日本一大きな万博、大阪で私は最下位のプロヂューサーを勤めた。
エキスポホールの付属施設の水上ステージである。お祭り広場に隣接して、催しがないときにお祭り広場から、観覧できるように作られた「無料」の催しステージだ。
お祭り広場の間に池があり噴水がいつも彩りを添えていた。
噴水を専門の会社が、新たに無線操縦の丸い小型のステージで自由に池の中を移動するのを開発した。その操作を私は任された。
ある時、ピエールカルダンショウが開かれ、カルダン氏がコントロールルームからショウを見た。その時私は、制服の胸にカルダン氏直筆のサインをいただいた。何とか無線操縦も終わり。カルダン氏は満足して私に手を差し伸べ「フランスに来い」と言われたらしい。
さて、世紀の万博で、デパ地下のような客の呼び込みをやった話をしよう。
エキスポホールでは日本人有名歌手のアンマンショウが20回ほど予定されていた。しかし前売り切符は毎回「ゼロ」に近く、当日売りも5,6枚の最低の入りであった。
チーフプロデュサーの渡辺美佐さんは、困り果てて、水上ステージのマイクで「本日は〇〇さんのステージがあり、切符は未だありますよ」と場内にマイクで放送した。とうりに面した社員用出入り口に臨時の切符売り場も設けた。しかし全然売れない。
同じブースにいた私にご指名がかかる。私が俳優座卒の俳優であったからだ。
客の呼び込み?天下の万博会場で?
「いいから、いいからやりなさい」。責任は美佐さんがおうと言う。
それから私の大音響のアナウンスが会場内を流れた。一声で50から100枚の入場券が売れた。そして開演時には300から500名が座っていた。それまでは5,6名だったので私のアナウンス効果が十分あった。
ところがお隣のお祭り広場からクレームがつく。「万博でマイクで呼び込みは止めてくれ」と言う当然のことだ。何しろ水上ステージは音響マニヤのチーフプロヂュサアーが、最高の機材を整えていた。 遠く離れていたアメリカ館前でも私の声は聞こえたという。優に会場の四分の一に響き渡ったわけだ。
無事万博は終わる。最後の時、美佐女史は「社員になれ」と小さく私に言われた。
しかし私はその年の12月4日、観光ビザでたつた、1,000ドルしか持たず、ロスアンゼルスに旅立った。
死の地獄が待っているとは露知らず・・・・・・・。
何れ後日、死に物狂いのお話をするかも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます