joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“Management Challenges for the 21st Century”

2006年04月19日 | Audiobook


ピーター・ドラッカーの1999年の著作のオーディオ版“Management Challenges for the 21st Century”を聴きました。テープ4本で7時間強の内容です。

ナレーターはプロの人なので、英語自体はかなりクリアなのですが、おそらくテープ4本に収めるためにか、わりと早く喋っています。わたしはおそらく7、8回通して聴いたと思うのですが、結局すべてをちゃんと理解できなかったように思います。

もともとオーディオブックを聴こうと思ったきっかけは、本を読む場合は頭から身体から色々な神経を使うので疲れるけれど、耳から音を聴くのはよりラクに知識を吸収できると思ったから。しかし英語とは言え、かなりの時間を費やしてそれでもあまり理解できないと、たくさんの時間を無駄にした感じで空しくなります。

翻訳は『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』という題名で出ていますが、英語を聴くのにたくさんの時間を費やしたにもかかわらず理解できず、翻訳を一度読んで理解できたら、「一体あの時間はなんだったんだ?」と余計に空しくなるかもしれません。まぁ、語学の勉強もかねているので、外国語に慣れる過程と思って割り切るしかないですね。

私はドラッカーについて全然詳しくないのだけれど、おそらくこの本は最近の経済先進国の状況変化について様々なトピックをドラッカーが要領よくまとめたものと言えるかもしれません。思想的な深み?は感じられなくとも、現在の経済と社会をめぐる変化を知るにはいい1冊かもしれません。

冒頭にドラッカーが指摘するのは、これからの時代は「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」という信念がますます通用しなくなるということ。

これはドラッカーが指摘するように、心理学者のマズローが『完全なる経営』の中で述べたテーゼです。

この本でマズローはドラッカーを批判しているのですが、それはドラッカーがより民主的で個々の成員の自律性を重んじる経営方法をそれまで提唱していたのに対し、マズローはドラッカーの述べる経営方法は社会が安全で人間の基本的欲求が十分に満たされている社会でしか通用しないというものです。ドラッカーはマズローのこの批判を認めて、マズローの上記の著作が出て私の考えは時代遅れのものとなったと述べています(マズローの著作が出たのはおそらく1960年代)。

ただ、この本でドラッカーが援用する「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」というマズローの言葉は、マズローの含意を越えているようにも聴こえます。

ドラッカーがこの言葉を使うのは、知識労働者がこれからは主体となるという彼の考えと関連しています。すなわち、工場にせよ会社にせよピラミッド型で社員に指示を出す20世紀的な経営手法は、それもまた「唯一の正しい経営スタイル」として考え出されたものでした。管理・統制を主眼とするこのスタイルは、テーラー主義で頂点を極めるもので、科学的な態度で社員を道具として上手く使いこなすことを目標とします。社員が道具でありモノである以上、社員とはつねに一定の操作によって決まった動作をするロボットであり、そのロボットを効率よく働かせる方法は限られるということになります。

それに対しドラッカーの言う知識労働者(この言葉ももはや使い古されているかもしれませんが)が支配する経済状況では、社員をロボットのように使っていては、知識労働者本来の主体性が発揮されません。知識労働者が支配的になるのは、彼らの持つ特殊性によって競争相手とは異なるサーヴィスがもたらされるからであり、また変化の激しい時代状況では末端の社員自身がイニシアティブをもってはじめて経営は機能します。

(参考:『会社はこれからどうなるのか』岩井克人(著)“joy”

したがって20世紀では「経営者はいかに社員を上手く使うか」という問いが重要でしたが、21世紀には「どうすれば社員の個性に経営を合わせられるか」という問いが重要になります。

知識労働者それぞれの持つ個性に経営を合わせることが重要である以上、経営スタイルに決まった正解はなく、集まった社員によって経営形態を変えざるをえません。ドラッカーが強調する「唯一の正しい経営方法は存在しない」という言葉は、そういう意味ではないかと思います。

ドラッカーがこの“知識労働者”という概念を強調するのも、20世紀的な常識が通用しなくなる変化の時代には、大衆一人一人が“知識労働者”になることが必要という認識からでしょう。

人口の現象が顕著になる時代である以上、これまでの大量生産方式は通用しないので、会社も人も、それぞれの“他にはないサーヴィス”を生み出すことが求められます。そのためには、社員は“知識労働者”として会社と対等な立場で契約を結びながら、それぞれの専門性を発揮させることが求められます。

また会社もそういう人財を囲うには、社員と対等な立場でパートナーシップ契約を結ぶような経営スタイルをとることを迫られます。

また“知識労働者”という労働スタイルが主流になることは、人々の生活スタイルが会社の枠ではなく、会社以外の人との結びつきが密接になっていくことを示しています。

それは一つには会社とは対等なパートナーであるため会社に縛られないというと同時に、自立性をもつ“知識労働者”が主流となる社会というのは、社会・大衆がもはや均質なものではなく、生活スタイルが個々人によって異なるため、会社の中だけではなく会社以外で地域の活動に関わらなければ社会の動きを知りえない状況になるからです。

個人が会社に縛られない以上、個々人の活動はよりボランティアなどの組織とのつながりを増すという傾向もみられる可能性があるということです。このような企業以外での個人の活動が増えることと知識労働者の増大とは結びつきます。

またこのような趨勢は、高齢化社会の進展によって“第二の人生”を送る人が増えることで余計に強まっていきます。

もちろんこのようなドラッカーの描写は、多少薔薇色めいていて、現実を正確に写すものかどうかは分かりません。“知識労働者”が主流となることは、自律性をもたない人は落ちていく社会だからです。

ただそれも、個々人が個性を発揮できる社会というのは、これまでのビジネスの常識では考えられないような活動がビジネスとして通用していく時代だと受けとることも可能かもしれません。

“知識労働”というのはべつに弁護士や会計士だけを指すのではなく、むしろより抽象的に個々人の頭脳の働きによって生み出されるもの一般と考えたほうがいいと思います。

その頭脳の動きはデスクワークを基盤とする必然性はないし、身体を動かすことも伴うことがあります。お医者さんやロルフィングのトレーナーが頭脳と身体をともに動かすように。

ドラッカーの描く成果は理想的でありますが、それは彼にとって可能性を帯びた理想なのかもしれません。



参考:「明日を支配するもの~Management Challenges for the 21st Sentury by ドラッカー」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』