夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界

2016年02月06日 21時32分22秒 | 真理の言葉
善のみの世界

この真実世界は花が咲誇り、
鳥が美しい青空を羽ばたき、
蝶が花から花へと舞い遊び、
生きとし生けるものが相睦び合い、
人と人が互いに合い寄りて、手と手を取り合い、喜びを語り合い、
愛と歓びと慈しみに満ちた大調和の世界であります。

善のみの世界

神は物質でもなく、肉体でもなく霊であり給う。
霊より生まれたものは霊的存在であるから、一切の存在は、霊的存在であり、人間もまた霊的存在である。
霊は神通無碍、融会無碍であるからどこに不調和は存在しないのである。
それ故に天地創造を描いた旧約聖書の創世記の第一章には
『神、その創造りたるすべてのもの見給いけるに甚だ善かりき』と書かれているのである。
神のつくり給える霊的実在の世界には悪は決して存在しないのである。
また神がその全能の力にて一度善に創造したものは、その後何者の力をもってしても、それを悪に変ずることは出来ないのである。
それ故に、この世界には今も善のみが存在するのである。これを善一元の世界と呼ぶのである。

どうして本来無い悪が出現するのであろうか
迷いの雲である悪はどこから生じたのであるかというと、眼耳鼻舌身の五官の認識作用が、日常生活の便利のために、霊的実在の世界の事物を固定化して物質という相に翻訳して見せたのである。
たとえば目には見えない電波の世界の映像をテレビに目に見えるよう画像として映し出したようなものである。
そうして自分の想念の表現によって出現した『唯心所現の世界』を固定化して、
物質的構造の世界に物質的構造の人間が生きているような感ぜしめたのである。
こうして人間は意識の自覚の上では、『霊的存在』の高所から物質的の谷間に墜落したのである。
これを人間(アダム)の楽園追放というのである。人間自身を物質的存在と誤って信じたために神通自在の意識が失われ、迷いによって縛られた不自由な存在まで墜落したのである。

『注』
融会無碍―・・・すべてのものが融け合って何の障りもなく、何もにもとられずに自由自在である。



無抵抗の真理

『目には目を歯には歯を』と命じられている。
しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者は与えなさい。あなたから借りようする者に、背を向けてはならない。

                               マタイによる福音書 五―三十八~四十二
  ・・・・・続く


2月5日(金)のつぶやき

2016年02月06日 04時43分08秒 | 日記・エッセイ