夢から慈しみの世界へ

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母を尋ねて400キロ・・・父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず。

2018年01月13日 17時24分26秒 | 日記・エッセイ
母を尋ねて400キロ・・・父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず。

今日は母の月命日であり、供養日でした。

母は法華経を熱心に信仰していました。

広島で生まれましたが原爆投下時は

父と二つ上の姉と一緒に博多の本家に居ましたので難を逃れました。

私はまだ生まれる前であります。

その姉も私が1才の時亡くなりました。

20数年前に父が亡くなり養母も入院しましたので、母と1才の時生き別れた母の消息を調べるために

本籍地の広島市役所にメールを送り調べて頂きました、

すると母は既に亡くなっていました。

遺骨が呉市の無縁塚に安置されていると広島市からメールが送られて来ました。

そのお骨を引き取りに妻と共に母の故郷を始めて尋ね、広島城の直ぐ側の本籍地に来て、

近所の人に尋ねましたが以前から住んでいる人は亡くなって居ませんよ。

今住んでいる人は原爆投下の後に移住して来た人が殆どですと答えられました。

広島城で妻と散策してベンチに座っていると鳩が近寄って来ました。

母も幼い時は、この広島城で遊んでいたのではないかと思われました。

私の直感で母は信仰をしていたのではないかと思い、

色々な宗教団体を調べている内に程なくその宗教団体が判明して、

其の団体に連絡しました、すると私の直感が見事に当たりました。

最後にお世話になっていた医院の隠居部屋で若奥様に合いお話を聴きました。

母は海軍の基地、呉で最期の人生を、再婚もせず信仰を糧にして一人で最後まで気丈夫に暮らしたそうであります。

不思議な事に私が勤めている病院も戦前は海軍病院でした。

母と縁が深い所で働いていたことになります。

母の信仰仲間から本籍地の白鳥町と云う場所が広島城の直ぐ側であり

原爆投下地の近くであったが為に親族の殆どは原爆の犠牲にあったそうです。

そして驚いたことに自分には子供も身寄りもいないと仲間に告げていたそうであります。

其処に私が突然現れたものですから、皆さん大変ビックリなされ信じられなかったそうであります。

其の仲間から未だ見ぬ母の写真と遺品を頂くことが出来ました。

母は広島に生まれ女学校を出て、父と結婚して満州に渡り、

満州で姉が生まれ戦後に満州から命がけで引揚して来て姉が亡くなり、

当時では不治の病であると言われた結核に罹り父と別れ、

その後の生涯を一人で暮らし波乱万丈の人生でありましたが、

信仰を拠りどころに明るく暮らしたようであります。

最後に15人程の信仰仲間の人が集まって頂き、母の最後のお別れの供養をして頂きました。

信仰仲間の人達には大変お世話になり、優しい慈愛を頂きました。

ありがとうございました。

南無妙法蓮華経・・・南無妙法蓮華経・・・南無妙法蓮華経・・・




一切の善男子善女人、

父に慈恩あり、

母に悲恩あり、

そのゆえは、人の此の世に生まるるは宿業を因として、

父母(ちちはは)を縁とせり、

父にあらざれば生ぜず、

母にあらざれば育せず、

ここを以って気を父の胤(たね)に禀けて

形を母の胎に托す、此の因縁を以っての故に、

悲母の子を念ふこと世間に比(たぐ)いあること無く、

その恩未形(おんみぎょう)に及べり。
 

                  仏説父母恩重経


『注』
                   恩未形(おんみぎょう)・・・父と母の恩は、まだ生まれていない、形にあらわれていない
                               過去世の時から形の無い来世まで無限にその恩が行き渡っている。