Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

岸辺のアルバム

2013-07-03 12:47:20 | 日記

★ 果てしなく拡大した郊外は、戦後核家族の「幸せなマイホーム」が演じられる舞台であると同時に、そのようなドラマが内側から崩壊していく現場でもあった。知られるように、このような多幸症的危機こそすでに77年、山田太一のテレビドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系、1977年)で取り上げられたテーマであった。

★ このドラマでは、多摩川べりの新興住宅地に住んでいる会社一筋の商社マンの夫とその妻、大学生の娘と予備校通いの息子の四人家族が主人公であった。まさしく典型的な郊外家族のなかで、静かに家庭崩壊が進行していく。夫は会社に言われるまま売春を斡旋し、妻は毎日の生活の空しさから不倫に走り、娘は外国人英会話教師に強姦される。息子は家族の荒んだ秘密を知って思い悩み、最後にすべてを暴露する。そんな崩壊のクライマックスで、実際に起きた台風による多摩川の氾濫が題材にされ、家族が築きあげてきた家屋は濁流にのみ込まれていく。山田はこれに続き、79年の『沿線地図』をはじめ、いくつもの作品で郊外住宅でのさまざまな「崩壊」を取り上げ、80年代のトレンディドラマが反転させていく現実の底にあった社会変化をえぐりだしていった。

★ しかし、70年代以降の家族の分解は、テレビドラマに描かれたような劇的なかたちでなくても、より日常的な過程として生じてもいた。実際、コミュニケーション構造のレベルからこの傾向を促してきたのは、新しい個人志向のメディアの生活空間への侵入である。

★ この動きは、すでに70年代からの家庭での電話の使い方の変化に現われていた。(・・・)『岸辺のアルバム』でも、八千草薫の演じる妻が、不倫に走るきっかけとなるのが電話口からの見知らぬ声であった。つまり電話は、声という次元で家庭が外の社会と交わる出入口をかたちづくる。当初、このような「戸口=窓」としての電話が、しばしば物理的にも家庭が社会と接する玄関口に置かれていったことには理由があったわけで、共同体としての家族は、このようにして外部の社会との接点を空間的に限定することにより、見知らぬ他者が家庭のなかにどこからでも入れるようになるのを制限しようとしていた。

★ ところが、この電話の位置が、電話利用の日常化とともに、しだいに応接間や台所、リビングルームへと移動し、やがて親子電話やコードレス電話といった機能的拡充に伴い、電話は両親の寝室や子ども部屋にも置かれ、個人を直接、外部の他者と結合し始める。(・・・)「幸せなマイホーム」は、「私の部屋の電話」が増殖するなかで、多数の個室の集合体へと変容していくのである。

★ かつて電話が住居の境界部に置かれたとき、このメディアは外部からやって来る異物であった。ところが80年代、若者たちは、メディアを通じて最も親密な世界を形成し始めていた。物理的な生活の場よりもメディアを通じたコミュニケーションの方が、私的世界のリアリティを支える基盤として感じられ始めていた。

★ 70年代末、このような現実感覚の反転を先駆けて示したのはソニーのウォークマンである。(・・・)ウォークマンをかけている一人ひとりは、たしかにその場所にいるのだが、まるでもうそこにはいないかのように存在している。

<吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>







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