夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

2月13日(土)のつぶやき

2016年02月14日 04時47分02秒 | 日記・エッセイ

フロイドの夢の分析・・・①

2016年02月13日 22時07分43秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
フロイドの夢の分析・・・①

今、パソコンのキーボードを打っていると、突然、床が地響きする程の雷鳴がしました。
その瞬間、幼いない五才の頃に、障子の白い紙に稲光がして雷鳴がしたことを突然に思い出したました。
このように人間の心は不思議な世界です。
吾々は人とか物事に敵意を抱いたり、憎んだり、人を攻撃したりするとその復讐を心に思い描くので不安恐怖が訪れます。
敵なる相手と和解し、赦しますと不思議にも安心立命の心がひろがり不安恐怖がなくなります。




顕在内容と潜在内容

ともかくフロイトは、夢の内容には二つの内容があることを発見したのです。
その一つを『顕在内容』と云いもう一つを『潜在内容』という。
顕在内容というのは夢の表面に現れている当たりまえのの意味であり、見せかけの意味であります。それはおおむね前日の出来事やその晩の出来事のなんでもない、取るにも足らない出来事で、表面はともかく意味を整えたものであります。
しかしそれは裸の人間がよそ行きの着物をきた様なもので、表面は美しく又は何でもない様に見えていながら、実はその装いの下に、潜在内容である裸の人間がいるのであります。この裸の人間を、仮面の衣の装いをとり去って、暴露するのが精神分析であります。
フロイドは夢が潜在内容を変化して顕在内容に象徴化する事を指して『夢の仕事』と名づけたのであります。


・・・・・続く

             『注』ジームンク・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)―・・・オーストリアの精神科医で精神分析の創始者。





2月12日(金)のつぶやき

2016年02月13日 04時49分38秒 | 日記・エッセイ

現在意識と潜在意識の調和

2016年02月12日 23時12分05秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
現在意識と潜在意識の調和

温かい雨がちらつく春一番のような陽気でした。
太陽の輝きも、明るさが増してきました。
同じ病院に勤めながらも、最近あまり遇わない同僚から、俺、今年で定年だと告げられ、寂しい気持が過ぎりました。
何十年も部署は違っていても、共に同じ職場で働き、職場のソフトのクラブでも共に、走り、打ち、語り合った同僚の告げる明るさが印象に残りました。

一ノ谷の戦いで義経の鵯越の逆落とし云われた、
急斜面の坂を馬が駆け下りる奇襲作戦が見事に成功するには、
馬の前足と後ろ足が見事に踏み違えないような名馬を揃えていたのです。

馬の前足と後ろ足との譬え 

グレン・クラーク教授は『自分の馬は街では優秀な馬であるのに、
どうして嶮峻な山道を一直線に登ることができないのですか』ときいた。
『どんな立派な馬でも、長期間平地ばかりで走っていた馬は、その前脚の踏んだ足跡を、寸分たがわず同じところを後脚が踏まないで一センチとか数センチとか違う位置を後脚が踏む。
それは平地では何の危険もないけれども、嶮峻な山道では、前脚の踏んだ丁度の場所(これは目でみて安全なところを踏んだ位置)を後脚が踏まないで、一寸でもズレた位置を踏むと急斜面の岩を踏んで滑って転落するおそれがあるから危険です。
眼で見ながら危険のない所を踏んで進む前脚は現在意識に当たるのである。
ただ与えられた方向について行く後脚は潜在意識に当たるのである。
潜在意識がが現在意識に完全に重なり合う位に調和しておれば、その人の願うことは必ず成就するのであるが、
潜在意識の中に現在意識の願いを少しでも『それを好まない』とか、『それよりもこの方がよい』とかいう
否定的なズレがのある考えがあると、目的の山頂に登ることができないで途中で転落することになるのである。




現在意識と潜在意識との大調和するには
朝と寝しなに、また日中の普段の空いた時間にも

吾は神の無限の愛と智慧と生命に満たされた素晴らしい神の子である。

我が中(うち)に神が今此処に、そして天国が今此処にある。

神は吾を愛している。吾は神を愛している。
神と吾は一体である。

神様ありがとうございます。
神様ありがとうございます。
神様ありがとうございます。

今日に出会った人々と物と事の善い事と悪いこと失敗した事の
すべて(自分自身を含む)に感謝する『感謝行』。
そして『赦し』です。
例えば何某様ありがとうごぞいます。貴方を赦しました。
食事に出されたもの、白菜さんありがとうございます。
このような明るい祈りをすることにより、潜在意識が浄められます。


日の本の建国の理想 (やまとごころ)

2016年02月11日 18時30分37秒 | 真理の言葉
日の本の建国の理想

朕、寡徳(かとく)を以って万姓を臨馭(りんぎょ)す。
自ら治機に暗くして未だ寧(あん)じて救う尅(あた)はず


                                         桓武天皇(続日本紀巻三十七)

とこしえに民やすらかれといのるなりわが世をまもれ伊勢の神
                    
                                         明治天皇御製

雲の上に星をつらねてみそなわす花はゆうべもさやけかりけり


                                        昭憲皇后御集・・・御苑にて
                           『注』天皇が雲の上(宮中)、星をつらねて(侍臣を従えて)御覧になる。


国民をすくはむ道も近きよりおし及ぼさむ遠きさかいに

                    
                                          昭憲皇后御集

                  『注』東京女子師範学校にてフランクリンの十二徳
                  節制、清潔、勤労、沈黙、確志、誠実、温和、謙遜、順序、節約、寧静、公義)の『公義』より

四方の海みなはらかと思う世になど波風の立ちさわぐらむ

 
                                昭和天皇は明治天皇の御製を朗詠して戦争反対を表明された。 

日の本の国の基を築かれしすめらみことの古思う


                                     今上天皇御製
                                       近江神宮五十年祭にあたり。

外国の風招きつつ国柱太しくあれと守り給いき


                                      今上天皇御製 
                                   明治神宮鎮座八十年祭にあたり。

国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びて止まず

                    
                                      今上天皇御製 
                                               出雲大社にて。

ヤマバト

耳を すますと
もうきこえない

わすれていると
ほら また よぶ

雨に けむる
山のほうで

あんなに ことしも
春が 夏を

あんなに がんこに
大昔の なまりで

それで なければ
つうじないかのように

ほーぽ― ぐるる
ほーぽ― ぐるる

A TURTLE DOVE

Once I try to listen
It’s no longer herard

Once I stop heeding
It starts again to call―

Somewhere near the mountain
Misty in the rain

The annual, unchanging call
Of spring to summer―

Stubbornly the same
From ancient days

As if in no other way
Can the call communicate.

Ho Pô, GruRu
Ho Pô, GruRu

                              詩 まど みちお  選・訳 美智子皇后陛下(どうぶつたち)

いずれの御製にも民を思い、平和を願うお言葉であります。
これが日本天皇、皇后陛下の列聖の尊い御姿なのであります。




日本精神(やまとごころ)

日本精神とは結局ヤマトの精神であります。ヤマトの『ヤ』という語の音霊は数多いという事です。
八百万の『八』であり、三月の弥生の『弥』であり、三月は春きたって弥々(いよいよ)すべてのものが萌え出でる季節であるから三月を弥生という、つまり数多いことを『弥』というのです。
数多くの神々を八百万の神と言い、何でも数多くの種類の野菜や果物を売っている店を八百屋と言います。
ともかく『ヤ』というのは、数多くのものが中心に一つにまとまっていることを意味する。
『ヤマト』のマトはまとまるの『マト』であります。弓等の標的も真ん中に中心があり、そして周囲が丸く中心を取り囲んでいるから、これをマト(的)というのであります。
こうして『ヤマト』という国号は、多くのものが一つに中心にまとまる理念の顕現している国であることをあらわしているのであります。

建国の理想

日本建国の聖天子『神武天皇』はその建国の詔勅に、
『六合を兼ねて都を開き八紘を掩(おお)いて字(いえ)となさん』と仰せられた。
紘は冠りの紐であり紐は玉の緒の象徴であるが、冠りが落ちないように世界すべての民族の玉の緒を結び合わして
仲よく一家族とするという日本建国の理想を、今から二千六百七十六年も以前に宣言せられたのが日本の天皇である。

日本の国は、建国の理想から、世界連邦、四海兄弟の理想をそなえていた国なのである。
それゆえに、天皇を敬愛して天皇の治世下にあれば平和で安泰であったのであるが、
時々天皇の御意思に背くものが騒ぎ出して、国内が乱れたり、大東亜戦争が起こったりしたのであった。
従って、天皇を愛することは、同時に民利にかなうことであり、天皇敬慕と、愛国と、民利が一致していたために、
フランス革命のように国王打倒の暴虐と通して民主化の道をひらく必要がなかったのである。



開放の教育

2016年02月09日 18時12分42秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
開放の教育

私も青年時代に親に反抗して、ある時に、真っ赤な鮮血を嘔吐して、胃に激痛が走り、畳の上を七転八倒しました。
まだその頃は信仰に縁れていない時でした。
両親の深い真心の愛を理解出来ない時代でありました。
父母として深い因縁を頂き、その法縁によって導かれた御恩を授かり、
今は経を読誦し、乳哺の恩に報じ、無上道を得んと願い、精進させて頂いております。


親の束縛に対する子供の反抗は往々にして寝小便として顕れる。
蛙をつかまえるとき、蛙は小便を放って逃げて行くのである。
黄金虫を捕まえるときに黄金虫は青黒い不快な便をして逃げて行くのである。
ニイルは『嘘をついたために打たれた子供が指をなめたり、寝床をぬらしたりするような赤ん坊の習慣に帰る』
とその事実を指摘している。
大人の場合は穢い念を思い浮かべても自制の念で、子供のようにしないのであるが、
痰を吐きかけてやりたくなったり、嘔吐をもよおす気がしたりすることは往々にてあるのである。
しかし大人はそんな場合、自制の念でそれを押し消してしまうが、心に思い浮かんだ念(おもい)は形に表現されるか、
反対の観念で打ち消されないかぎり、表面は平静でも、いつまでも消えないで心に集積されて、
やがてある『縁』を得て具象化してその時の観念の象徴となるような
嘔吐をもよおす病気、痰咳をともなう病気に具象化してくるのである。


このように病気を起す内的原因は、遠くわれわれの潜在意識の中にあるのである。
抑圧された反抗観念はやがて形となって現れてくるものである。
いくら外から縛っても人間は決してよくなるものではないのである。
さらに困難な場合は、親の圧迫に対する反抗を内に秘めながら、、これを表面の心で自覚していない場合である。
子供の伸びる力は生命である。
生命は神であるから、放っておいたら必ずよくなるのである。

ニイルは自由教育を説いた。自由教育とは開放の教育である。
生命は開放されたときスクスクと伸びる。

『注』
念の具象化・・・心に思ったことが潜在意識へ集積されて、
ある時期にある縁を得て、その心の思いが象徴的に具象化される。



2月8日(月)のつぶやき

2016年02月09日 04時42分09秒 | 日記・エッセイ

小さな生命の喜び

2016年02月08日 20時58分19秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
小さな生命の喜び

手の平の乗るほどの小さな生命を抱きしめ、
病院の大理石の廊下を、ゆっくりと歩き、
その眼差しの先に、初めてのわが子を
汗ばむ腕のせて、嬉しさと喜びが
戦慄きと変わり、全身に緊張が走る。
いと小さな生命を静かに抱きしめ
ただ只管に、夢中に廊下を歩く。


子供の喜びは親の喜びであり
子供の悲しみは親の悲しみである。
親の喜びは子供の喜びであり
親の悲しみは子供の悲しみである。
子供と親は一心同体であり
子供は親の心を映した尊い姿である。
子供と親とは最も因縁が深いのであります。
自分自身の両親に感謝するとき、
吾が子供もスクスクと健全に生長するのであります。

ニイルの教育思想

『問題の子供を持つ親たちについて困ることは、彼ら自身の心理状態のいかんが、
子供達の状態に大いに影響するということを、どうしても承認しない場合が多いことである。』
ニイルは親の精神そのままが子供に現れていることを発見して、それを書いているのである。
子供の病気は親の病気。子供の神経衰弱は親の神経衰弱、
子供の夜泣きは親の夜泣き、子供の喘息は親の喘息、
子供の成績不良は、親の成績不良だと云う。
つまりそれは、子供は母親の一部分であり、子供の神経病は母に神経病だからである。
だから子供を無病健全に育てようと思うならば、
両親は子供を親の観念で縛ってしまわないようにしなければならないのである。
肉体は『自我の自由』を縛るがゆえに聖者は自分の肉体を殺したくなる。
それと同じ理由で、親は子供の『自我の自由』を縛るときは、子供は親を殺したくなる。
聖者はハッキリ肉体の自殺を意欲しないと同じく、子供もまたハッキリ親を殺したいとは意欲しないが、
聖者が『肉体嫌悪』に陥ると同様の理由で、子供は『両親または片親嫌悪』に陥り、
聖者が苦しめる苦行によって喜びを感ずるように、子供は両親に反抗してそれを苦しめて喜ぶようになるのである。
苦行の聖者と、親不孝の子供とはまったく違っているように見えても同じものなのである。


『注』
ニイル(Alexander Sutherland Neill)―・・・イギリスの新教育の教育家。精神分析学から異常児教育に関心を持ち、
                         世界で一番自由な学校であるサマーヒル学園を開く。
                         ニイルの教育法は戦後の日本の教育界に多大の影響を与えた。      


          ・・・・・続く




2月7日(日)のつぶやき

2016年02月08日 04時53分10秒 | 日記・エッセイ

一切の人々と天地一切のものに対して和解して感謝しなさい。 goo.gl/vBGar1


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一切の人々と天地一切のものに対して和解して感謝しなさい。

2016年02月07日 21時03分57秒 | 真理の言葉

一切の人々と天地一切のものに対して和解して感謝しなさい。


私達が今生活している現実の世界は『心の思い』によって良くもなれば悪しきにも現れる。
色々に変化する『唯心所現』の世界であります。
すべての悪しきもの、苦きものとして現れている全てのものに対して和解して感謝しなさい。
そこに全能なる神は顕れて、全てのものは癒されて、救われるであろう。


吾らは現実的には、一元の世界に生活するのでなく、真実、迷妄こもごも複合する世界に住むことになったのである。
そこに真実(実相)が全然あらわれていないのでなく、実相はあらわれていながら、
その実相は『迷いの霧』がたちのぼって、その実相が物質的に賦彩(ふさい)せられて、
世界は、物質的世界に、人間は『肉体』という姿にあらわれているのが『現実の相』である。

それ故に、わたしたちが住んでいる世界、感覚で見ている世界は、唯心所現の世界であって、
心によって色々に変化する世界なので、必ずそこに相対する『善悪の現象』があるのである。
『生』に対して『死』があり、
『健康』に対して『病気』があり、
『聖』に対して『悪』があり、
『純潔』に対して『汚濁』があり、
『愛に』対して『憎しみ』があり、
私達が『神一元』『善一元』の悟りの世界に超入しない限り、それらの対立の両者の間に惑わされ煩労を重ねるほかはないのである。

『注』
賦彩―・・・いろとりどりに絵づけ。




敵を愛しなさい

『隣人を愛し、敵を憎めと』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。自分の兄弟にだけ挨拶したところでどんな勝れたことをしたことになろう。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。

                                マタイによる福音書 五―四十三~四十八

2月6日(土)のつぶやき

2016年02月07日 04時45分22秒 | 日記・エッセイ

愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界 goo.gl/WDgoQW


愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界 fb.me/6XMltwoBY



愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界

2016年02月06日 21時32分22秒 | 真理の言葉
善のみの世界

この真実世界は花が咲誇り、
鳥が美しい青空を羽ばたき、
蝶が花から花へと舞い遊び、
生きとし生けるものが相睦び合い、
人と人が互いに合い寄りて、手と手を取り合い、喜びを語り合い、
愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界であります。

善のみの世界

神は物質でもなく、肉体でもなく霊であり給う。
霊より生まれたものは霊的存在であるから、一切の存在は、霊的存在であり、人間もまた霊的存在である。
霊は神通無碍、融会無碍であるからどこに不調和は存在しないのである。
それ故に天地創造を描いた旧約聖書の創世記の第一章には
『神、その創造りたるすべてのもの見給いけるに甚だ善かりき』と書かれているのである。
神のつくり給える霊的実在の世界には悪は決して存在しないのである。
また神がその全能の力にて一度善に創造したものは、その後何者の力をもってしても、それを悪に変ずることは出来ないのである。
それ故に、この世界には今も善のみが存在するのである。これを善一元の世界と呼ぶのである。

どうして本来無い悪が出現するのであろうか
迷いの雲である悪はどこから生じたのであるかというと、眼耳鼻舌身の五官の認識作用が、日常生活の便利のために、霊的実在の世界の事物を固定化して物質という相に翻訳して見せたのである。
たとえば目には見えない電波の世界の映像をテレビに目に見えるよう画像として映し出したようなものである。
そうして自分の想念の表現によって出現した『唯心所現の世界』を固定化して、
物質的構造の世界に物質的構造の人間が生きているような感ぜしめたのである。
こうして人間は意識の自覚の上では、『霊的存在』の高所から物質的の谷間に墜落したのである。
これを人間(アダム)の楽園追放というのである。人間自身を物質的存在と誤って信じたために神通自在の意識が失われ、迷いによって縛られた不自由な存在まで墜落したのである。

『注』
融会無碍―・・・すべてのものが融け合って何の障りもなく、何もにもとられずに自由自在である。



無抵抗の真理

『目には目を歯には歯を』と命じられている。
しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者は与えなさい。あなたから借りようする者に、背を向けてはならない。

                               マタイによる福音書 五―三十八~四十二
  ・・・・・続く


2月5日(金)のつぶやき

2016年02月06日 04時43分08秒 | 日記・エッセイ