Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

選挙ビジネス

2013-07-19 12:12:47 | 日記

ぼくは最近(だいぶ前から)自分の意見をこのブログに書かない(書けない)

たいして自分には“自分の意見”がないことが(この歳になって!)わかったからであるが、<引用>を続けることも(ある意味では)自己の表明でありうると、考える。

さて、あさっての“選挙”であるが、ぼくはもともと選挙が好きでなく、近年ますます投票に行きたくない。
しかし、イヤだが棄権はしないことにする。

自分が“投票したいひと”が皆無であっても、多数を集めていい気になっているバカどもに従わない意思を表明するためである。

さて、政治家と同じくらい不快な“メディア”について今日の天木直人ブログが書いているので、引用する;


<選挙で一番得をするメディアのマッチポンプ>
 
★ つまらない参院選挙がまもなく終わる。
そんなつまらない参院選でも連日大騒ぎして報道するテレビや新聞を見ながら私はつくづく思った。
政治をつまらなくさせたのはメディアの政局報道であり、その結果今度の参院選もかつてないほどつまらなくなった。
それにも拘わらず各局とも選挙報道を競い合い、今度の選挙は日本の政治の将来を決める重要な選挙と繰り返す。
だから有権者は選挙に行こうと連呼する。
しかしメディアが本気で日本の政治を憂え、今度の選挙が重要だと本気で思っているのだろうか。
決してそうではないだろう。
それではなぜメディアはそんなに騒ぐのか。

その事を見事に見抜き、そしてそんなメディアの政治報道を批判する記を見つけた。
きょう7月19日発売の週刊ポスト8月2日号に掲載されている「大新聞・テレビの『選挙ビジネス』」という特集記事がそれである。
これは常日頃からメディアの政治報道はくだらないと感じてきた者にとっては必読の記事である。

政党・政治家はメディアの報道に敏感である。ましてや選挙ともなるとメディアは格好の宣伝媒体だ。
そこで各党、政治家がこぞってメディアに広告を競い合う。
この費用は全部で約100億円という。
その原資は政党交付金などの税金がほとんどだ。
これを要するにメディアは選挙のたびごとに選挙報道を通じて我々の税金から100億円を分捕り合戦しているのだ。
政治評論家や政治記者OB、タレントたちは、その片棒を担いで、これまた稼いでいることになる。
政治メディアはマッチポンプである。

政局をつくり、煽り立て、そして政治がつまらなくなったら、なったで、騒ぎ立て、そして視聴率を上げる。
視聴率の上がった局には各党、各政治家が広告を出したがる。
かくして選挙ビジネスは花盛りだというわけだ。

参院選が終われば、メディアは、今度は政界再編を騒ぎ立て、そして次の選挙に備える。
そんな政治メディアこそ政治を悪くした元凶だ、そう週刊ポストの記事は教えてくれているのである(了)

(天木直人ブログ 2013/7/19)







“おもしろい”とは?

2013-07-19 11:41:57 | 日記

★ ぼくにとって小説というものの定義はきわめて明瞭だ。「最後の一行に向かってゆっくりと導かれていくもの」、それが小説だ。これはもっとやさしく言ってしまえば、「理由はよくわからないが、なんとなくおもしろくて気がつけば最後まで読んでしまったという、そういうもの」ということになる。

★ しかし、この「最後まで」というのがクセモノで、読み手はつねに途中で読み飽きる可能性を持っている。
人はいつ飽きるのか?飽きるのにどれくらいの時間がかかるのか?
人は、いや、ぼくは――ぼくはいつだって突然飽きる。ぼくは一分もしないうちに飽きている。

★ ある種の人がぼくに向かって熱心にしゃべっていても、ぼくはたいてい話のはじまりのところで飽きていて、それから先は聞いていない。その人は自分のしゃべっていることが、聞き覚えのある紋切型ばかりで的はずれの一般論でしかないことに気づいていない。その人のしゃべることには、彼独特の身体性の反映もないし、言葉への感受性もない。そして、ぼくがとっくに飽きていることにも気づいていないから、突飛な身振りや発声でぼくを不意打ちすることもない。

★ これは小説を読むときも同じで、ぼくは読みはじめた小説をほとんど読み通したことがない。いわゆる「おもしろい読み物」でもぼくはまず間違いなく飽きて放り出す。おもしろいと言われているものはパターンが同じで、そのパターンの同じことに飽きる。よく知っているセンチメンタリズムにも飽きるし、よく知っている悲しみにも飽きる。よく知っているものには必ず飽きる。作家はほとんどの場合、よく知っていることに鈍感すぎる。そして読み手はそれに媚びてよく知っていないふりにつき合う。

★ だからぼくの読む気が持続するのは、「よく知っていない何か」が書かれているときだけなのだが、「よく知っていない何か」はじつは単純におもしろいと感じることができない。不馴れなものは感じ方がわからないものなのだ。しかし、それに戸惑いながらそれでも最後の一行にぼくを導く何かが感じられるもの、ぼくにとって小説とはそういうもので、ぼくはそういう小説しか読み通さない。「よく知っていない何か」は、いつも特異なディスクールによって語られている。

<保坂和志『アウトブリード』(河出文庫2003)>