、夜になると窰洞の中の電灯でそのシルエットが浮かび上がります。谷のあちこちに、このシルエットが浮かび上がる様子はなかなかの見ものです。

★ 料理は竈(かまど)でやります。竈にはものすごく大きな丸い鍋が埋め込んであり、全ての料理をこの鍋でやります。ふいごをつかって空気を送り込んで石炭を焚くので、高温が得られます。料理となると家族全員がとりかかり、鍋に材料を入れる人、ふいごを操作する人、材料を混ぜる人などと自然に分業がなされます。(・・・)朝、目覚めたときに、朝ごはんを作るためのふいごの音を聞くのは、なんとも言えない心地よいものです。ある学生は「窰洞が呼吸しているみたいです」と美しく表現してくれました。

★ 食事はみんなで食卓を囲むということはありません。ご飯とおかずをひとつの丼に入れて、各人、思い思いの場所で立ったりしゃがんだりして食べます。最初はえらく行儀が悪いなと思ったのですが、一度やってみると、料理を持って窰洞の前庭から谷を見下ろし、山を見上げ、村の音を聞きながら食べると、非常においしくなることに気づきました。(・・・)皆さんにぜひお伝えしたいのですが、「家族団欒」などと言って、毎回きちんとテーブルに座って、見飽きた親兄弟の顔をながめながら食事するというのは、必ずしも良い食べ方とは限らないのです。

★ 黄土高原の村の「名物」といえば、「ハーラオ」と呼ばれる麺です。小麦粉を練ったものを、底にたくさんの小さな穴の開いた筒から押し出して、それを茹でて作る麺です。黄土高原は麺類の発祥地ではないかと言われていて、現在のハーラオを作るための器械と同じ形をした古い木製の器具が発掘されているそうです。ハーラオは人類最古の麺とさえ言われます。この麺にトマトペースト、唐辛子、自家製の酢、葱、ゴマなどをかけて食べるのが、この地域の最高のご馳走です。私はこれが大好きで、これを食べるために研究していると言ってもいいくらいです。

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