Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

文脈を理解する

2013-07-02 12:08:30 | 日記

★ 現象それ自体に密着した記述が「薄い記述」なのですから、フィールドワーカーがまず行うべきことは、その「薄い記述」で言い表されるふるまいを、その記述のままにとどめておかないで、「によって関連」の階梯を上位にのぼった記述に書き換えてゆくことです。「話している」ではなく、話すことによって「教えている」ということ。「牛を叩いている」ではなく、叩くことによって「牛を眠らせている」ということ。「片方のまぶたを動かしている」ではなく、そうすることによって「ウィンクをしている」ということ。いずれの記述も、「によって関連」の階梯をのぼり、包括度の高いものにするためには、そうした記述に何らかの意味を与えている文化的背景に習熟する必要があります。

★ さらにそれに加えて、例えば「教えている」と記述できそうなあるふるまいが、果たして文字通りに「教えている」ふるまいなのか、それとも「教えるふりをしている」のか、あるいは「教える練習をしている」のか、などなど、ということを把握できなければなりません。それができるためには、「教える」という記述が当該文化でもつ意味の把握に加えて、そのふるまいがなされた現場において、誰が誰に対して、どのような意図でどのようなふるまいをどのように行っているのかという状況を把握することが必要であり、その誰と誰とがどのような関係を築いているかについての知識が必要です。

★ 文化人類学においてフィールドワークという経験は避けて通ることのできないものですが、それは実際に現地に赴いて現地の人々と生活をともにすることによって、その人々のふるまいを幾重にも取り巻いている重層的な文化的・社会的な文脈にアプローチし、それを解きほぐすことができるからです。それによって、包括度の低い記述は包括度の高い記述へと書き換えられ、「薄い記述」は「厚い記述」へと書き換えられてゆくのです。そのためには、あるふるまいを現象に密着したかたちで、見えたままに記述していたのではいけないということに気づかなくてはなりません。そして、ひとたび自分が与えた記述よりも、より包括度の高い記述や、より「厚い」記述がその場のふるまいの記述としては妥当性をもつという可能性に、常に自分自身を開いていなくてはなりません。

<森山工“ふるまいと記述―文化人類学の異文化理解”―『高校生のための東大授業ライブ』>








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