夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

タシギの喜びのダンス・・・大自然の躍動

2018年01月14日 18時06分43秒 | 自然の育み・環境
タシギの喜びのダンス・・・大自然の躍動


缶詰状態の列車の中での『善行』がTwitter(ツイッター)で拡散しました!

人の『善行』に出会うのは和みますね!



家を出て、10メートルほどの側溝に何時もは見かけない野鳥が車の前に躍り出てきてダンスをしました。

普段は色々な水鳥の野鳥が車の前に現われて挨拶のダンスをします。

妻は初めて見ましたわ!

私も初めて見た!

多分山際の水田などで活動している『ヤマシギ』だろうと!

しかし『ヤマシギ』にしては小さいな!

調べて見るとはるばるユーラシア大陸からの渡り鳥の『タシギ』でした。

『北アメリカ大陸、ユーラシア大陸で繁殖し、

南アメリカ大陸の北部、アフリカ大陸の北部から中部まで南下し、冬を越します。

日本では本州よりも南の地域に冬鳥として渡来する』そうであります。


此処長崎県は中国、朝鮮等ユーラシア大陸に近いところから

日本では迷鳥として珍しい野鳥が飛来します。


40年程前の青年時代に自然保護協会に属していた頃は

県の自然保護課の出先機関の雲仙自然保護事務所、野鳥の会等に

野鳥、自然保護関係の専門図書を紹介していました。

今年人家の近くまでタシギが現われたのには

今年は寒い地域の野鳥が沢山飛来しているのでしょう。

という事は、生息地ユーラシア大陸等が今年は普段よりも更に厳しい寒さではないかと思われます。

国境がない世界の野鳥、水鳥、又は自国の野鳥、水鳥の生息を知ることは

世界の自然環境の状態を正確に知る手がかりになります。

野鳥の姿が見えないと云うことは

水の汚濁、土壌が汚染され、その結果、樹木の育成が阻まれ、餌等が減少となり、

生きていく術が無いことを意味しています。



花のみまつらん人に山里の雪間の草の春をみせばや
                    千利休(せんのりきゅう)

人々は春爛漫の桜花を楽しそうに観賞するであろうが、

久しく雪に閉じ込まれていた野の草が、ところどころ雪どけの合間から、

草の新芽が、芽吹いている風情こそ、

艱難艱苦によって鍛えられて新生した霊的生命の息吹を見ることができるのである。












母を尋ねて400キロ・・・父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず。

2018年01月13日 17時24分26秒 | 日記・エッセイ
母を尋ねて400キロ・・・父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず。

今日は母の月命日であり、供養日でした。

母は法華経を熱心に信仰していました。

広島で生まれましたが原爆投下時は

父と二つ上の姉と一緒に博多の本家に居ましたので難を逃れました。

私はまだ生まれる前であります。

その姉も私が1才の時亡くなりました。

20数年前に父が亡くなり養母も入院しましたので、母と1才の時生き別れた母の消息を調べるために

本籍地の広島市役所にメールを送り調べて頂きました、

すると母は既に亡くなっていました。

遺骨が呉市の無縁塚に安置されていると広島市からメールが送られて来ました。

そのお骨を引き取りに妻と共に母の故郷を始めて尋ね、広島城の直ぐ側の本籍地に来て、

近所の人に尋ねましたが以前から住んでいる人は亡くなって居ませんよ。

今住んでいる人は原爆投下の後に移住して来た人が殆どですと答えられました。

広島城で妻と散策してベンチに座っていると鳩が近寄って来ました。

母も幼い時は、この広島城で遊んでいたのではないかと思われました。

私の直感で母は信仰をしていたのではないかと思い、

色々な宗教団体を調べている内に程なくその宗教団体が判明して、

其の団体に連絡しました、すると私の直感が見事に当たりました。

最後にお世話になっていた医院の隠居部屋で若奥様に合いお話を聴きました。

母は海軍の基地、呉で最期の人生を、再婚もせず信仰を糧にして一人で最後まで気丈夫に暮らしたそうであります。

不思議な事に私が勤めている病院も戦前は海軍病院でした。

母と縁が深い所で働いていたことになります。

母の信仰仲間から本籍地の白鳥町と云う場所が広島城の直ぐ側であり

原爆投下地の近くであったが為に親族の殆どは原爆の犠牲にあったそうです。

そして驚いたことに自分には子供も身寄りもいないと仲間に告げていたそうであります。

其処に私が突然現れたものですから、皆さん大変ビックリなされ信じられなかったそうであります。

其の仲間から未だ見ぬ母の写真と遺品を頂くことが出来ました。

母は広島に生まれ女学校を出て、父と結婚して満州に渡り、

満州で姉が生まれ戦後に満州から命がけで引揚して来て姉が亡くなり、

当時では不治の病であると言われた結核に罹り父と別れ、

その後の生涯を一人で暮らし波乱万丈の人生でありましたが、

信仰を拠りどころに明るく暮らしたようであります。

最後に15人程の信仰仲間の人が集まって頂き、母の最後のお別れの供養をして頂きました。

信仰仲間の人達には大変お世話になり、優しい慈愛を頂きました。

ありがとうございました。

南無妙法蓮華経・・・南無妙法蓮華経・・・南無妙法蓮華経・・・




一切の善男子善女人、

父に慈恩あり、

母に悲恩あり、

そのゆえは、人の此の世に生まるるは宿業を因として、

父母(ちちはは)を縁とせり、

父にあらざれば生ぜず、

母にあらざれば育せず、

ここを以って気を父の胤(たね)に禀けて

形を母の胎に托す、此の因縁を以っての故に、

悲母の子を念ふこと世間に比(たぐ)いあること無く、

その恩未形(おんみぎょう)に及べり。
 

                  仏説父母恩重経


『注』
                   恩未形(おんみぎょう)・・・父と母の恩は、まだ生まれていない、形にあらわれていない
                               過去世の時から形の無い来世まで無限にその恩が行き渡っている。  









『存在するもの』・・・其の時間・空間的拡がり

2018年01月12日 21時58分39秒 | 真理の言葉
外に出ると青空が冴えわたり足元はバリバリと凍りつき車も凍りついている!!

慌てて車にエンジンをかけ暖めてから出勤しました。

職員の駐車場には既に沢山の車が停まっていましたので積雪対策の為に昨日から泊り込んでいたのだなと?

業者の配送も昨日の夕方前倒しで配送すると連絡が入っていました。

沢山の外来、入院患者さん達を見守る為に病院のシステムは24時間体制で動いています。

どれ一つ欠けても大変な事になります。

病院の理念も『仁愛』と掲げてあり、安全の確保が第一であります。

雲仙の火砕流、JRの特急列車の転覆事故の為の患者さんの受け入れ、

台風により道路の浸水等 色々な事がありました。

世の中何が起こるか解かりません。

その度にヘリ発着の設備、電子カルテ、システム等が進化して来ました。

患者さんにとってはかけがえの無い人生であります。

その患者さんの様々な『人生の思い』を受けとめ、

その『思い』に答える為に病院は日々努力、精進して進化しています。



存在するもの』・・・其の時間・空間的拡がり

存在するものはただ持続するもの、空間的な拡がりをもつものと、解すべきものであると思う。

個々の木や犬のみが厳密な意味で存在するものである。

諸君はここまで読んで来られて、『そうだ、それは正しい』と思われたであろうか。

それならば諸君は『唯物論者』である。

そして多くの人々は『唯物論者』なのである。

個々の木や犬は、持続するか。

いつまでも続いているか、それを私はききたい。

百万年続いている木はないし、千年も百年も生きている犬はいない。

それは持続しないから存在しないということになりはしないか。

その拡がりもあるように見えていたが、今はその拡がりも持続していなから、

持続していない拡がりである現実の木や犬は本当は存在しないのではないか。

かくて物体の一定の形は、エネルギーの在る力のあらわれであって、存在するものは唯エネルギーのみであるとも言える。

エネルギー原子量の一定順序による各原素の排列や、色々の複雑な生命体や、

美しい花の構造などが、このエネルギーの力で保たれ、つくられているとするならば、

このエネルギーは知智性ある力であると言う事が出来る。

知智性ある力を『心』又は『神』と私達は呼ぶのである。






『ありがとうございます』と言う『感謝の心』はすべてを癒す。

2018年01月11日 20時46分01秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
看護婦が最近変った人が入院して来ると驚いています。

これだけグローバルな世界となり、人々が世界の沢山の情報を共有し、影響し合い

様々なライフスタイルを取ったことにより個性ある表現が生まれたのでしょう。



心深く沈潜している潜在意識を科学的に証明して、

世紀の大発見と云われたジークムント・フロイト( Sigmund Freud)

の著作集17巻は20代の頃読みましたが、40年ぶりに改めて読み返すと

青年時代よりも更に人間の神秘さ、不思議さに理解が進みました。




『ありがとうございます』と言う『感謝の心』はすべてを癒す。


無意識に刻みつけられた傷口を暴露した以上は

その傷口を洗い浄めそれを『愛』によってつつみ込まなければならない。




罪深い女を赦す
わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、

この女(ひと)は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。

あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、

このひとはわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。

あなたは頭にオリーブ油をぬってくれなかったが、

このひとは足に香油を塗ってくれた。

だから言っておく。

このひとが多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。

そして、イエスは女に『あなたの罪は赦された』と言われた。

『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。

イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。

                                            ルカによる福音書 7 36―50


幼児期に無意識に埋もれている傷を暴露して、

その傷を現在の意識に持ち来たし、憎んだ相手、出来事等の負の観念を憎まないで愛するように導き、

更に感謝するように導き、仏の慈悲、神の愛がお互いにふり注ぎ、

その仏、神の愛につつまれ、調和に満ち、

平安な世界に居る心境に、観じせしめることが、精神分析の最後の仕事なのです。


分析だけでは、傷口に包帯をしないで暴露させたままの状態と同じことなのです。



平安な心境に導く一つの方法として

静かな場所で椅子に座しても、静座でも宜しいので、

全身の力を抜き、呼吸を深くゆっくりと静かに行いますとリラックスして来てまいります。

瞑想をするが如き精神統一的状態で例えば憎む相手とか、ネガテブな事に対して

真言の言葉である『“ありがとうございます”』と言う

『感謝の言葉』を先ずは10分間ただ念仏のように繰りかえし念じ、

またはただ囁くような小さな声で唱えることによって観念の浄化がおこなわれます。

大きな声は誰でも耳をふさぎますように意識の底にはあまり届きません。

是を拡大して『有情、非情、生きとし生けるもの、

有りとしあらゆるものありがとうございます』と念じ、

また唱えると宜しいです。


『感謝の心』はすべてを癒し、天地一切のものである、有情、非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものと

和解することが出来、『平安な心』に至る大きな道筋です。


お奨めは、まだ現在意識が目を覚ましていない朝起きた直ぐ、

又は就寝時になされると宜しいです。

後は随時なされと宜しいです。

囁くような小さな声は暗示的に深く潜在意識界に沁み渡ります。


クラシックの音楽療法は小さな、小さな音、やっと耳を傾けて集中して聞き取れる程の音量です。

暫らく実行為されると心(意識)がひろがり、心がポジティブになり明るくなります。













観念清浄方法(cahartic method)・・・煙突掃除療法      自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。

2018年01月10日 22時14分44秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
午後は窓の外が雪で真っ白になりました。
北風がマフラーを吹きぬけ、耳たぶが冷たくなり寒さが本格的になり、

明日は山沿いの路面は凍結するのでは無いかと心配しています。

これから帰宅してチエーンを装着しようかと迷っています。

以前勤務先の病院まで6Kの道を1時間かけて歩いたことがあります。



<観念清浄方法(cahartic method)・・・煙突掃除療法

自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。



カタルシス的心理療法を外科手術になぞらえて、

わたしの療法を、心理療法による手術と名づけたのである。

化膿巣の切開やカリエスになっている患部の掻爬などの類似をとりあげたのである。

しかし、こうした類似は、病患の排除にあるよりも、

むしろ病気の過程の経過のためにより有利な治療条件の設定という点に、その権利をもっているのである。

わたくしは、カタルシスによる治療によって、治癒ないし鎮静を患者たちに約束してやるたびに、

何度となく彼らから『わたしの病気はきっと境遇や運命とかかわりがあるのだろうと、

先生はおっしゃいました。

でも、先生は、それをどうなさることもできないじゃありませんか。

だとすれば、いったいどんな方法で私を治して下さるつもりですか』と異議申し立てを聞かざるをえなかった。

するとわたしは、いつもこう答えることができた。

―あなたの病気を取り除くためには、わたしよりも運命の力に分があることは疑いもありません。

あなたのヒステリーの苦しみをありふれた不幸に変えてしまうことがわたしたちに成功するのだったら、

それだけでもずいぶんうまくいったことになる、とお気づきになりましょう。

そして、そのありふれた不幸に対してなら、あなたも精神生活が回復することによって、

ずっとたくみに防衛することができましょうから、と。


フロイトとヨゼフブロイエル(Joseph Breuer) ヒステリー研究 1895年

『注』
     カタルシス(catharsis)・・・心的内容の浄化、解除、通利、排泄を意味する。
                    アリストテレスが観衆の悲劇を述べる時にこの言葉を用いた。
                  フロイトによって明確にされた心理療法の治癒機序を表す



間の無意識というものは実に不思議な働きをするものでありまして、

現在意識の思いも及ばないことを無意識が勝手に思っている実例もあるのです。

だから病気なども『自分は心で病気なんて思ったことがないのに病気になっている』という抗議が出るのですが、

実は皆無意識界に『病気の観念』がつくられてそれが具象化したのであります。

術者は被術者に暗示を与え『あなたの示すのは真の契機ではない。

よく考えなさい。よく考えなさい。もっと本当の原因がある。

君はそれを思い出すことができる』といった。

そのとき被術者はその病気に関連している病気の契機になったところの事件を思い出すことに成功することを発見したのであります。

この方法によって、フロイドとブロイエルは観念清浄方法(cahartic method)によって神経症の治療を始めたのです。



 






原光景(げんこうけい)から より良い素晴らしい世界へ・・・外傷となる幼児体験

2018年01月09日 23時02分06秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
私達は胎内にいる時からの体験のすべてを意識の底に記憶していると云われています。

仏教では閻魔大王の前で一生の出来事の裁判をうけ行き先が決まるといわれています。

大王の前で精神分析をうけているようなものです。



原光景(げんこうけい)から より良い素晴らしい世界へ・・・外傷となる幼児体験


原光景(げんこうけい)、この言葉はフロイトの1897年の論文に記されています。

G・ロゾラーによれば『原光景』は、出産や親子関係など、それ自体によって与えられている

不思議を通して実際に触れることの出来る道を前面に登場させる。

それは起源への回帰を含んでいるが、同時に(エディプス)の形成されつつある発達を含んでいるという。



四才の幼児の態度が20年後になって精神分析の結果

はじめて言葉になって語られることになったという点に注目したいと思う。

われわれがその光景から演繹する一切の作用は、強迫その他の症状の形をとって、

すでに幼児期ならびに分析のずっと前から現れていたものだからである。

その場合、それを『原光景 Urszene 』と見なそうとするか、

それとも『原空想 Urphantasie 』 と見なそうとするかは、どちらでもよいことである。

改めて私が強調せねばならないことは、もし『夢とか神経症』とかが、

幼児期そのもに直接関係するものでないとするならば、

このような考えはまったく無意味なものとなるという点である。

『抑圧』とは人間の本能的段階への復帰であり、

人間は『偉大な新しい素晴らしい獲得物』を、

神経症になりやすい素質を与えられるという犠牲と引き換えに獲得する。

そしてまた、神経症発病の可能性こそ、

より以前の本能的な前段階の存在を証明するものなのである。

さらに過去の幼児期の『夢』は、このような無意識的存在に自己を表現する素材を与えるという意義を持っている。

そしてこの素材は、この無意識的存在を、それ以後の発達によっても消失しないように保持するのである。


     フロイト ある幼児期神経症の病歴より Aus der Geschiche einer infantilen Neurose 1918年



済んだことの中には生活せず、

『今』の中に生活せよ。

『今』は常に生きている。

『今』の中にはあらゆるものが輝いている。

『今』は常に新しく、

『今』は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにせよ、それについて思い煩うな。

『今』天地は一新したのである。もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き曝されたことを嘆かないで、

『今』梅の花は喜びに満たされている。

梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしか無いのが人生である。



 







ナルシシズム・ナルチシズム(narcissism・Narzismmus)と自己愛(autoertism)

2018年01月08日 15時53分36秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
穏やかな雨


温かい雨が静かにふりそそでいる。

白木蓮の芽が顔をだして喜んでいる。

毎朝、秘かに元気を与えている白木蓮。

ずぶ濡れになりながら、たたずむ一羽の野鳥。

せせらぎで、若い白鷺が群れをなして遊んでいる。

その端で小鴨が仲良く泳ぎ周っている。



ナルシシズム・ナルチシズム(narcissism・Narzismmus)と自己愛(autoertism)

一般には心理・性的に自分にだけ関心が向かっていて、

異性を含む外界にはまったく興味を示さない状態をナルシシズム・ナルチシズム(narcissism・Narzismmus)と云う。


ナルチシズム(Narzismmus)という術語は臨床上の記述から由来したもので

1899年にP・ネルケ(P・Nacke)が、ある人間が自分の肉体を、あたかも異性の肉体であるかのように取りに取り扱って、

愛撫してついに完全な満足状態まで達するような行為をいいあらわすために選んだものである。

あらゆる『目標倒錯』を研究するうえの手がかりが

『ナルチシズム』によってえられるものではないかという期待を裏づけるものなのである。

『ナルチシズム』はおそらく『性的目標倒錯』と目すべきものではなくて、

すべての生物が当然の権利として有すべき自己保存本能のエゴイズムをリビドーの面で補おうとすることなのです。


                フロイト『ナルチシズム入門』“Einfuhrung des Narzimus 1914年


幼児の指しゃぶり、幼児の慰め等がそれであります。

『注』
   エゴイズム・・・客体自己または自己の利益だけを追求し、それを行動の主要な動機とする傾向や態度。
   リビドー ・・・フロイトの造語。性愛欲動のみでなく精神的なものも含めたより広義のエロスを物理化学の理論に
            立脚し、質的・量的に把握するために名づけた。





人間はその発達途上に於いて、必ずこの一点を通過する時期があるのである。

小児は生まれてしばらくの間は完全に『ナルチシズム』であります。

大人も『ナルチシズム的』な傾向をもっています。

自分の姿を鏡に映して眺めるのを好む。自分自身の姿を、実際よりもはるかに美しいとうぬぼれている。

だから自分自身の写真には満足しない。

自分の顔はこの写真よりはもっと美しいと思うのであるから。

病気も『ナルチシズム』であり、胃の痛む人は自分の胃のことばかり考え、歯の痛む人は自分の歯のことばかり考えて、

それにとらわれて、その病気を自分の心から放つことが出来ない。

『ナルチシズム』は自己中心でありますから、その病気を軽くあしらわれると不平に思うのです。

『ナルチシズム』は自己保存本能の転化として多少誰にも存在するのであって、

自己を保護する本能でありますから、自分自身を過当に理想化して考えるのです。

この状態が恋愛対象に移入されると

対象と自己との同一化によって恋愛対象の真価以上に理想化して観るのです。

これをフロイドは『性的過大評価』と称している。



     ある面では恋は情念の塊りであり盲目と言われる所以です。



























サディズム・マズヒズム(sadism,masochism)の世界。 罪悪意識が無意識の根底にある根源的マゾヒズム意識(道徳的マズヒズム)を打ち破る為に。

2018年01月07日 16時09分02秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
九州名物の高菜の苗が寒さにも負けずに元気に根付いていました。

さすがですね!!

新年度の活動方針の研修会でした。

今年初めての研修でしたので、新年の挨拶を交わすことで

お互いの無事の確認と今年への熱気が感じられました。


罪悪意識が無意識の根底にある根源的マゾヒズム意識(道徳的マズヒズム)を打ち破る為に。

宇宙の神秘のように、普段に意識している心では知ることも、理解をも出来ない

人間の心の奥底のうごめている潜在意識の不思議さ。


サディズム・マズヒズム(sadism,masochism)は一般には性倒錯(目標倒錯)の一種として扱われています。

名前の由来はM・サド、S・マゾッホの二人の作家の作品に登場する人物等からとられたものです。

フロイトは『本能とその運命』において他を攻撃し・支配して、屈服させる『サディズム』は支配欲動にかられたものであり、

『マズヒズム』はそのことが自己にふり向けられ、または能動的なものが受動的なものへと転換した二次的に生ずる副産物であると考えました。

攻撃している『サディスト』は攻撃されている対象と空想的に同一化していると云う。

一人では生きてはいけない小さな立場に自分自身を置き、内部的抵抗の破壊を求め、

穢されることを相手に求める『女性マズヒズム』。

自分自身は意識してはいないが、自ずから自分自身に苦痛を強いて、

それを耐え忍ぶ、自分の理想としての超自我に充分答え切れない

無意識的な罪悪感に由来する『道徳的マズヒズム』、

または神に罰せられたい、苦痛を受けることによって罪を償いたい願望として出てくることも『道徳的マズヒズム』である。




多くの宗教は、受難礼賛の『マゾヒステック』信者を集めて、

断食水行、朝参り等肉体的苦痛を伴う修行を課するほど、魅力を感じてはなれることが出来ないのであります。

人間の心の奥底には『苦しめられたい欲望』がひそんでいるのであり、

それによって過去世以来の罪障を償いたいという潜在意識があるからであります。

この意識は人類共通の観念である。

『道徳的マズヒズム』にとらわれている限りは、人類は決して幸福の世界へ出ることは出来ない。

新しきキリスト教はすでにキリストの十字架によって、罪は償われてしまったのであるから

『罪は存在しない』と宣言するのであり、

『神はこの世界を造ったのであり、神は善であるから、罪は造らないのであるから、罪は存在しない』

と彼らは叫ぶ。

そして彼らの宗教は実際に治病等に実績を挙げ得ているのは、

人間の無意識に存在する『罪悪感』の洗浄を果することによって、

その罪悪感が拭い去られたことに起因している。




人間は神の子であり罪なし、病なし、迷いなし、恐れなし、

神のすべての徳を享けついだ善なるものであり、素晴らしい永遠の存在である。






峻厳にして『公正なる愛』は善人にも悪人にも何れにも太陽が光りを注ぎかけるが如くでなければならない。

2018年01月06日 14時26分42秒 | コラム・人文
今日1月7日は久留米の創紀1900年の『大善寺玉垂宮』で日本三大火祭りであり、

1600年の歴史がある国の重要文化財でもある追儺祭の鬼夜(おによ)が行われます。

仁徳天皇56年(368)1月7日に勅命をうけた藤大臣(とうのおとど)が

肥前の賊徒(水上の桜桃沈輪)の首を討ち取り、筑紫を平定したのが始まりです。

奈良の薬師寺の旧日記に残されています。

三韓出兵に大功があった藤大臣が此の久留米で没しました。

祭神は玉垂宮命(藤大臣・・・高良大神ともいいます)、住吉大神、八幡大神

私も駆けつけたかったのですが!

私の尊い恩人である龍宮住吉本宮に参拝に行きました。

是で五社のお参りがすみました。

穏やかな良い天気に恵まれました。

今年中に後六社(香椎宮、筥崎宮、名島弁財天、宮地嶽神社、大善寺玉垂宮、日佐住吉神社)参拝の目標です。

殆どが『古事記の仲哀紀』に登場する神功皇后(香椎大神)と御縁があり、又祀られている神社です。


</font>
峻厳なる叡智に導かれる愛

峻厳にして公正なる愛は善人にも悪人にも何れにも太陽が光りを注ぎかけるが如くでなければならない。

一方において他の人に対して喜んで自分自身を与え切ながら、

而も、他方に於いては、自己を断乎として守って自己を滅却して

他の人に仕えることを厳然として拒否するのである。

イエスキリストは断乎としてパリサイの徒と戦ったし、

縄の鞭をもって不浄なる商売的な徒を神聖なる境内より駆逐したのである。

『何人も我より命を奪うことを得ず、我は我自ら命を捨つるなり、我は命を捨つる力を有し、復た再び命を得る力を有す』と。

イエスキリストは自ら万人の罪悪意識を贖わんがために十字架に往いたのである。




    

情念を超えたキリスト的、愛というものはすべての不調和を解決する力がある。 自己情念(Autoerrotismus)・・・『自分自身の存在しか理解できない生命の段階(乳児期)』

2018年01月05日 16時10分06秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
恋は盲目といわれていますが、

愛にも色々な対象により情感が違ってきます。

例えば親が子供に対しての愛情、両親に対しての愛または尊敬、

恋人に対する熱愛、夫婦愛、兄弟愛、自然、植物、生物への愛、

純愛、人類への愛等、様々な愛があります。

また愛と感情は密接な関係があります。

ナルチスム、マドヒズム、サデイスムス、宗教的マドヒズム、道徳的マドヒズム、

ヒステリー、レスビアン、カンダウルス、フエティシズム、エデスコンプレックス、マザーコンプレックス、

同一化現象等、愛と感情が結びついて様々な名称がつけられています。


このような様々な愛を現在意識の中では秩序よく使い分けして

心の調和と安定とを一見整えているように見えます。

しかしながら子供へ向けるべき愛情の中にも

潜在意識の奥底の心には子供には向けるべきではない

感情である異性愛や夫婦愛の感情が含まれていたりします。

または反対に子供自身が父母への恋愛感情等、

様々な感情が乳児期から或いは過去世から受け継がれた経験等がミキシングされ造りあげられます。



恋する人は自分の心の中に描かれた所の『美の理想』を対象に移入するのであります。

彼にとって恋人は生ける人生の価値であり、彼にとって『かけがえの無いすべて』なのであります。

女性に於いては、このような境地は長く続くのであります。

女性は単に青少年期のみならず殆ど全生涯を通じて愛人を通してのみ世界を見、

世界の価値を感ずるのであります。

それが女性的特徴であります。

男性は、やがてそうゆう境地を通過して、そして人格を超えて、

抽象したる価値そのものを追及したり、

『事物』そのもの又は『事業』そのもの等の価値を追求するようになるのであります。













仏心・・・・・素直に信じて受けとる心

2018年01月03日 16時05分26秒 | 日記・エッセイ
今年1年生の孫が帰り際の車に乗る前に、

突然、僕もお参りをしたいと願い出でて

走って来て仏壇の前に座りロウソクを灯して、線香をあげ鈴を鳴らし、瞑目合掌してお参りしていました。

素直な仏心に感心しました。

帰省した子供、孫達も明日から、仕事と勉学にと思い思いの

希望と夢をのせて元気に故郷を後にしました。


阿難は或る日、

迦葉に『お前はお釈迦様から衣鉢を伝えて貰って佛教の極意を貰ったというけれど、

衣鉢みたいな物質が何も極意という訳ではないんだろうが、

一体佛教の極意は何か、わしに教えてくれないか』といった。

するとしばらく迦葉尊者は何も言わないでだまっていたが、

間をおいて突然厳かな声で『阿難!!』と言って名を呼んだ。

そしたら思わず『ハイ』と威儀を正して素直に返事をしたのです。

すると迦葉尊者は阿難に

『それが佛教の極意である、もうお前に佛教の極意を伝えたぞ』といった。

そして法統を阿難尊者に継がせたのです。







鳥の一声・・・・・其処に慈しみが芽生える

2018年01月02日 21時47分18秒 | 旅行記
鳥の一声

瞑想中に庭の鳥のさえずりが

意識の中に飛びこんで来た。

鳥のさえずりが我が意識となり、

さえずりと意識が一体となる。

其処に慈しみが芽生える。



四社目の神社巡りです。

後一社で五社になります。

今月中に目標を達成したいと願っています。


干潟の有明海を右手に見て走ることやく一時間で鹿島市に入り、

それからお目当ての祐徳稲荷神社まで20Kの渋滞でした。

日本三大稲荷神社の『祐徳稲荷神社』は正月、初午の例祭の時には

九州各地から参拝者が訪れますので大変混雑します。

我が家の神棚にも祖母が五十五年程前に祐徳稲荷神社から

御霊分けを授けて頂きその御神霊を祀っています。

本家も敷地内の庭に屋敷神として稲荷大神を先祖代々お祀りしています。

併せて名島の『神宮ヶ峰』の名島神社に神功皇后が三韓出征の戦勝祈願の為に

勧請したと云われている比売神『宗像大社の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)』である名島弁財天を祀っています。

朝鮮出兵の折、豊臣秀吉、淀君も参拝されていいます。

足元の海岸には神功皇后の凱旋時の船の帆柱といわれている化石が国宝として保存されています。

昭和十四年五月に谷口雅春先生、輝子先生とご一緒に帆柱の前に立たれたことがあります。

祖母への感謝とお礼の為にお参りをさせて頂いています。


静かに座して、自己が神の子であると云うこと、

神の造り給うた実相はすべて完全であることを念ずるが好いのである。

真理は静けさの中に、幽かなる魂のささやきの中に、

かすかに聞こえる幽玄のひびきとして魂の底から汲み出されるのである。











丑三つ時のお参り・・・大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり(親鸞上人)

2018年01月01日 13時32分07秒 | 日記・エッセイ
新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。


元旦の神社参拝だけは『草木も眠る丑三つ時のお参り』に

沢山の人々が列を連ねて粛々と祈り捧げています。

『明るい希望に満ちたポジテブな祈り』が、

橋姫物語等で暗いイメージが漂う

『ネガテブな丑三つ時の祈り』に打ち勝つからでしょう。

鳥居の上には満月のような丸いお月さんが、

漂う雲のあいだに輝き出で、新年を祝福しているようでした。

10代、20代の若い人々のお参りが多く。

団塊の人々が少ないことに驚きました。

若い人々が肉眼では感じられない無形なるものに対して

頭を下げ礼拝する姿には感動しました。

神に礼拝する人々の背中は尊いすがたでありました。



大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり

凡夫が信心を起すのではなく、

信心が発するのであります。

『信心みずからの心』が他力(阿弥陀如来)によって発現するのです。

信心が自らの『自力』で起きるのではなく、

どこまでも阿弥陀如来の力である他力で起きるのです。


私の実相は霊であり、

聖なるものであり、

久遠なるものであり、

不滅なるものであり、

病まざるものである。