Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“黙っていることは共犯である”

2013-07-09 13:37:17 | 日記

★ 現実政治の愚劣さを理由とする政治的無関心は、その意味で、「共通善(common good)」に対する倫理的義務の放棄の最たるもののひとつである。このような国民は自ら倫理的自己破産を宣言していることになる。

★ サルトルの言に曰く、「黙っていることは共犯である」。中世ヨーロッパの教会法においてもこれと同じ原則がすでに表明されていた。すなわち、「しなければならぬことをしないのは、してはならないことをするのと同じである」。不正を不正として批判することを怠るのは、その不正を自ら犯しているのと同じことなのである。

★ しかし、これとは逆に、政治への非常に強い社会的関心が特定の政権や政策を熱狂的に支持し、それに対する異論や反論の存在を許さないような状態も「共通善」に対する倫理的義務の放棄を意味する。なぜなら、そのような「熱狂」があらゆる討論を沈黙させるところでは、社会そのものが「暴君」となるからである。ジョン・スチュアート・ミルのいわゆる「多数による暴政」である。

★ このような「暴政」は為政者による「暴政」よりもある意味ではいっそう悪質である。なぜなら、こうした「暴政」は「生活の細部に食いこんで」各個人の「魂そのものを奴隷にしてしまい、これから逃れる手段をほとんど残さない」ために、社会を構成する大多数の個人によってはもはや認知されえないからである。そのような社会的暴政の下にあっては、たった一人を除く全員が同一意見で、その例外の一人だけが真理を語るとしても、その真理は誰によっても耳を傾けられることがない。国家権力がわざわざ軍隊や警察を差し向けなくても、「暴徒」と化した民衆によって「異分子」の口はふさがれてしまうことになる。

★ 以上のことをわれわれ現代日本人は肝に銘じなければならない。さもなければ、民主主義という「看板」はそのままでありながら、気がついたときには実質的に隷従の境涯に置かれることになりかねない。民主主義という看板があることは、民主主義が行われているということの保証にならない。そしてまた、民主主義という理念は「お守り」でもない。

★ いうまでもないことだが、権力担当者の側が自分の政治が「暴政」であるなどと自ら明言することなどありえない。権力者はあくまで自分の権力を正当化しようとするものである。指導者の顔を変え政府のイメージをメディア操作によって塗り替え、本来なら本格的議論を要する争点をも「言語明瞭意味不明瞭」なコトバで煙に巻いたり、それとは逆に「わかりやすいコトバ」や「歯切れのよい弁論」によって問題を極度に単純化してその場を切り抜けようとする。為政者は手を替え品を替え、不正な権力を正当化し、不正な権力行使を既成事実にしてしまうことを試みるものなのである。

★ このように自分の権力行使が「民主主義的」であるとどこまでも言いくるめようとする権力者に対して、被治者はその権力行使の正当性をつねに吟味しなければならない。そして、そのような吟味をいっそう鋭利なものとするために「識眼力」を磨かねばならない。「暴政」か否かは被治者が決めることであって、権力担当者自身が決めることではない。

★ したがって、われわれ現代日本人が知るべきは、自分が被治者の立場にあるにもかかわらず、それをものともせず、権力を厳重に監視し、不正であると考えられる権力には抵抗の意思を明示する義務があるということである。これもまた「倫理的義務」である。共通善に対する倫理的義務である。それは、政治という天下国家をめぐる問題に限らない。一企業内、一学校内、一地域内、およそ人間が構成するあらゆる公共的団体においてなされる不正一切についてもいえることである。

★ イギリスの経済史家R・H・トーニーは、古典的名著『宗教と資本主義の興隆』においてこう記した。「民主主義の基礎は、個人をしてこの世の権力に一人で立ちむかわせる勇気を与える、精神的な独立意識である」。この言葉をわれわれ現代日本人は繰り返し噛み締める必要があるのではないか。民主主義は単なる制度ではない。いわんや民主主義は「多数決」ではない。民主的な制度を運営する人間一人ひとりの思想が問題なのである。

★ 国家権力とは、いざとなれば、自国民に対してさえ銃口を向け、私有財産を没収し、個人のあらゆる権利と自由を侵害しうる存在である。このことを忘れては、「政治」のイロハも論じられないことを繰り返し銘記しなければならない。

<将基面貴巳『反「暴君」の思想史』(平凡社新書2002)>








一滴の血

2013-07-09 09:22:25 | 日記

★ 初夏の頃にためしにガラス張りの観光船にのってみると、船首にサーチライトがつけてあって、大構築物のあたりへくるとそれをふりむけ、ノートルダム寺院やルーブル美術館が夜空に浮きあがっては閃いて消えていくのだが、ときどきいたずらで河岸を照らしてみせることがある。すると胸壁のしたで陥没している二人組が一瞬見えて消える。ときにはズボンをおろしたアポロンにスカートをたくしあげたアマゾンがうちまたがっているのが見える。アマゾンは光茫を浴びせられても恥じも臆しもせず、白い歯を見せて晴朗に高笑いし、こちらをふりかえってちょっと手をふってみせたりする。その白い、みごとな臀に光輝が衝突して、まるで蒼白い青銅の果実のようである。

★ マロニエの枯れ葉が老人の掌のようになって道を走っていくのは冬の間によく見たが、おなじ木から雪が初夏に飛ぶとは知らなかったので、私はポン・ヌフの島の先端に腰をおろして釣りをしながら、黄濁した水のゆっくりとした流れに小人国のパラシュート部隊がつぎつぎと消えていくのを眺めていた。石で畳んだ岸の水ぎわに緑いろのべとべとした藻がついているが、それをとってきて小さく丸めて鉤のさきにつけるといいのだと釣師に教えられて、私は日本から持ってきたハヤ釣の鉤に藻の団子をつけてみたのだが、どうしてか、グウジョンもガルドンも食ってくれない。釣ったら一匹のこらず逃がしてやろう。そのときは“アデュウ!”といおうか。“オルヴォワール!”といおうか。それとも“ちきしょう!”といおうか。科白をあれやこれやと考えてあるのだが、いっこうに食ってくれない。河岸のペット屋へいって金魚の餌にするアカムシとアスティコ(ウジ虫)も買ってきてやってみたのだが、やっぱり食ってくれない。

★ 私は釣りに心を集中していない。プラハへいこうか。サイゴンへいこうか。東か、南かと迷っている。プラハではソヴィエトの戦車が行進し、サイゴンには北ヴェトナム正規軍と解放戦線が二月と五月につぐ第三波の総攻撃をかけるという噂がある。どちらへいったらいいか。誰にたのまれたのでもないが、ここにこうしてはいられないが、どちらへいったらいいか。どうしたらいいか。水は流れていくが私はとらわれていて、漂っているはずなのにこわばっている。

★ 水銀を散らしたように淡い陽がキラキラ輝くなかを白い綿毛がとめどなくかすめていく。対岸のアパルトマンは垢を洗いおとされて史前期の巨獣の骨をつみかさねたようだが、どうしてかそこに一つだけ窓があいている。それが頭蓋骨の眼窩のように暗い。そこに真紅の血が一滴輝いている。声もなく輝いている。茸のように輝いている。
ゼラニウムが咲いているのだ。

<開高健『眼ある花々』(中公文庫1975)>