夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

真理への道は、神への道である。

2016年02月05日 20時58分06秒 | 真理の言葉
真理への道は、神への道である。

真理の言葉を語れ、真理の言葉と共に生活せよ。
真理の言葉そのものが神なり。
真理への道は、神への道である。


自分の姿が自分の本来の『眞の相』である。円満完全、満福現在の素晴らしい『神の子である相』とピッタリ重なり合う道である。
その道筋で病気が治ったり、豊なる供給があったり、現象的なお陰があらわれたりするのである。
しかしそのような現象的なお陰は真理への道の目的ではないのである。
それは真理を知った程度にしたがってあらわれてくる随伴的な功徳に過ぎないのである。しかしその随伴的功徳があらわれて来るのは、自分が歩んでいる道が真理に通ずる途上にあることを示す指標であるのである。




単に唯心所現の心の法則を知って、それを応用して日常生活を健全にして、事業の繁栄を得て、健康を増進するという程度のことなら、それは精神科学の応用であり、、また応用心理学の領域の属することであり、神につながる本当の信仰の問題ではないのである。
自己が神の子として神と一体となるべき本当の信仰を得よう思うならば、精神科学、心理学の応用以上の世界へ出なければならないのである。
神と一体になるためには、無我全托の心境に入らなければならないのである。『われ心を空しくして神の御意(みこころ)に従わんとを希う。神よ御意(みこころ)を示し給え』と祈って、神の前に一切の自己を無くして、いわば神の前に無条件降伏の心境にならなければならないのである。

・・・・・続く
『注』

唯心所現―・・・親和の法則とも言ったりする。喜べば喜びが顕れ、憎むと憎みが顕れるように、心で思ったことのみが、
          現実の現象世界に現れることを云う。
          心が迷って凡夫となって現れるようなこと。自分の人生は、自分の心の展開である。
 

      

2月4日(木)のつぶやき

2016年02月05日 04時44分18秒 | 日記・エッセイ

霊肉の葛藤

2016年02月04日 20時49分29秒 | 真理の言葉
霊肉の葛藤

肉体的な欲望の世界は無いのである。あるように見えるのは幻である。
煩悩があると思うから煩悩を捨てることが出来ないのである。
人間の本当の姿は煩悩では無いのであるから煩悩を捨てきることが出来るのである。
肉体と云う皮袋の奥に、尊い霊的な素晴らしい喜びに満ちた人間の本当の眞の姿が存在している。




煙草をのみたいという人は、きっと煙草をのんだ人であります。
煙草を未だかってのんだことの無いひとが煙草をのみたいと考えないのであります。
吾々が何かを得たいという場合は、それは既にもうそれを得済みの人であると考えていいのであります。
女の人が男を求める、男の人が女の人を求めるというのも
既に自分の愛しい半身が何処かにいることを先天的に知っているからであります。
既にあるから、それを求める。
われわれが宗教によって救われたい、仏になりたいと思う。
そう思うのは、既にわれわれの生命の奥底の体験において、『既に自分が仏である』というところの自覚が宿っているからこそ、仏になりたい、この様に考えるのです。
弘法大師の『即身成仏義』という本の中で、『一切衆生すでに成仏せるに、未だ成仏せることを知らず』と書いておられる。
すべての衆生、すなわち生きとし生けるものは、『成仏』すなわち仏になっているということを知らないのである。
ただそれに気がつかないだけであり、それに気がつけば好いのです。


『自分はすでに仏である。完全である。迷いなどすでにないのである。
肉体的な欲望、煩悩などないのである。罪はすでに無いのである。
すでに完全円満である。既に仏であり、すでに神の子である。仏の子である』と知れば好いのです。




吾は永遠なるものである。

2016年02月04日 00時10分17秒 | 真理の言葉
吾は永遠なるものである。

平均年齢が男女共に八〇才を越える時代になりました。
たとい病気などで肉体そのものが朽ち果てては八十年で終わるとも、
人間の本当の生命は八十年で終わるものでは有りません。
人間は死んでも死なないのであります。
桜が毎年万朶の花を咲かせるように、
人間の生命は永遠に生き通しであります。



現世だけで、この人間が終わるのでしたら、利己的な快楽ばかりを追求しても好いかも知れませんが、
現世の生活はやがて来る未来世への準備であるとしたら、
滅多な軽はずみな生活は出来ないと思えます。
肉体は現れて見える。肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体はないのである。
現れて見える肉体は無いけれども人間そのものは無いのではない。
人間そのものは厳然として実在する。
しかし人間そのもは五感で見る訳には行かないから狙撃することも出来ない爆撃粉砕することも出来ない。
却って狙撃し、爆撃し、粉砕することが出来るのは本来無いところの肉体である。
肉体は本来無いものであるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、
これを無にまで減少することが出来るのである。
本来無いもののみが無くなる。
あるところの人間は本来ある限り、決して無にまで変化し得ぬ。
本当の人間―人間そのもの―は本来あるが故に無とは成り得ない、即ち死なぬ。
人間そのもは絶対死なぬ、人間そのもは久遠不滅の存在である。



2月2日(火)のつぶやき

2016年02月03日 04時57分32秒 | 日記・エッセイ

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大自然の力・・・『目に見えない不思議な力』 goo.gl/q4mNNY


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大自然の力・・・『目に見えない不思議な力』

2016年02月02日 21時35分41秒 | 自然の育み・環境
大自然の力・・・『目に見えない不思議な力』

自家菜園

昨年の三月より、社会活動の一環として無農薬、無肥料の自然栽培に兆戦しています。
エマソンの友人であるソローが百六十年程前にウォールデンーの森のなかで自然農法を始めました。
土に混ぜるのは自家製の腐葉土だけです。
そして人間の愛念です。

今回は第三弾でキャベツ、セロリ、春菊です。これまでサニーレタス、ブロッコリー、オクラ、キュウリ、ピーマン、ネギ、秋トマト等作って来ました。
野菜にも自らの力で生長することが出来ます。
例えば大根に必要な栄養素は大根自ら造り出す事が出来るそうです。
確かに有機肥料を与え、除草などをおこない人間的な管理をして育てますとスーパーのショーウンドウに 
八頭身揃った美人の野菜が並べられています。
今まで何回か自然栽培をやって収穫しますと絶対的に野菜が爽やかで、スリムであります。
本来の野菜の姿が垣間見られました。
今まで見ていたのは肥満度の高い野菜だと感じました。
また自家製の腐葉土のミミズが活躍していました。
自然栽培で収穫した野菜の種で次世代の野菜を作り続けて行くと自然栽培に適した野菜へと生長すると云われています。




大自然の力

種の中から芽を出させ、それを伸ばし、葉を作り、蕾を作り花を咲かせる働きは、種の中にある『目に見えない不思議な力』即ち神様の力であります。
この種の中にある不思議な力は、素晴らしい智慧をもっているのであります。
黒い土の中にある色々の肥料成分を吸い上げて、その成分の分子を、いちいちどの成分は何処に並べ、それをどんな形ににならべて、葉や、蕾や、花の形にしようと云うことを考えて、その通りにならべているのであります。
『この不思議な力』を神と云うのであります。
この花の中にある素晴らしい智慧こそ神様の力だと云うほかはないのであります。




求めなさい、そうすれば、与えられる

2016年02月02日 01時10分11秒 | 真理の言葉
求めなさい

真理を求めて雪の中を二時間歩いて、息が上がった年配の方が居られたと聞き、
求める姿は年齢には関係ないことであることを改めて知らしめて頂きました。

求めなさい

求めなさい、そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば開かれる。
だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

                                            マタイによる福音書六―七~十二



『苦しいときにはわれを招べ、我は汝のために祈るものなり』

感謝する者に対して祝福の扉はひらかれる。

人間存在の根源に、神がありすべて吾らになくてならぬ必需品は、すべて神から来るのである。
それゆえに、日常われらが利用している一切の物に感謝することは神に感謝していることと同じことなのです。
だからすべての事物のなかに内在している神の恵みに感謝する者は、事物に内在している神とつながることになり、
それが根源の神に通じる祝福の扉をひらいて祝福を呼び迎えることになるのである。
そしてそのような人には常にあらゆる祥福が相ついで集まって来ることになるのである。



1月31日(日)のつぶやき

2016年02月01日 05時01分29秒 | 日記・エッセイ