『ER 緊急救命室 II』の中にこういう場面があります。
救急隊員が通報を受けてある家に行くと、そこには「ヤク」で倒れている男と、10人ぐらいの子供が泣いていました。その男は生活保護をもらうために親戚中からその子供たちを引き受け、そのお金でクスリを買っていたのです。当然子供たちは満足に食事も与えられず、みな栄養失調で危険な状態の子供もいました。
この家は「黒人」の家だったのですが、病院で救急隊員がポツリと
「まったくヤツらは何考えているんだ」
と言います。するとその場にいた「黒人」の病院の受付係と医者が
「それはどういう意味だ?」
と怒り出します。救急隊員は「べつに黒人という意味じゃねぇ」と弁解しても「同じことだ」とその「黒人」たちは怒ります。
救急隊員は黒人の医者に向って
「あんたは医者で俺は救急隊員だ。少なくともあんたにとってはこの社会は平等だ」
と言うと、
「分かったことを言うな」
と睨まれます。
彼は「俺のいたリトルリーグは白人は俺一人だけだった。俺はレイシストじゃねぇ」と必死で怒りを込めながら弁解します。
果たしてこの救急隊員は差別主義者なのでしょうか。
『紛争の心理学―融合の炎のワーク 』という本を読みました。著者は心理学者の
アーノルド・ミンデル。私は彼の本を読んだのは初めてだけれど、長年私が考えてきた社会や対人関係の考え方とほとんど同じなので、自分の考えを確認するように読めました。
私の考え方といってもそれはオリジナルなものではなく、
チャック・スペザーノなどのトランス・パーソナル心理学者の考え方です。ミンデルはそういう流派の第一人者なのでしょう。
ただミンデルの考え方は他の心理学者などよりも、個人の心理の問題は社会全体で対処すべきという方向性を打ち出しています。チャック・スペザーノなどは個人が変わることで状況が変わることを強調しますけど、逆にミンデルは個人の心理の問題をその個人だけが対処すべきものと捉えることの弊害を強調します。
例えば、貧困層出身の人がいい学校に入れないとき、
「その子自身が勉強を頑張らなかったからその子に責任がある」
という立場と
「勉強に取り組む環境を整備できなかった社会に原因がある」
という二つのどちらが正しいでしょうか。
ミンデルは、この社会には差別のきっかけとなる秩序が網の目のように張り巡らされていることを指摘します。ジェンダー、収入、人種、等等数えあげればキリがありません。
ミンデルは、これらの差別について考えるときに、人は一方的に「弱者」の味方につく誘惑に負けやすいと述べます。しかしこれは、結局差別の秩序をそのまま使って上下関係をひっくり返したに過ぎません。
人種問題で黒人側だけを味方する、ジェンダー問題で女性だけに肩入れする、格差問題で低所得層だけに味方する。これらの立場は、差別の秩序を明らかにするという点では有益なのですが、にもかかわらず自分の立場を絶対視して「差別する側」を一方的に攻撃することになり、結局差別の秩序をそのまま温存してその「正しい人」と「間違った人」を作り出します。その点では、差別の問題が起きたときと状況はなんら変わりません。罪悪感・敗北感をもつ人が変わっただけで、「攻撃される」という役割・差別の秩序はそのまま温存されているのです。
多くの社会学がこうしたミスに陥ったのは、社会学者たち自身の「善良さ」と、社会構造を摘発することと道徳的行為とを一緒くたにしてしまう彼らの傾向に負っていたのだと思います。
それに対して臨床心理学者のミンデルは、まず「攻撃される人」の心理を、社会の主流派が見落としている一つの心理的契機と見なします。
例えば「テロリスト」の存在を私たちは、問題の解決を暴力に訴える野蛮な集団と見なします。しかしミンデルから見れば、「テロリスト」の存在は、わたし達人類の集合意識が、過去に犯した過ちにもう一度直面すべく表面に浮上したことの表現です。
社会の主流派がマージナルな人々を抑圧したとき、私たちは自分の心理の一部をマージナルな人たちに投影して、その一部を抑圧して彼らを迫害しました。「テロリスト」は、このわたし達の抑圧の契機をもう一度直視すべく、過激な行動に訴えます。
自分達の心理の一部を抑圧している主流派は、なぜ「テロリスト」が野蛮な行動に訴えるのか理解できません。しかし「テロリスト」は、過去の迫害された歴史から、怒りをそのままに行動に移さざるを得ないような心理を抱え込んでいます。
主流派は冷静に議論しようとします。しかし「テロリスト」にはそんな余裕などないし、彼らは主流派に忘れた記憶を思い起こさせるために、主流派が冷静であればあるほど過激な行動に訴える必要性に駆られます。
こうした分析から導かれるミンデル独特の主張は、社会に生じる問題すべてに私たちは責任を負っているというものです。たとえわたし達に覚えがなかろうと、怒りをもつ人がいる以上、私たちは怒りを持つ人たちの声を聴かなければならない、それはわたし達が抑圧した心理の一部なのだ、そうミンデルは言います。これはわたしにはミンデルの過激な部分であり、本当にそうか賛同するのに躊躇する部分です。
ミンデルは、マージナルな人を絶対視することは批判します。「差別された人」に一方的に肩入れすることは、逆にまた「差別する人」を“裁く”ことになり、結局「差別する」というわたし達の集合意識の一部を抑圧することになり、やがて裁かれた人たちは反撃に転じるからです。
むしろミンデルは、臨床心理学者らしく・グループワークのファシリテーターらしく、ひとりの人が怒りをもつとき、その怒りは集団心理の一部であり、すべての人がその怒りをもっており、よってすべての人がその怒りの契機を掘り起こして癒さなければならないと主張します。
他人が一方的に怒るとき、私たちは「なぜ彼らはわたしを攻撃するのだ?」と理不尽に思います。しかしミンデルの立場に立てば、あなたの前にいる人が怒る理由は必ずあなたにもあるのだ、ということになります。これは本当にそうなのでしょうか。
例えば大学院にいたときに、わたしは社会思想の古典研究をしていましたが、何人かの人に陰に陽に古典研究をしていること自体に関して攻撃されたことがあります。
彼らは実証研究をしているのですが、彼らからすれば、古典だけを勉強することは安易であるということをいいました。
そういう彼らの言い分を聴いているとき、わたしは随分理不尽な気持ちになったし、今でもその記憶が甦ります。
私からすれば、むしろ直接社会を対象にして研究するほうが関心の所在を他人に説明しやすく、自分のやっていることの正確を自分にも他人にも説明しやすくなります。
しかし古典研究は、「なぜ古典をしているのか」ということを絶えず自問自答しなければなりません。それは、ある面から見れば、自分のしていることの正確を問うという緊張を絶えず強いられる作業です。またそれにもかかわらず、現在の学界の風潮では古典研究は重要視もされません。
しかし古典研究をしていない人にはそんな自問自答は未知のことです。彼らには、古典研究というのは、対象を狭めることで安易な方法を採っているようにしか見えなかったのです。
では、彼らの古典研究への敵対心は正当でしょうか?不当でしょうか?
それは正当か不当かははっきり分けることのできないものだとミンデルなら言うでしょう。
例えば、古典が古典である以上、それは学問という秩序の中で(一応)重要視されてきた歴史があり、つまり学問史の中の序列の中で上位を占めてきました。その古典を学ぶことは、必然的に既存の序列を重視する作用が働きます。それが良いか悪いかにかかわらず、そうした作用があります。
したがって、どんなに古典研究者自身が誠実であろうと、その序列の強化には責任をもつ必要があります。
古典研究を攻撃する人は、そうした序列に反発します。そうした序列への反発は「権威」への攻撃とも言うべきもので、その学問の序列のみならず、権威一般への怒りと言えます。それが彼の人生のどの部分に原因を持つかは人それぞれかもしれませんが、怒りの原因は過去にあると想定できます。学問の序列はこうした彼らの怒りを刺激します。
古典研究者自身は、例えば私の場合は、なぜか過去のテキストに惹かれる自分に戸惑いながら勉強していたけれど、その序列に参加している以上は、その序列に怒りを刺激された人に応答する責任があるとミンデルなら言います。なぜなら、私たちの意識は人類全体の集合意識の一部であり、そうした学問史を作った人類の意識も、また権威に迫害された人々の意識も両方とも合わせ持っているからです。
したがって学問の序列に反発する人がいる以上は、この人類全体の意識を癒すためにも、私たちは浮き上がってきた人々の怒りに対処する必要があります。
こうしたミンデルの考えはどこまで正当と言えるでしょうか。
・お金のある裕福な家に生まれた人が、きれいな家に住み高価な服を着て高い教育を受けいい仕事に就いています。彼女は「素直」な性格で友達も多くいます。生活保護を受けている貧困層出身の人が彼女に怒りをもちました。彼女はこの貧困状態にある人の怒りに応える責任があるでしょうか?
・きれいな顔で胸もありウエストが細く足も長い女性がいます。「ブス」に生まれた人が彼女に怒りをもちました。容姿に恵まれた女性は「ブス」の彼女の怒りに対処する責任があるでしょうか?
・少数民族出身で勉強のできる男性が大企業で出世しました。彼に怒りをもつ同僚の女性に対して男性は対応する責任があるでしょうか。
・日本でおいしいエスニック料理をたらふく食べる日本人に対して、アジアの貧困地域の人々が怒りを持ちます。私たちは彼らの怒りに責任をもつべきでしょうか。
これらの問いに対してミンデルはイエスと言います。ミンデルにとって、一部の人の「怒り」は全体の責任だからです。ミンデルは、「怒り」をもつ人の反対側にはつねに「冷静」な人がいるといいます。しかしこの「冷静」さは、自分の一部を抑圧しただけの「冷静」さにすぎません。
これは社会科学ではなく心理学者だから言えることなのでしょうが、ミンデルはすべての人の心理はつながっており、すべての人の心理の集合が私たちの本来の意識であると言います。つまり、たとえ冷静であっても、地球の反対側で怒りを持ち銃で人を撃つ人がいれば、その怒りを私たちは共有しているのです。
たしかにミンデルは、悲劇の状況にある人を一方的に擁護したいのではありません。そうではなく、誰かが悲惨な状況に置かれ悲嘆と苦しみに置かれているとき、私たちの心の一部も悲嘆にくれており、普段私たちはそれを自覚しないだけだということです。しがって悲惨な状況にある人を癒すことは、私たち自身をも癒すことになります。
ミンデルは社会の主流派に罪悪感をもつことを求めているわけではないし、むしろ逆に彼は、主流派がそのメリットを享受するを薦めてもいます。
ただミンデルが言いたいのは、にもかかわらず苦しむ人がいるとき、その人たちをむしすることは自分達の心の一部を抑圧することになるし、それは後で自分に跳ね返ってくるよ、ということです。
こうしたミンデルの言い分は、まっとうにも感じられるし、私には過激すぎるようにも感じました。おそらくミンデルはグループ・セラピーのファシリテーターとして紛争地域に乗り込み、実際に迫害を受けてきた人たちと接触してきた経験がこの著書の執筆に大きく影響しているのでしょう。弱者を絶対視してはならないと言いながら、同時に迫害され怒りをもつ人たちに対応することを強調します。彼の立場に立てば、世界に苦しんでいる人がいる以上、私たちは絶対に幸せにはなれないのです。
ただ彼自身は他の社会運動家とは違い、主流派を攻撃することは絶対に間違いであると強調します。肝心なのは「差別する人」を攻撃することではありません。むしろ「差別する人」というのも、差別の秩序を利用して他人を攻撃するよう強いられているという点では、被害者と同じ心性を抱えています。
要するに、一方では表立って攻撃する人がおり、他方では自分の攻撃心を抑圧する人がいるということが事実であり、重要なのは自分と相手のその攻撃性に対処するということです。
この対処というのも、同意を求める議論という意味ではありません。むしろ「同意」「議論」というものは、割り切れない心に一方の結論を押し付ける形になります。何か一つの方向(「冷静な議論」「全員の賛同」)に向わなければならないという想い事態が、一つの強迫となって、また心理的抑圧を引き起こします。
むしろ現時点で大切なのは、他人と自分が怒りをもっていること、私たちが様々な差別の秩序を生きていること、そこには一方的な弱者も強者もいないこと、これらのことを理解することです。
こうしたミンデルの主張は、心理学を受け入れられない社会科学者には理解しがたいものかもしれませんし、同時にセラピーの場面にいる人たちにとっては今さらという考えかもしれません。
もしそういう懸隔があるとすれば、その差が埋まることも一つの課題かもしれません。
涼風