夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

信仰の本質 (祈りは必ず成就する)

2016年02月23日 22時17分06秒 | 真理の言葉
信仰の本質(祈りは必ず成就する)

先日(二月二十一日日曜日)に地元の山間部へ出講してお話をしました。
祈りは必ず実現して現れるのである。と云うタイトルでお話をさせて頂きました。
祈りは神社、寺院、祭壇とか瞑想等などで祈ることのみが祈りの全てではないのであります。
祈りは私達の心の奥深くから湧き出でる生命の念(おもい)であり、宣言(のりごと)であり、
神との人格的な対面であります。
普段日常的に思っていること、また念じていること、唱えていること、呟いていること、
このようなことはことごとく形をかえた祈りであります。
だから痛い!、苦しい!とかを呟いたり、その苦痛を人に訴えている者は、
ネガテイブな不幸等のコトバを心の中で祈っていることになります。
このように痛い!、苦しい!などの不幸を呟いているのは不幸から逃れたいと思いながら、
不幸を招くように祈っていることになります。
人間や物、一切の有情非情ありとし、あらゆるものは本来清浄無垢であります。
それ故にすべてのものが大調和であり、死も争いも病もないのが本当の世界であります。
これが天国であり、極楽世界であります。
この天国、極楽世界を今此処に既に実在していることを認識することが覚りであり、救われる第一歩であります。
このように迷っている心、これから精進して成る仏は無いのであり、
『この身このままで救われている仏』であることに目覚めることが『即身成仏』であります。


聞いて頂いている一人の女性が私は膝が大変『痛い!』と言われました。
貴女の痛みは貴女自身の今までの業(ごう)がその痛みに顕れているのであります。
そしてその業は本来速やかに消えつつあるのです。
しかし『痛いと呟く』ことは、また業を重ねることになります。
それはどうしてか言いますと人間は『痛い!』と思うことの潜在意識の中に他の責任でこの痛みが発生した思っています。例えば長年苦労して仕事をした結果この痛みがあると考えています。また隠れた憎しみが存在しています。
しかし本来は自分自身でこしらえた『痛み』であります。
丁度横に石油ストーブの上にヤカンが乗せられ、蒸気が上がっていました。
このヤカンの水を『業』に喩え、火を『善き想念』、蒸気を『業が消えて行く姿』に喩えてお話をしました。
下からの火(善き想念)』で熱するならば水が蒸発して、水が無くなり『水に喩えた業』は自然に消え去ってしまいます。
しかし業である『痛い!』と呟くことはヤカンにさらに水なる『業』を注ぎ入れることになり永遠にその業(痛み!)は消えないことになります。
だから『痛い! 』と呟かずに、その膝が『痛い!』というその事実に合掌礼拝してありがとうございますと感謝しますと
『痛い!』という観念の事実に隠されている『業である因縁』が自然に消えて行きます。
このようなお話をさせて頂きました。

・・・続く





















 

2月22日(月)のつぶやき

2016年02月23日 04時54分10秒 | 日記・エッセイ

薔薇がバラを愛しないで、どうして薔薇であり得るだろうか。