joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

痩せたい

2006年04月18日 | 日記


なかなか痩せない。

たしかに結果を早急に求めるのはよくないけど、べつに5キロや10キロ痩せたいのではなく、2キロ、2キロ痩せるだけで十分なのだ。それだけで僕の場合はズボンのボタンが大分ラクに感じます。

以前よりも歩くようにしたり(上の写真の場所とか)、紅茶を飲むときにクリームを(たまに)控えたり、パンに塗るマーガリンの量を減らしたりしているのだけど。

しかしよく歩いた日はお腹がすいてパンとかを間食でよく食べたりしているのも事実です。

もしジムとか行ったりしたら(そんな予定はないけど)もっとバクバク食べるかもしれない。


涼風

「宗教・宗教改革・社会変動」H.R.トレヴァー=ローパー(著)

2006年04月18日 | Book
英国の歴史学者H.R.トレヴァー=ローパーの『宗教改革と社会変動』(未来社)所収の論文「宗教・宗教改革・社会変動」を読みました。

これを読んだきっかけは、中井久夫さんの論文「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」の中で、ピューリタニズムが当時の西欧世界に与えたインパクトを記した参考書としてこのトレヴァー=ローパーの本を挙げていたからです。

この本には他にも二つの論文が収められています。「宗教・宗教改革・社会変動」は50頁ほどの論文。二回ほど読み直して頭に入った感じですが、なかなか刺激的な論文でした。

この論文は、ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の、プロテスタンティズムの人間類型と資本主義の精神との親和性というテーゼを参考にしつつ、宗教改革と資本主義の勃興との関係は実際にはどうだったのか(というのもヴェーバーの試論は歴史的検証が著しく欠けている)を探ろうというものです。

トレヴァー=ローパーが宗教改革と資本主義との関連の探求に関して着目したのは、まず16・7世紀の企業家層の出身地方でした。

ヴェーバーのプロ倫テーゼが、プロテスタンティズムが直接資本主義を生み出したことを言おうとしていたわけではなくとも、プロテスタンティズムの人間類型が資本家的行動を推進することに与って力があったと指摘しているのは事実です。トレヴァー=ローパーも、当時の代表的な商人(その例としてスウェーエンやデンマークの政商などが挙げられている)がカルヴィニズム(プロテスタンティズムの一派)出身だったことを認めます。

また面白いのは、これらカルヴィニストの商人たちが活躍したに、彼らが仕えた国家宮廷にはカトリック国やルター派の国(スウェーデン、デンマーク、ハプスブルグ朝、フランス、スペインなど)があり、必ずしも急進的なプロテスタント派の国とは言えなかったことです。宗教改革が吹き荒れた16世紀にそれを潰そうとした国々が17世紀にはこれら改革派の商人たちの力を借りようとしたわけです。

ここでトレヴァー=ローパーは、カルヴィニズムと資本主義(的人間類型)との関連を説いたヴェーバー・テーゼを直接認めることを戒めます。ヴェーバーの論証では、恰も敬虔なカルヴィニストであるほど資本主義を推進することになったように読めますが(それは正確には間違いだけど)、上記のカルヴィニズムの商人たちはとても敬虔な信者とは言えないし、その行動パターンだけをとっても真正なカルヴィニストと言えるかどうかも怪しいものでした。すでに彼らは金銭的な利益の蓄積だけを使命と感じず、それを奢侈への没頭に用いるだけの欲深さもそなえた俗人たちでした(28頁)。彼らの行動パターンは必ずしもヴェーバーが想定したような「禁欲」とも言えませんでした。

では、ヴェーバーの分析が完全とは言えないとしたら、なぜカルヴィニズム出身の商人たちが、当時の宮廷に軒並み重宝されるほどの企業家精神を発揮しえたのかという問題が今度は出てきます。

そこでトレヴァー=ローパーは、これら商人たちの出身地域を調べてみることにします。すると一つの事実が浮き上がってきます。

これらの商人たちは、それぞれオランダ・スコットランド・ジュネーブ・プファルツなどですが、それらの地域自体は確かにカルヴィニズムが根づいた改革派の都市ですが、そこからヨーロッパ全体で活躍するようになった企業家達自身は、それらの土地の出身ではなく、また別の地域からそれら改革派の都市へと移住してきたのが実際でした。

では当時活躍していた企業家たちの元々の出身地はどこかと言えば、トレヴァー=ローパーが見出したのは、フランドル(アントワープ)(ベルギー・フランス)・リエージュ(ベルギー)・アウグスブルク(ドイツ)・コモ・ロカルノ・ミラノ・ルッカ(イタリア)などです。

著者はこれらの都市について次のように述べます。すなわち、これらの都市には、産業革命以前にすでに遠隔地間商業と二大産業(毛織物工業と鉱山業)を基盤にして「大規模資本主義」が成立しており、その点で「中世資本主義の遺産を承継ぎ、近代資本主義の皮切りとして明るい展望を持ってい」た、「ヨーロッパ経済史上重要な土地」でした(35頁)。

もう少し詳しく言うと、

アントワープ:毛織物工業
リエージュ:鉱山・精錬業
リスボン:遠隔地商業
アウグスブルク:繊維工業
ミラノ・フィレンツェ:工業
ヴェネチア・ジェノヴァ:商業・金融

となります。これが1500年代のこれら経済先進都市(それらは改革派の都市ではない)の様相です。

著者はこれらの都市の経済活動について、「その方式の〈合理的なること〉、その機構の〈官僚制的であること〉にかけては、近代資本主義のどこと較べても遜色がなかった」と言います(36頁)。つまり、宗教改革を俟たずとも、「近代資本主義的行動類型」は世界史上に存在したということです。「フランドル人がオランダ・スウェーデン・デンマークに、イタリア人がリヨンやスイスにもたらした手法は、中世資本主義の旧い手法だったのであり、それは宗教改革前夜に完成されており、新しい諸地域はそれを活用したに過ぎない。要はそれだけのことである」。著者はこれらの事実を見て、「カトリック支配下のヨーロッパは、少なくとも宗教改革までには、資本主義経済を創り上げる能力を完全に具えていた」と指摘します(37-8頁)。

ここで

・では宗教改革派が資本主義的企業家像と深い関係があったというヴェーバー・テーゼはまったくの事実誤認だったのか?

・カトリシズムと資本主義とは深い関連があるのか?それとも、もともと宗教と経済発展との間には関連がないのか?

・なぜ上記のカトリック地域の企業家たちはカルヴァン派の都市への移住したのか?

などの疑問が出てきます。

この論文の最初で著者は、まず1600年代にヨーロッパ諸国で宮廷と深く結びついた企業家達がカルヴァン派であること、また彼らカルヴァン派は敬虔な信者とは言えないし、彼らの行動類型にもヴェーバーが見出したような禁欲の精神や経済活動のみへの専心といった特徴も見出せず、むしろ強欲な金銭欲に彩られた行動をも見せたことを指摘します。

しかしトレヴァー=ローパーは、これら1600年代に活躍した企業家達の出自が改革派の都市から上記のカトリック諸国へと遡ることを確認したう上で、面白いことに(奇妙なことに?)再度宗教の精神と企業家活動との関連を指摘することで、上の疑問に答えようとします。

すなわち著者は、「ヴェーバーがこの<召命>という考えのうちに資本主義創出の不可欠の要因を認めたことは、疑いもなく正しい。だが、彼は、実はこのような考えが純粋にプロテスタント的な考えであると想定したのであり、この点で決定的に間違っている」と述べます(40頁)。

当時の腐敗・肥大化したカトリック教会組織に反旗を翻したルターには、同時代にその先人とも言うべき人、オランダの神学者エラスムスがいました。ルターよりも早く教会批判を行ったのが彼でした。トレヴァー=ローパーは、エラスムスの教えと企業家層・教養層との結びつきを重視します。

エラスムスの教えは「世俗の職業生活も、その日々の勤めに当って内面的信仰により清められるならば僧の勤行に劣らぬ神聖なるものであるとしてこれを称揚」するものであり、ルターは彼を尊敬していたそうです。著者によれば、「この思想が、とりわけブルジョアジーの態度であったことは、常識となってい」ました。

エラスムス自身はカトリック組織を転覆させるという意思をもたず、その点でルターには必ずしも賛同しませんでした。しかしエラスムスは純粋に聖書の教えに立ち返ることを説いたのであり、言わばキリスト教の教えを純粋に遂行しようとしただけだと言えます。

ヴェーバーが見出した「プロテスタンティズムの倫理」とは、そのままエラスムスの思想にまで遡ることが出来ると著者は言い、事実カルヴァンが強い影響を受けていたことを指摘します。つまり、ヴェーバーが見出した倫理とは改革派が発明したものではなく、宗教改革以前に、教会組織の目的化ではなく、聖書の教えに立ち返ることを実践しようとした敬虔な神学者の思想(それはエラスムスに限らず)にまで遡ることが可能かもしれません。

実際ヴェーバーも、「プロテスタンティズムの倫理」と同種のエートスを必ずしも改革派の歴史のみではなく、それ以前の過去の歴史にも見出しています。

このエラスムスの教えは教会組織の転覆を意図していませんでしたが、宗教改革が拡がる中でカトリック諸国にとっては危険な思想と捉えられます。

ここでトレヴァー=ローパーは、(ヴェーバーと同じく?)やはり篤い信仰心が社会変動を引き起こしたという仮説を提示します。

彼によれば、エラスムスが表現した思想は「ヨーロッパの旧来の経済的エリート達が、何代もの間貫き、何代にもわたって許容されて来たその精神的態度」(43頁)だったのですが(つまり、やはり純粋な信仰と経済的な実践は結びつくということか?)、カトリック諸国はこの思想を異端で反教会的と見なしたため、企業家たちは移住を余儀なくされたというわけです。

ただこの移住は、純粋に信仰(理念)のみにかかわる利害とは言えないところがあります。それは、企業家たちにはその信仰と経済活動が一体化しているために、むしろ自身の信仰が迫害を受けることと経済活動が阻害されることは一体化していたと言えます。

ここに著者は、15世紀以降に進展していたカトリック諸国の政治・経済体制の転換の影響を見ます。すなわち、本来中世の資本主義を生み出したそれら自治都市共和国(フランドルやハンザの諸都市、地中海地方ではイタリア諸都市、ライン地方や南ドイツの諸都市)では、王侯たちが都市を併呑するに際して新権力維持のために土地貴族や教会の支援を求めたため、見返りに彼らを「官職保有者」層としました。しかしこうした官職の増大は維持に費用がかかり、そのため間接税を通じて大衆や商工業への賦課が行われます。

ここで資本主義を生み出したこれら諸都市の中で、王の権力を後ろ盾とする大商人層と、そうした後ろ盾を得られない中・小企業家層の格差が生じます(ヴェーバーの『都市の類型学』はこの過程を社会学的に分析したものです)。

宮廷の御用商人となりえた大商人はその子弟をもはや商人とさせず、新宮廷あるいは教会に「官職保有者」として仕えさせます。しかし、このような行政の肥大と政商の権力の増大は「民間」の資本家の行動範囲を狭めます。これが結果的に、16世紀にわたって、多くの企業家たちを移住へと駆り立てました。

カトリック組織と国家、そして大商人との結びつきに対して批判的にならざるをえないこれら企業家たちは、(因果関係はどちらが先かわかりませんが)聖書への回帰を訴えるエラスムス思想の支持者です。エラスムス自身は宗教改革に反対していましたが、その思想はルターやカルヴァンに引き継がれていきました。そこから必然的に、カトリック諸国のカトリシズムでエラスムスの支持者は自然にカルヴァン派の諸都市に引き寄せられていきます。

またこれらカトリック諸国の国外では、当時まさに経済的機会の増大が見られていました。したがって著者は、カトリック諸国の改革派思想の異端視がなくとも、こうした移住は生じただろうと指摘します(51頁)。

この論文の冒頭で扱われている、17世紀にヨーロッパの宮廷が頼りにした大商人達は、これら移住者の商人たちの中で力をつけたものたちでした。

それは、反宗教改革が成功をおさめ、社会のカソリック教権組織化がヨーロッパで主流となる中で、もともとその教権組織を逃れるためにカルヴァン派の自由な雰囲気をもつ都市に移住した商人たちが再度カソリック組織に呑み込まれていった過程と言えるでしょうか。トレヴァー=ローパーは、この反宗教改革の成功とヨーロッパ諸国の教権組織化の進展とヨーロッパの経済的停滞との結びつきを指摘します。またその時期は、新しい機会を求めてヨーロッパの人々がアメリカへ移住を始めた時期とも重なります。それは、宗教組織に背を向け聖書に立ち返ろうとした人々が再度新しい場所を求めて移住を開始した事件だとも言えます。

この論文は、一見ヴェーバー・テーゼの無効化にも見えますが、むしろヴェーバーの着眼点の鋭さを追認することを意図しているとも読めます。なぜなら、著者は最終的には宗教改革派の精神と企業家活動との結びつきを認め、自分の立論においてその結びつきに依拠しているからです。


不安

2006年04月17日 | reflexion


昨日の夜にふと、お金がない状態に陥ったときのことを想像しました。もう布団に入っていたのですが、そのときには肉親への理不尽な怒りや(べつに彼らは悪くないのですが)不安に駆られて、もう寝られなくなってしまいました。

私は今オーディオブックをよく聴くけど、それらは1セット大体3千円ぐらいします。それらは図書館では手に入りません。お金がなくなると、もうそれらも手に入れることが出来なくなり、自分のしたいこともできないようになると考えてしまいます。

そう考えると不安になってもう寝ていられませんでした。

“知っている”

2006年04月16日 | reflexion


僕が人と話しているとき、相手の人についてではなく、一般論として「・・・って・・・ですね」と語っているつもりなのに、突然相手の人がムキになって反論してくる(ように感じる)ことがあります。

「僕自身は一般的な話をしているつもりのに、なぜこの人は僕に反抗してくるんだろう?僕が何か悪いことをしたのか?」

相手がムキになると、相手がムキになるということ自体に僕も腹が立ってきます。なんだか相手が僕自身に反抗してきたように感じて、とても腹が立つのです。


アーノルド・ミンデルは、「これまでのリーダーは“知っている”。これからのリーダーは“学ぶ”」と指摘しています。

人と話していても最初から「自分は答えを知っている」という態度でいる人は、偉そうに見えますが、それは旧来のリーダー像だということです。

それに対してこれからのリーダー(ミンデルはそれを、「リーダー」という言葉ではなく「長老」と呼んでいます)は、“学ぶ”姿勢をもっている人だといいます。

そう見ると、現在の世の中のリーダーのほとんどが“自分は答えを知っている”という態度をもち、人と話すときでも相手から“学ぶ”ことを考えずに、つねに相手に“教え”ようとしていることが分かります。

しかしそれはリーダーたちだけではなく、わたし(たち)についても言えます。

このブログで私は政治的な意見をよく書くけど、大抵は後味が悪くなります。それはどうしてだろうと思っていたけど、政治的意見というのはたいていの場合は「自分は答えを知っています。ほらこうでしょう」というわたし(たち)自身の傲慢な態度の表れだからです。

私のブログでも他のブログでも、政治的意見を述べたもののほとんどすべては「私は“知っている”」という書き手の態度を表わしたものです。

“知っている”という態度は、人とコミュニケーションをしていません。人と接しているようで実際は人を支配しようという姿勢の現れです。だからこそ私(たち)は政治的意見を開陳する人は好きになれないし、同時に政治的意見を述べる誘惑に簡単に陥ります。

私(たち)が他人と衝突するのも、私(たち)が「私はこのことについて“知っています”(だから他人にもあなたにも学ぶことはありません)」という態度で人と接したときです。

また相手の人が同じような態度を表わしたときも、「いや、あなたよりも私のほうがもっと“知っています”」という競争心で対抗しようとします。


涼風

2千円

2006年04月15日 | 日記


アメリカのアマゾンでテープを購入したら、同じモノを二つ買ってしまいました。それぞれ別々のページで紹介されていたので、てっきり違う商品かと思ったら同じ商品でした。グジョー。同じ商品について二つもページを作るなー。

一つは19ドル。もう一つは15ドル。まぁ、だいたい2千円ぐらいの損失です。あーん、もったいないよぉ。2千円も失くしてしまった。2千円を無駄にしてしまった。とっても悲しい。

勉強代(いろいろなことの)ですね。


涼風

日々いろいろ

2006年04月13日 | 店舗を観察して


タイガースは、接戦に勝っていい調子だと言った矢先にまさに接戦で連敗です。うーん。今年の優勝は巨人かな。まぁ、そうなったらそれも仕方ないですね。

神戸地方は今桜が満開を迎えています。桜の樹が町中に植えられているのか、少し歩けばどこもかしこも桜で一杯です。いや、うれしいんですけどね。

やっぱりお腹の太り具合が気になる。バスや電車に乗っても、椅子に座るとジーパンのボタンがきつくてしょうがありません。これは、ジーパンの選び方が下手なのかな。僕は昔から腰周りがいつもきつく、ボタンを外したくなります。腰周り以外はちょうどいい具合なのだけど。それとも世の中のジーパンを穿いている方々はみんな苦しいのを無理して腰のきついジーパンを穿いているんでしょうか。

高校生のときからずっと聴いているプリンスのニュー・アルバム“3121”が発表されて3週間以上経ちました。

アマゾンではいまだに二桁代の順位で噂ではビルボード初登場1位とのこと。昔からのファンとしては感慨があります。レビューでは80年代の全盛期を彷彿とさせるそう。つまりかなりいい出来のアルバムみたい。

にもかかわらず、昔はずっと彼を聴いてばかりいて初来日時にはコンサートに行き、二度目の来日時にもセンター試験を控えながらもチケットを買うほどだったのに、未だにニュー・アルバムは買っていません。

買っていないのは、2千5百円を出すのがなんとなく惜しいから。そのお金があればオーディオ・ブックが買えるんじゃないかと思ってしまうのです。欲しいものがあるんですよね。アメリカのアマゾンとかで捜していると面白そうなオーディオブックが売ってあります。

英語やドイツ語のオーディオブックをたくさん買っても一つ理解するのに何度も何度も聴かなくちゃならないし、一度にたくさん買っても棚に積まれるだけなので、音楽CDを買ってもいいはずなんだけど。優先順位って変わるものなんですね。

その代わりじゃないけど、最近TSUTAYAに入会してスティービー・ワンダーのCDとか聴いています。TSUTAYAに入ったのは、やはり品揃えがいいからです。スティービー・ワンダーの60年代の作品も置いてあったりして嬉しい。

店にもよるけど、やはりTSUTAYAは他の地域のレンタル店に比べてユニフォームで店員の衣装を統一し、店内の雰囲気もかなり凝っています。そうしたチェーン店の体制により、他の中小レンタル店に比べて、消費者にTSUTAYAを利用していること自体に満足感を植えつけているのかもしれない。

価格はCDもDVDもしっかり300円をとるので他に比べて安くないのにお店を拡大できているのは、そのせいかもしれません。


涼風


公共工事

2006年04月12日 | 日記

昨日から部屋には毎日掃除機をかけることに決めました。

これまでは二日に一回だったのだけど、それだとやはり二日目には髪の毛とかが目立って汚くなってくる。じゅうたんが汚いとそれだけ気分もごみごみしてきます。

神戸空港に大量の借金をしているのを見るにつけ、それを町の道路の舗装や建物・町全体の整備のために使えばどれだけメリットがあるだろうと思わずにはいられない。

道路の舗装といっても、新しく山を切り崩して大きな道路を造れというわけじゃない。

それよりも町の中のちょっとした、しかし昔のまま殺風景でいる場所をきれいに整備するだけで、それらを毎日眺める人たちの気分も大分違ってくる。そうしたちょっと整備も、市全体ですればかなり大掛かりな事業になるでしょう。

毎日目にする場所をきれいにすることは、こっちの気分の余計な負担を取り除いてくれるように思う。

都市計画というと、画一的に郊外に大きなショッピングモールを作り、コンクリートの街を作るという印象がある。

しかし町中の寂れたコンクリートを直したり、荒地を整備したり、そういうことをするだけで人々に与えるメンタル面でのメリットは大きいと思うのですよ。


涼風

空腹感

2006年04月12日 | 日記



体重が最近は67キロ近くになっています。身長が178近くあるので、67でもいいと言えばいいのですが、なんとなく腰周りにお肉がついている気がして気持ち悪くなってくる。

太ると嫌なのが、ジーパンを穿いていて椅子に座ったときお腹が締め付けられるようになること。仕方ないのでボタンを外したりしますが、人に見られていないか気になってきます。

それになんだか太ってくると気分も悪くなる。

毎日体重計に乗っていると痩せない自分にカリカリしてくるので、最近は体重計にのるのをやめていました。体重計に乗るのを止めることでイライラするのも終わり体重も減るのではないかと期待したのですが、全然減っていなくてむし増えていたくらい。

無駄な間食は止めるように心がけているのだけどなぁ。「無駄な間食」だけじゃなくて「必要な間食」も止めないとだめなのかなぁ。

僕は「空腹感」というものには拒否感があって、必ずと言っていいほど一日三食食べます。たまに一日二食の日があってもいいし、そういう人も多いとは思うのだけど、絶対絶対三食食べたい。

肥満の子がダイエットで泣き出すというのもなんとなく気持ちは分かる気がする。

飢餓感というのは、やはりメンタル的なものが大いに関係しているのではないだろうか。肥満の子が食事を減らしたって死ぬことはない。でも彼らはそれに耐えられない。

どうして私たちは空腹感を嫌うのだろう。

涼風

『紛争の心理学―融合の炎のワーク 』 アーノルド ミンデル (著)

2006年04月10日 | Book
『ER 緊急救命室 II』の中にこういう場面があります。

救急隊員が通報を受けてある家に行くと、そこには「ヤク」で倒れている男と、10人ぐらいの子供が泣いていました。その男は生活保護をもらうために親戚中からその子供たちを引き受け、そのお金でクスリを買っていたのです。当然子供たちは満足に食事も与えられず、みな栄養失調で危険な状態の子供もいました。

この家は「黒人」の家だったのですが、病院で救急隊員がポツリと

「まったくヤツらは何考えているんだ」

と言います。するとその場にいた「黒人」の病院の受付係と医者が

「それはどういう意味だ?」

と怒り出します。救急隊員は「べつに黒人という意味じゃねぇ」と弁解しても「同じことだ」とその「黒人」たちは怒ります。

救急隊員は黒人の医者に向って

「あんたは医者で俺は救急隊員だ。少なくともあんたにとってはこの社会は平等だ」

と言うと、

「分かったことを言うな」

と睨まれます。

彼は「俺のいたリトルリーグは白人は俺一人だけだった。俺はレイシストじゃねぇ」と必死で怒りを込めながら弁解します。

果たしてこの救急隊員は差別主義者なのでしょうか。


『紛争の心理学―融合の炎のワーク 』という本を読みました。著者は心理学者のアーノルド・ミンデル。私は彼の本を読んだのは初めてだけれど、長年私が考えてきた社会や対人関係の考え方とほとんど同じなので、自分の考えを確認するように読めました。

私の考え方といってもそれはオリジナルなものではなく、チャック・スペザーノなどのトランス・パーソナル心理学者の考え方です。ミンデルはそういう流派の第一人者なのでしょう。

ただミンデルの考え方は他の心理学者などよりも、個人の心理の問題は社会全体で対処すべきという方向性を打ち出しています。チャック・スペザーノなどは個人が変わることで状況が変わることを強調しますけど、逆にミンデルは個人の心理の問題をその個人だけが対処すべきものと捉えることの弊害を強調します。

例えば、貧困層出身の人がいい学校に入れないとき、

「その子自身が勉強を頑張らなかったからその子に責任がある」

という立場と

「勉強に取り組む環境を整備できなかった社会に原因がある」

という二つのどちらが正しいでしょうか。

ミンデルは、この社会には差別のきっかけとなる秩序が網の目のように張り巡らされていることを指摘します。ジェンダー、収入、人種、等等数えあげればキリがありません。

ミンデルは、これらの差別について考えるときに、人は一方的に「弱者」の味方につく誘惑に負けやすいと述べます。しかしこれは、結局差別の秩序をそのまま使って上下関係をひっくり返したに過ぎません。

人種問題で黒人側だけを味方する、ジェンダー問題で女性だけに肩入れする、格差問題で低所得層だけに味方する。これらの立場は、差別の秩序を明らかにするという点では有益なのですが、にもかかわらず自分の立場を絶対視して「差別する側」を一方的に攻撃することになり、結局差別の秩序をそのまま温存してその「正しい人」と「間違った人」を作り出します。その点では、差別の問題が起きたときと状況はなんら変わりません。罪悪感・敗北感をもつ人が変わっただけで、「攻撃される」という役割・差別の秩序はそのまま温存されているのです。

多くの社会学がこうしたミスに陥ったのは、社会学者たち自身の「善良さ」と、社会構造を摘発することと道徳的行為とを一緒くたにしてしまう彼らの傾向に負っていたのだと思います。

それに対して臨床心理学者のミンデルは、まず「攻撃される人」の心理を、社会の主流派が見落としている一つの心理的契機と見なします。

例えば「テロリスト」の存在を私たちは、問題の解決を暴力に訴える野蛮な集団と見なします。しかしミンデルから見れば、「テロリスト」の存在は、わたし達人類の集合意識が、過去に犯した過ちにもう一度直面すべく表面に浮上したことの表現です。

社会の主流派がマージナルな人々を抑圧したとき、私たちは自分の心理の一部をマージナルな人たちに投影して、その一部を抑圧して彼らを迫害しました。「テロリスト」は、このわたし達の抑圧の契機をもう一度直視すべく、過激な行動に訴えます。

自分達の心理の一部を抑圧している主流派は、なぜ「テロリスト」が野蛮な行動に訴えるのか理解できません。しかし「テロリスト」は、過去の迫害された歴史から、怒りをそのままに行動に移さざるを得ないような心理を抱え込んでいます。

主流派は冷静に議論しようとします。しかし「テロリスト」にはそんな余裕などないし、彼らは主流派に忘れた記憶を思い起こさせるために、主流派が冷静であればあるほど過激な行動に訴える必要性に駆られます。

こうした分析から導かれるミンデル独特の主張は、社会に生じる問題すべてに私たちは責任を負っているというものです。たとえわたし達に覚えがなかろうと、怒りをもつ人がいる以上、私たちは怒りを持つ人たちの声を聴かなければならない、それはわたし達が抑圧した心理の一部なのだ、そうミンデルは言います。これはわたしにはミンデルの過激な部分であり、本当にそうか賛同するのに躊躇する部分です。

ミンデルは、マージナルな人を絶対視することは批判します。「差別された人」に一方的に肩入れすることは、逆にまた「差別する人」を“裁く”ことになり、結局「差別する」というわたし達の集合意識の一部を抑圧することになり、やがて裁かれた人たちは反撃に転じるからです。

むしろミンデルは、臨床心理学者らしく・グループワークのファシリテーターらしく、ひとりの人が怒りをもつとき、その怒りは集団心理の一部であり、すべての人がその怒りをもっており、よってすべての人がその怒りの契機を掘り起こして癒さなければならないと主張します。

他人が一方的に怒るとき、私たちは「なぜ彼らはわたしを攻撃するのだ?」と理不尽に思います。しかしミンデルの立場に立てば、あなたの前にいる人が怒る理由は必ずあなたにもあるのだ、ということになります。これは本当にそうなのでしょうか。

例えば大学院にいたときに、わたしは社会思想の古典研究をしていましたが、何人かの人に陰に陽に古典研究をしていること自体に関して攻撃されたことがあります。

彼らは実証研究をしているのですが、彼らからすれば、古典だけを勉強することは安易であるということをいいました。

そういう彼らの言い分を聴いているとき、わたしは随分理不尽な気持ちになったし、今でもその記憶が甦ります。

私からすれば、むしろ直接社会を対象にして研究するほうが関心の所在を他人に説明しやすく、自分のやっていることの正確を自分にも他人にも説明しやすくなります。

しかし古典研究は、「なぜ古典をしているのか」ということを絶えず自問自答しなければなりません。それは、ある面から見れば、自分のしていることの正確を問うという緊張を絶えず強いられる作業です。またそれにもかかわらず、現在の学界の風潮では古典研究は重要視もされません。

しかし古典研究をしていない人にはそんな自問自答は未知のことです。彼らには、古典研究というのは、対象を狭めることで安易な方法を採っているようにしか見えなかったのです。

では、彼らの古典研究への敵対心は正当でしょうか?不当でしょうか?

それは正当か不当かははっきり分けることのできないものだとミンデルなら言うでしょう。

例えば、古典が古典である以上、それは学問という秩序の中で(一応)重要視されてきた歴史があり、つまり学問史の中の序列の中で上位を占めてきました。その古典を学ぶことは、必然的に既存の序列を重視する作用が働きます。それが良いか悪いかにかかわらず、そうした作用があります。

したがって、どんなに古典研究者自身が誠実であろうと、その序列の強化には責任をもつ必要があります。

古典研究を攻撃する人は、そうした序列に反発します。そうした序列への反発は「権威」への攻撃とも言うべきもので、その学問の序列のみならず、権威一般への怒りと言えます。それが彼の人生のどの部分に原因を持つかは人それぞれかもしれませんが、怒りの原因は過去にあると想定できます。学問の序列はこうした彼らの怒りを刺激します。

古典研究者自身は、例えば私の場合は、なぜか過去のテキストに惹かれる自分に戸惑いながら勉強していたけれど、その序列に参加している以上は、その序列に怒りを刺激された人に応答する責任があるとミンデルなら言います。なぜなら、私たちの意識は人類全体の集合意識の一部であり、そうした学問史を作った人類の意識も、また権威に迫害された人々の意識も両方とも合わせ持っているからです。

したがって学問の序列に反発する人がいる以上は、この人類全体の意識を癒すためにも、私たちは浮き上がってきた人々の怒りに対処する必要があります。

こうしたミンデルの考えはどこまで正当と言えるでしょうか。

・お金のある裕福な家に生まれた人が、きれいな家に住み高価な服を着て高い教育を受けいい仕事に就いています。彼女は「素直」な性格で友達も多くいます。生活保護を受けている貧困層出身の人が彼女に怒りをもちました。彼女はこの貧困状態にある人の怒りに応える責任があるでしょうか?

・きれいな顔で胸もありウエストが細く足も長い女性がいます。「ブス」に生まれた人が彼女に怒りをもちました。容姿に恵まれた女性は「ブス」の彼女の怒りに対処する責任があるでしょうか?

・少数民族出身で勉強のできる男性が大企業で出世しました。彼に怒りをもつ同僚の女性に対して男性は対応する責任があるでしょうか。

・日本でおいしいエスニック料理をたらふく食べる日本人に対して、アジアの貧困地域の人々が怒りを持ちます。私たちは彼らの怒りに責任をもつべきでしょうか。


これらの問いに対してミンデルはイエスと言います。ミンデルにとって、一部の人の「怒り」は全体の責任だからです。ミンデルは、「怒り」をもつ人の反対側にはつねに「冷静」な人がいるといいます。しかしこの「冷静」さは、自分の一部を抑圧しただけの「冷静」さにすぎません。

これは社会科学ではなく心理学者だから言えることなのでしょうが、ミンデルはすべての人の心理はつながっており、すべての人の心理の集合が私たちの本来の意識であると言います。つまり、たとえ冷静であっても、地球の反対側で怒りを持ち銃で人を撃つ人がいれば、その怒りを私たちは共有しているのです。

たしかにミンデルは、悲劇の状況にある人を一方的に擁護したいのではありません。そうではなく、誰かが悲惨な状況に置かれ悲嘆と苦しみに置かれているとき、私たちの心の一部も悲嘆にくれており、普段私たちはそれを自覚しないだけだということです。しがって悲惨な状況にある人を癒すことは、私たち自身をも癒すことになります。

ミンデルは社会の主流派に罪悪感をもつことを求めているわけではないし、むしろ逆に彼は、主流派がそのメリットを享受するを薦めてもいます。

ただミンデルが言いたいのは、にもかかわらず苦しむ人がいるとき、その人たちをむしすることは自分達の心の一部を抑圧することになるし、それは後で自分に跳ね返ってくるよ、ということです。

こうしたミンデルの言い分は、まっとうにも感じられるし、私には過激すぎるようにも感じました。おそらくミンデルはグループ・セラピーのファシリテーターとして紛争地域に乗り込み、実際に迫害を受けてきた人たちと接触してきた経験がこの著書の執筆に大きく影響しているのでしょう。弱者を絶対視してはならないと言いながら、同時に迫害され怒りをもつ人たちに対応することを強調します。彼の立場に立てば、世界に苦しんでいる人がいる以上、私たちは絶対に幸せにはなれないのです。

ただ彼自身は他の社会運動家とは違い、主流派を攻撃することは絶対に間違いであると強調します。肝心なのは「差別する人」を攻撃することではありません。むしろ「差別する人」というのも、差別の秩序を利用して他人を攻撃するよう強いられているという点では、被害者と同じ心性を抱えています。

要するに、一方では表立って攻撃する人がおり、他方では自分の攻撃心を抑圧する人がいるということが事実であり、重要なのは自分と相手のその攻撃性に対処するということです。

この対処というのも、同意を求める議論という意味ではありません。むしろ「同意」「議論」というものは、割り切れない心に一方の結論を押し付ける形になります。何か一つの方向(「冷静な議論」「全員の賛同」)に向わなければならないという想い事態が、一つの強迫となって、また心理的抑圧を引き起こします。

むしろ現時点で大切なのは、他人と自分が怒りをもっていること、私たちが様々な差別の秩序を生きていること、そこには一方的な弱者も強者もいないこと、これらのことを理解することです。

こうしたミンデルの主張は、心理学を受け入れられない社会科学者には理解しがたいものかもしれませんし、同時にセラピーの場面にいる人たちにとっては今さらという考えかもしれません。

もしそういう懸隔があるとすれば、その差が埋まることも一つの課題かもしれません。

涼風


スポーツあれこれ

2006年04月10日 | スポーツ


昨日の夜のサッカー番組で中村俊輔の“スーパー・プレー集”を見たけれど、本当に中村はすごい。ボールを持っている場面では世界でも超一流なんだと思う。

後ろからゲーム・メイクできるという点では往年のストイコビッチのようであり、ゴール前でクリエイティビティを発揮できるという点ではバッジョのようですらありました。


阪神はヤクルトに2連敗したけれど、広島に2-2で引き分けたのと、横浜を8回で逆転した試合が大きかったかな。

野球では強いチームは接戦をものにでき、弱いチームは大量点でしか試合に勝てないとある人が言っていたけど、ホントそんな感じがする。優勝できるチームというのは接戦をものにできるチームだし、そうしなければ連勝というのは難しい。


涼風

MDを使っています

2006年04月09日 | 家電製品にかかわること

最近お金遣いが荒くなっています。アメリカのアマゾンでユーズドのオーディオブックを買ったりしていると送料として10ドル強かかるので、その分高くなります。

図書館を利用して本代は最近は全く使っていないと思っていたけれど、なんのことはない、その分オーディオブックを買い出しているのです。

オーディオブックは聴いた後でオークションに出しています。これまではベストセラーのものを買っていたのでオークションに出品しても売れたけれど、最近買っているオーディオブックは高い上に“ベストセラー”とは言い難いし、何よりもテープを買ったりしている(CDがない)ので、オークションで相手にされるかな?

携帯デジタルオーディオというのはテープとかも取り込む方法があるのかしら?

僕は最近携帯MDプレーヤーを買いました。なぜ携帯デジタルオーディオにしなかったかと言うと、

・携帯デジタルではテープを取り込めないと思ったから。僕は語学のテープを買う機会がまだまだありそうと思ったので、使い勝手がよくないかな、と。

・携帯デジタルでは、高いもの(3万~)を買わないと、たくさん曲を取り込めない。例えば100曲や200曲しか入らないようなものだと、オーディオブックに換算すれば多分5・6冊しか入らない。

・携帯デジタルだと、一度故障したら取り込んだ曲が全部パーになる(んでしょ?)から。でも、ちゃんとCD-Rに保存しておけば済む問題ではないだろうか・・・

しかし最近不安になるのは、もしMDがなくなったらどうしよう?というもの。全くなくなるということはないかもしれないけど、MDの録音・再生機の生産が減少して価格が高くなるということになるのだろうか?いやだなぁ、それは。

MDというものが使われているのはおそらく日本だけなんじゃないかと思うのですが。


涼風

2006年04月08日 | 日記
今日、県立図書館のある明石城公園に行くと花見客で一杯でした。

たしかに桜は満開なのだけど、天気は曇りだし風がきついし、あまりいいお花見日和ではなかったみたい。

今年はこのまま桜の季節が過ぎ去るのかな。こっちで満開になる前にトウキョウ在住の人のブログで桜満開の写真を見たりしたけど、少なくとも神戸方面ではあまり桜に恵まれなかった年かもしれない。正確には、桜を見るのにいい天気には恵まれなかったというか。

桜の写真というのはなんだか気恥ずかしくて撮る気にはなりませんでした。まぁ、歩いていていつもデジカメを構えるのが面倒というのもあるのですが。でもこれは、太宰治が『富岳百景』の中で真正面から見る富士山は見ていて恥ずかしいというのと同じなのかもしれない。絵になりすぎるのも、という感じなのです。

桜というのは日本特有と思いがちだけど、じつはアメリカでもよく見られるみたいです。その割には写真や映画で桜を見たことはありません。例えば秋のニューヨークやワシントンやボストン(かどこかは分からないけど)の銀杏(らしきもの)はよく見るのに桜は見たことがない。なぜだろう。要するに、アメリカの人は桜に何も感じないということなのかな。

桜が日本の名物なのではなく、桜を綺麗だと思う感性が名物なのかな。


この明石城公園というのは、すごく「昭和」の香りのする公園です。緑が多く,それも綺麗に整えられていて憩うにはいいように一見感じるし、たしかにいい雰囲気を持っているのですが、その根底(?)にとても退屈と倦怠の感覚が漂っています。

その倦怠感の漂う公園であるのに、それに加えて今日は曇りで、おまけに家族連れやらグループやらがものすごく沢山来て「お花見」をして、つまりビニールやらを広げて食べたり飲んだりしゃべったりしています。すれ違う人の中には顔がお酒を飲んだときの真っ赤な顔をしています。

なんだかそうした光景で、そこは公園というより、なんだか「無礼講で騒ぎまくる野蛮な群れ」に見えました。

それは僕の(まるでアメリカの中西部の中で一人だけイギリス英語を話すような)貴族主義的な感性のせいなのだと思います。

涼風

嫉妬か敵意か

2006年04月07日 | 日記


昨年のNHKの番組で格差を扱ったものがありましたが、その番宣でカジュアルなフリーター風の若者がスーツ姿の若者を振り返るというものがありました。

昨日三ノ宮を歩いていると、スーツ姿の20代か30代ぐらいの男(の子?)たちを見て少し複雑な感情に駆られました。こういう感情は今までもったことがなかったのに何なんだろう?嫉妬か敵意か。

涼風

代表チームの年齢

2006年04月07日 | スポーツ
ジーコ監督への批判の一つに「若手を起用しないので、ポスト・ジーコの代表チーム作りは困難になる」というものがあります。でもそれってそんなに大きな問題なのかな。

そういう批判には大抵「他の国は10代、20前後の若手もすでに代表チームで活躍している」というものも含まれます。

でもそういう「他の国」はブラジルやアルゼンチンだったり、要するにサッカー先進国です。

やはりそれは伝統の差なんじゃないでしょうか。

伝統のある国ほど「若き天才」というものが生まれる土壌があるだろうし、サッカーリテラシーが浸透しているので若くてもチームプレーというものを理解しているのでしょう。

そういう国では、持って生まれた才能は同じでも、サッカー後進国よりも「天才」が実力をつけやすい環境にあり、早くプロに馴染むことができるんじゃないでしょうか。

やはり日本では中田のような存在は例外で、小野・中村ほどの才能でも代表チームで中核になったのは20代の半ばになってから。

まだまだ日本では、もって生まれた才能が成熟するまでには時間がかかり、それゆえ20代の半ばから後半の選手が代表に集中するのだと思う。

トルシエ監督は若手を好んだので必然的に若手中心になったけれど、実はその頃に藤田・相馬・福西・名波といった中堅選手は代表レベルにあったといわれています。

たしかに次の代表にはアテネ世代がごそっと入ってくるのでしょう。でも彼らだって次のW杯予選まで3年あるし、準備期間は十分だと思うのだけれど。


涼風

「甘い誘い」“ERⅠエピソード1”

2006年04月06日 | 映画・ドラマ
知り合いに「今“ER”にはまってるんです」と言ったら、なんとその人はシリーズ1から7までDVDを全部持っているとのことで「だったら貸してあげるよ」ということになりました。

これまで僕はシリーズの6を全部、2を途中まで観ました。

アマゾンのレビューをみると、今の“ER”は昔からのファンには実は物足りないみたい。つい最近シリーズ11が始まったばかりだけど、以前のERを観ると最近のものは物足りないというオールドファンの言い分もわかる気もします。

以前のERは主要キャストの数もせいぜい5、6人でそれだけ各人物のキャラクターが深く掘り下げられている印象がある。それに比べると最近のERは登場人物が多い分印象が散漫になっているのかもしれない。誰かが「モー娘ムスみたい」と言っていたけど、そうかもしれない。

そうは言っても僕がERを観出したのは去年の年末に寝込んだときに何もできないから仕方なくテレビをつけてからで、要するにシリーズ9と10からはまっているわけです。だから今のERも僕にとっては十分面白いんですけど。

今日知り合いから借りたシリーズ1の1回目のERを観ました。なんだかグリーン先生は1のときも6のときもほとんど変化がないなぁ。

Dr.スーザン・ルイスは最初の頃はあんな正統派美人だったのか。なんで今はあんなにビッグな体つきになってしまったんだ?

1の頃のジョージ・クルーニーは若い!この頃はまだそんなに売れてなかったというけどホントかな。相変わらず二枚目だけれど。でも今のほうが大物感が漂ってただの二枚目じゃない感じ。

カーターは子供みたい。彼は歳をとるほどどんどんやつれて、今のカーターはいつも疲れた顔をしている。あれはどこまで役作りなんだ?

昔のERに比べると今のERの受付は広々している。カウンティから予算がそれだけ多く出たということか?医療と財政というのは初期の頃からのこのドラマの大きなテーマだけに、安易にセットを豪華にするのはよくないと思うのだが。


涼風