joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』

2005年11月18日 | Book
  

   高橋伸夫さんという経営学者が執筆した『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』という本を読みました。もう図書館に返してしまったし、メモもとっていないのですが、記憶を頼りに印象に残った内容をまとめてみたいと思います。

ひとことで言えば、賃金のアップで応える成果主義は働く動機付けにはならないと主張しています。

まず、90年代以降日本では成果主義がもてはやされてきましたが、戦後の日本企業では社員間ですでに賃金格差がつけられていました。20代、30代では何千円・何百円という差しか「幹部候補」と「一般社員」の間に差はないのですが、ピラミッドの上部のポストは少ないため、40代、50代となるほど社員間で賃金の差はついています。つまり生涯賃金で見れば同じ会社の中でもすでに賃金格差は日本企業に存在していました。年功制賃金はじつは内部に大きな格差を伴う賃金体系でした。

ではその年功制と成果主義のどこが違うのかと言えば、それは若年の時点でできない社員に賃金を著しくカットできるところにあります。

生涯賃金の視点で格差をつける年功制は、最低の生活を保障するという思想の下に組み立てられており、それゆえ若年では差がなくまた低い賃金にもかかわらず、生活のための最低賃金を保障します。20万円前後でしょうか。

それに対し成果主義は、この「最低の生活を保障する」という思想を取っ払い、できない社員の賃金にかかるコストをカットするという性格をもっています。経営者はこれでコスト削減ができると思います。つまり成果主義とは、会社の売り上げを伸ばすためというより、コスト削減のために導入されてきたと言えます。

成果主義を訴える論者は、中高年の社員にかかるコストを削減すること、会社にかかる社員給与の負担を減らすことが会社にとって大切であることを強く打ち出しています(例えば『成果主義を自分の味方につける法』 この本をざっと読んだ私の印象は、社員として働く人のための成果主義という視点以上に、経営者はコストカットするために成果主義を導入すべきであり、派遣・アルバイト・パートを活用して社員の給与をカットできる企業がこれから伸びることを主張しているというものです)

こうした主張に対し高橋さんは、社員の給与をコストと考える視点が逆に企業の生産性を低めると述べます。

給与をコストとみなすと、まず社員への教育投資は削られ、最初から一定の水準を収める器用な社員のみが残ります。同じタイプの人間だけが残ると言ってもよいと思います。

また企業活動に不可欠なチーム運営も阻害されます。つねに解雇と隣り合わせに働く社員は、結果的に大きな業績に結びつく活動ではなく、短期的に(そこそこ)一定レベルの業績を達成することのみを目指すようになります。

日本の経済成長を支えた製造業の躍進には、短期的な業績にとらわれず、製品の質を追求した会社の視点がつねにあったのですが、目先の狭い需要にとらわれるとそうした活動は不可能になります。

たしかに産業構造の転換は進んでいますが、その中でも日本の製造業の強み自体は今でも日本経済にとって大きな位置を占めますし、そもそも個々の製品の独自性が求められる現在では、高度な技術を蓄積することが今まで以上に求められていると言えます。その際には長期的な視野の企業活動が不可欠です。

(私は経済の弱肉強食をそのまま肯定する長谷川慶太郎さんの視点には違和感を持ちますが、この日本の製造業の強みをつねに訴える視点は彼をある一定程度信頼できるエコノミストにしていると思います)

つまり企業の活動を長期的に見るには、給与をコストではなく投資とみなし、チームとして働く社員が一定期間その企業に残ることを前提にする必要があります。日本の年功制の長所は、給与の差をつけながらも、社員がその企業に残ることを前提にしているところにあります。それにより、狭い意味での専門技能に還元できないチーム運営のノウハウがその企業に蓄積されていきます。

(企業内にチーム運営のノウハウを長期的に蓄積することの大切さを説いたのが、岩井克人さんの『会社はこれからどうなるのか』です)

社員への給与を投資とみなすことは、同時に社員がその企業にいることで自分の将来をデザインできることを意味します。

これを旧い企業人の生き方とみる人もいるかもしれません。しかし現在働いている人の間でも必ずしも頻繁な転職がベターと考えられているわけではありません。むしろ、玄田有史さんが指摘するように、現在でも転職はより安定した大企業を志向して行われることがおおく、首尾よく大企業に移れた人はそこから動こうとはしません(『ジョブ・クリエイション』)。

またさらに決定的なのは、転職が若者に肯定的にとらえられているわけではないのは、現在の若者の極度の正社員志向に表れているといえます。「ニート」や「フリーター」が「問題」として頻繁に取り上げられていますが、そのことと現在の若い人たちの正社員への志向(執着)は同じコインの裏表です。

90年代以降に正社員採用を著しく減らし続けた日本の企業社会では、それだけリスクと不安感を若者に植え付け、一層正社員にこだわる傾向を彼らにもたらしました。そのことが原因で20代の正社員は企業からの無理な業務指令に従い極端な残業を強いられています。そう、今の若い人たちは働き過ぎなくらい働いています(『仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在』 『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』)。またそうしてぼろぼろに働かされた若い人が仕事を辞め、フリーターやニートになるという構図もあります。

これらの事例は、働く人はある程度の安心感をもって将来をデザインできることを企業に求めているといえます。「正社員」という地位が必ずしもそれを与えるとは言えないのですが、そうした安心感と意欲を多くの企業が今働く人に与えることができていないのです。

経営者から見れば「不況なのだから仕方がない」と言うかもしれませんが、そのことで給与をコストみなしつねにコストカットを意識することで、働く人の意欲を阻害し、結果的に彼らを職場から排除し、短期的な基準のみをクリアする社員だけが残り、現状維持で成長できない企業となる危険性をもつことになります。

この働く意欲と給与との関係について、これは高橋さんの一番言いたかったことだと思いますが、人は給与のアップを目標に働くことはできないと主張します。むしろ人が働くことに意欲が湧くのは、その仕事を自分がコントロールしているという感覚であり、自分の力で一つ一つの基準を達成しているという充実感です。その際の基準とは賃金ではまったくなく、むしろ仕事そのものの前進です。それはサーヴィス・製品の向上の場合もあるし、チームワークの発展という場合もあるでしょう。また売り上げのアップという場合もあると思いますが、そこで充実感・達成考えられるのは、収入がアップするからではなく、その仕事の能力が自分は高まっているという達成感です。

むしろ自分の仕事を給与のみで測るようになると、多くの働く人は仕事の内容ではなく、給与の数字だけをみることになり、仕事の達成感への志向が阻害され、それゆえ働く意欲の源泉が摘み取られる結果になります。

このことで高橋さんがとりあげているのが次の面白い例です。あるユダヤ人のお店に子供達が来て「ユダヤ人、ユダヤ人」と差別的な言動を繰り返していました。それに困った店主は、子供たちに「ユダヤ人と言うごとに10セントあげる」といい、お金を与えました。次の日にも子供達が来て「ユダヤ人、ユダヤ人」というと、「今日は5セントだ」と前日より少ない額のお金を与えました。そうして店主は毎日子供たちに与える額を少なくしていき、ついには「今日はユダヤ人と言ってもお金をやらない」といいます。すると子供達は「だったらもうこの店には来ない」と言って立ち去っていきました。

実話かどうか知りませんが、人間の心性を考える充分ありうるメカニズムです。外から動機を与えられずにしていることは続けられるのですが、お金という動機を他人から与えられることで逆に自発的なモチヴェイションが阻害されていくのです。

この内発的な動機と外発的な動機の区別は、最近頻繁にこのブログで取り上げるチクセントミハイなどの心理学者たちが以前から主張してきたことです。チクセントミハイや高橋さんに共通するのは、人は自分の仕事をある程度を自分でコントロールしているという意識をもち、その遂行において自分の能力が前進していること自体に行為から喜びを得ます。

そう考えると、お金とはそうした働く人の行為を保証するためのものであって、お金自体が目的化するようなシステムはむしろ働くことにとってよくないことになります。成果主義とは、まさにそのお金自体が目的化してしまう人事管理体系だといえます。

このことと関連するお話があります。和田裕美さんという今超話題のセールスコンサルタントがいますよね。英会話のブリタニカの教材販売で年収約4000万を達成した人です。

ブリタニカのセールスは完全歩合ですから成果主義の極限をつきつめていた会社です。そこで和田さんは驚異的な数字を達成し、20代で支店長をつとめるほどになります。

その和田さんに対し、組織の再編成をしたブリタニカは幹部職を確保しますが、提示された給与は1500万だったそうです。4000万近くを稼いでいた和田さんからみればものすごいダウンです。

和田さんには他からのヘッドハンティングもあったそうです。しかし和田さんは帆からの申し出を断り、ブリタニカに残ることにします。そのことについて和田さんは次のように言っています。完全歩合は過去に実際にした仕事に払われる給与です。しかし1500万という給与は、まだしていない未来に対して会社が保証する給与です。会社はそれだけ私に大きな期待をかけている証拠です。私にはその1500万はとても大きな重みをもつように感じた、と(『こうして私は世界No.2セールスウーマンになった』)。

このことは組織が個人に対して「未来」を描く条件を整えることがどれだけ重要かを示しています。

成果主義はすでになされたものに対して払われるのに対し、日本の年功制が上手く機能したのは、働く人が自分の未来(生活と仕事と)を描く条件を提供したからです。

また和田さんは、完全歩合の世界で大成功を収めながらも、自分がセールスの仕事にやりがいを見出したのは単にお金がたくさん入ってくるからではなく、セールスが人との関わり合いであり、お客に喜ばれることが嬉しいからだと述べています。これも高橋さんやチクセントミハイの述べている、人が仕事に打ち込むときの心理と完全に符号しています。


たしかに「正社員」や「年功制」という形式のみにこだわる必要はないでしょう。重要なのは、働く人が自分の未来を描けることの重要性です。

今の日本は40代、50代の転職は容易ではありません。それに対して欧米の経済先進国はたしかに日本よりは転職率は高いです。しかしそれが働く人に活力を与えているかと言えば、これからちゃんと調べる必要はありますが、おそらくノーではないかと思います。仕事を失うことがどれだけ働く人に恐怖を与えるかは、私がドイツにいたときに直接・間接的に、また研究書、ニュース、映画や小説などで充分伝えられています。

竹中平蔵さんは積極的にこれまでの日本企業の年功制の廃止、転職の活性化を訴えています。彼の頭にあるのは大成功したアメリカのシリコンバレーやウォール街のビジネスマンかもしれません。しかしそうした人はアメリカではごく一部です。また日本よりも解雇が容易なヨーロッパは長期的な不況にあえいでいます。

わたしは日本の不況(現在の株高ではなく大衆の生活水準からみて)の原因は、消費者の趣向の変化に供給側の企業の意識が追いつかず、大量生産時代と異なりどういうサーヴィスをすればよいのかがハッキリしていないためではないかと思います。

つまり変えるべきなのは商品の内容であって、人事体系ではないのではないかと推論しています。むしろ、商品の差別化が求められるほど、円滑なチーム運営と商品創造のノウハウの個性化が必要であり、それには働く人が自分の仕事の内容に打ち込める条件整備が不可欠で、それに応えられるのは成果主義ではないのではないかということです。

そういう感想を高橋さんのこの本から思いました。


涼風

参考:2005年3月27日付けエントリー 『会社はこれからどうなるのか』

『モナリザ・スマイル』

2005年11月17日 | 映画・ドラマ
   
『モナリザ・スマイル』 について昨日・今日と文章を書いたのに、二日続けてアップされませんでした。gooのバカ・・・

内容は、旧い生き方を教えられた名門女子高の生徒と新しい自立した生き方を伝えようとする教師の物語です。相手と衝突する中でお互いが自分の価値観を揺さぶられ、その過程でひとりひとりが自分だけの生き方を見つけようとする映画です。

ホントはもっと長い文章を昨日も今日も書いたのですが、さすがに脱力しました。gooのバカ・・・


涼風



「ヤ軍破格4年60億円提示」

2005年11月16日 | スポーツ
松井秀喜、残留決意!ヤ軍破格4年60億円提示 (サンケイスポーツ) - goo ニュース


もっとすんなり決まると思っていたのにここまでもつれたのは意外でした。

松井にとって金額それ自体は問題ではなく、チームの自分に対する評価を測るバロメーターが金額だったということでしょうか。

しかしそうであればなおさら今のメジャー・リーガーの年俸額は馬鹿げているように思う。野球だけではなくて、サッカーやバスケ、他にもあてはまるけれど。

そのお金の出所が衛星放送であったり世界的なグッズ販売だったりするのでしょう。

また一流選手のプレーに相応の対価が支払われることは当たり前と見る人もいると思います。でも私には釈然としないものが残る。プロスポーツ選手が高額の年俸をもらうのは、リスクを考えれば当然だと思います。でも年俸が十億を越えたり、いや日本の選手でも2億、3億となるのはおかしいと思います。

『レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈下〉』では、スポーツビジネスのワールドワイドな発展は収入源を増やしたけれど、それはスポーツそれ自体の発展というより一部のスター選手の人気によることが指摘されています。それゆえ現在のプロスポーツには、一握りのスター選手に法外な年俸が支払われ、それ以外の選手はむしろ最低年俸に追いやられるという構図ができています。また多くの資金を必要とする球団は入場料を上げるため、底辺の人々は入場券を買えないという事態も起きています。

一部のスター選手に高額な年俸が支払われるということは、それだけ経済論理がスポーツという文化に浸透してしまっているため、ビジネスの役に立たない地味な選手や低収入のファンはそこから弾き出されてしまいます。

お金があるのだから支払うのは自由だろうと言う人もいるかもしれないし、このスポーツビジネスの流れはさしあたり止まらないと思う。ただ、10億を越えるような年俸が支払われることは馬鹿げているという感覚はどこかで多くの人がもっているのではないかと思います。

何度も言うように、一流選手が高額の収入を得ることは正当だと思います。

ただそう私が思うのは、スポーツとは一つの文化であり、一流選手のプレーは芸術のように人に感動を与えるからです。つまりスポーツ、それもプロスポーツはそれを観る多くの人の感動に支えられた、「本来」は民主的な文化様式です。

しかし一部の選手のみ優遇される現在のシステムは、多くの人々によって支えられるスポーツという構図を崩し、お金を多く球団にもたらすもの(お金を払える人たちとスター選手)によって独占された非民主的社会を作り出しています。

私は松井のことは好きだけれども、それとは別に釈然としないものを感じたのは上記の理由からです。

でも、本当はどういうあり方がいいのだろう、プロスポーツは・・・


涼風

『愛についてのキンゼイ・レポート』

2005年11月15日 | 映画・ドラマ

昨日久しぶりにビデオを観てその感想を書こうと思ったら、ここ最近見ていた映画について書いていないのがなんだか気持ち悪くなりました。

9月の最初に『愛についてのキンゼイ・レポート』(公式サイト)を観ました。


うーん、やはりなんだかとらえどころのない映画で、感想を書こうという気持ちがずっと湧きませんでした。

キンゼイ・レポートとは1948年に出版されたアメリカ人の性的経験を1万人以上のインタビューに基づいて調査したものです。正確な数字は忘れたのですが、セックスの相手の数や同性愛の割合について驚異的に多い数字を報告しています。婚前交渉すらタブーに思われていたらしい当時のアメリカではショッキングきわまりない出版だったらしく、その後のキンゼイ博士は政治・メディアによって研究を妨害されていきます。

(ただ別の研究者による後の調査では、アメリカ人のセックスの相手の数や同性愛の割合はキンゼイの調査よりもはるかに少ない数字を示すものもあるそうです)

映画は、彼の育った厳格なキリスト教思想の家庭、そこから逃げ出すように大学で虫の生態の研究に没頭するキンゼイ、妻となる女学生との出会い、妻との結婚・性的交渉から当時の人々の性経験の実態の調査に乗り出す過程を描いていきます。

事実のリアリティをかなり追い求めようとしたことがスクリーンから窺える映画です。性的実態の調査に踏み込む際に雇った助手(男)と試しにセックスするキンゼイ、彼との経験を妻に打ち明けて怒りを買うキンゼイ、その助手と妻とのセックス(妻が「彼としたいわ」)を許可するキンゼイ、奔放な性の実態を暴いていくうちに同じ調査チーム員の若妻を寝取る助手、そこから生じる調査員同士の痴話喧嘩、などなど色々な話が出てきます。

こうした事実を一つ一つ丁寧に出すために、「タブーに挑戦して真実を追究した研究者の物語」になるはずが、観念だけが先走って行動する頭のおかしな人たちの滑稽な行動を描いた映画になっていきます。作りがていねいなために、映っているお話のバカバカしさに苦笑してしまいます。


ただそうした中でも色々と考えさせられる場面もあります。

キンゼイは元々厳格なキリスト教家庭の父に強烈に反発し、そんな「石頭」の父が強制する工科大学を無断で退学し、生物学を学ぶため家を出て他の大学に奨学金を取って行きます。

しかしその彼が父親となったとき、水泳に熱中する息子(大会で優秀な成績を収める)に向かって「運動ばかりするから頭がおかしくなっている」という類の差別的な言葉を吐くのです。

この辺りは権威に反抗する人間の心の狭さを描いて納得させられました。今では当時のタブーに挑戦した英雄的科学者と彼を見る人もいるかもしれません。しかしそんな彼にも強烈に権威的な側面がありました。

この映画を観た9月のはじめといえばちょうど日本でも選挙騒ぎがあり、当時の首相が巻き起こしたセンセーショナルな選挙キャンペーンで日本が一色となっていました。既存の権威を壊すという人自身が権威的なパーソナリティを発揮するというよく見慣れた光景を示しているように私には思え、キンゼイの性格と彼とが一部ダブって見えました。


映画全体は、タブーに挑戦するあまり観念が先走っておかしな行動をする常識外れの科学者の生態を描くという感じで進んでいきます。

しかし終盤ではそのリアリティの追求がいい方向に向かいます。たとえば母親の死をきっかけに葬儀で父と相対し、父の口から自身の少年時代の体験を「インタビュー」する場面。

そしてスキャンダラスな性の実態を暴いてきた自分の研究が、ある一人の女性を勇気づけ、彼女に生きる勇気を取り戻すきっかけを与えていたことを知る映画終盤の場面。そのときキンゼイは自分がしてきた研究の意味を初めて知ります。少なくとも映画ではそう描かれています。題名が「愛についてのキンゼイ・レポート」なのは、的を得た邦題であることが観客にわかる場面です。

もうすぐビデオ・DVDで出ると思いますけど、機会があれば見てみてください。


涼風


『国際通貨体制と構造的権力―スーザン・ストレンジに学ぶ非決定の力学』

2005年11月13日 | Book
国際通貨体制と構造的権力―スーザン・ストレンジに学ぶ非決定の力学』という本を読みました。国際経済、それも金融の現実の世界を一から知りたいと思っているからです。

この本はイギリスの政治経済学者スーザン・ストレンジの『国際通貨没落過程の政治学』の訳者が、その訳書の内容を解説するためにわざわざ書いた本のようです。訳者によれば、ストレンジの議論はあまりにも既存のアカデミズムの論法とかけ離れているため読解が困難であり、あえて解説書を書くことでストレンジの議論をわかりやすくすることを意図したそうです。

上記の『国際通貨没落過程の政治学』というのはとても分厚い本で僕も途中で投げ出してしまったので、解説書を書いてくださった著者の本山美彦さんには感謝です。

ただこの『国際通貨体制と構造的権力』は分量は少なくても内容は複雑な本で、かつ細かいノートも取らなかったのですが、とりあえず頭を整理するために記憶を頼りに少しメモっておきたいと思います。

基本的には、国際経済それも国際通貨体制は、一つの国の貨幣を他国が交渉のために用いるため、そこにシステムの不具合が必然的に生じること。

ストレンジの国籍であるイギリスのポンドは19世紀の自由貿易時代から国際通貨として認められてきましたが、そのことによりポンドは国際通貨としての“権威”をもち、そのことがイギリス人になんらかの心理的優越感をもたらしてきました。

19世紀はヨーロッパ諸大国の経済的・軍事的権力が拮抗していたので、ポンドは純粋に国際的通貨として用いられ、イギリスはその基軸通貨国としての地位を乱用してポンドを乱発することはしませんでした。それによりイギリス人は“権威”というpricelessな利益のみを得て、ヨーロッパ内では自由貿易は一応円滑に進行しました。

しかし20世紀に入りイギリスの経済力が落ちると、基軸通貨国であることがイギリス経済の重しとなってきます。

この時代は重化学工業全盛の時代ですが、経済史ではイギリスは後発国の後発利益に先を越され、産業構造の転換に遅れます。こうしたときに必要なのは国内投資ですが、このときイギリスの投資家はこぞって植民地国に投資を行う癖を持ち続け、国内の産業育成に積極的になれませんでした。

これは「ポンドが国際通貨である以上植民地国にポンド準備を供給しなければならない」という無意味なプライドをもつイギリスの経済上層が海外投資を続けたためです。

またこのような行為の条件整備を行ったのがアメリカでした。20世紀前半では基軸通貨国としての体力をアメリカはまだ備えていませんでした。一国が基軸通貨国となるためには、たんに経済発展するのみならず、その国の通貨を交渉のために各国に使わせる要因を齎さなければなりません。端的に言えばそれは防衛力の供給です。

まだアメリカが全世界的に軍事力の拡張を行うのを躊躇していたときに、アフリカから香港・インドなどアジアにまで軍事負担を行っていたのがイギリスでした。

アメリカは自国の通貨を世界的に使わせることに躊躇していたとき、ドルを無闇に世界に拡大する前に、ドルを世界に拡大させずに世界の通貨体制を操作する方法を編み出します。それがイギリスへの資金供給です。

つまり世界的な軍事・政治バランスに労力を使わずに、イギリスに資金供給することで、19世紀から基軸通貨国であるイギリスのポンドに引き続き基軸通貨国の地位を保たせ、世界に資金供給と軍事バランスの安定をもたらす労力をイギリスに押し付けたのです。

冷静に考えればイギリスがすべきことは、自国の経済力が落ちているときはそうした世界覇権のような役割につきまとう負担を辞退することですが、19世紀からの基軸通貨国であるという無意味なプライドと栄光にすがるイギリスは、アメリカの意図を汲むことができず(あるいはあえて否認した?)、世界にポンドを供給するという身分不相応な役割を担い続けます。そのためイギリスからの資本輸出は20世紀前半に増大を続け、イギリス人にとって本当に必要な国内投資は疎かになり、イギリス経済の衰退が始まりました。

またその裏でアメリカはドルの乱発を(当時は)抑え、国内投資にドルを振り向けることで経済成長を果たし、世界における経済的覇権を手にして生きます。

戦後、死に体となったイギリス経済に対し成長を続けたアメリカは、その経済力と軍事力をバックに、金本位制というフィクションの下でポンドを押しのけ基軸通貨国として満を持して登場します。

その後に金本位制がアメリカによって一方的に反故にされ、アメリカにとって限りなく好都合な変動相場制=ドル特権体制が成立しました。

上に書いたように19世紀ポンドが基軸通貨であった時代でも、イギリスはその立場を乱用して、ポンドを乱発して各国からモノを買いまくるという「ニセ札業者」のようなことはしませんでした。それは経済発展と軍事力のバランスが当時のヨーロッパでは拮抗していたことに起因します。

しかし冷戦時のアメリカは軍事力において圧倒的な立場にあり、西側諸国に軍事力の供給というカードをもっていたため、変動相場制のもとでドルを乱発し世界中からタダ同然でものを買いまくります。しかしアメリカ以外の国は、アメリカの軍事的影響とポンドが衰退すると同時に出てきたドルの基軸通貨としての地位から、貿易交渉においてはドルを準備するよう強いられます。またドルを持たざるを得ないゆえに、ドルの下落を防ぐためさらにドルを買い続けます。こうして、結果的にはまるで暴力団の縄張りで営業するお店のような状態に西側各国は置かれます。

先の郵政民営化騒ぎで、郵貯が民営化されればその資金はすべてアメリカの国債・株式・通貨を買わされるから郵政民営化は避けるべきという議論がありました。私もその意見に賛成です。

しかしその意見に対し、ドルが一番強く安全なのは経済の常識だと一蹴するエコノミストもいました。

彼の意見は正しいのですが、そこにないのはドルのそのような特権的地位はアメリカの純粋な経済努力でなされているのではなく、20世紀前半から半ばにかけてアメリカの軍事力に世界各国が従属しなければならない状態を意図的に作り出したこと、またポンドを巧みに利用することでイギリスの経済発展を阻害し・基軸通貨としての役割を担える軍事バランスのコントロールの力がついた時点でドルを基軸通貨にアメリカがしたこと、またその地位を利用してアメリカは安易にドルを乱発してモノやサーヴィスを世界から買い続ける「泥棒」のような行為をしていること、そのアメリカのドルをもたざるをえないがゆえに乱発されるドルの価値を支えるためドルの買い増しを世界各国は強いられていること、この著しく不公正な状況への批判的視点です。

こうしたドルがもつ特権的な地位を、本山さんは「構造的権力」と呼んだのだと思います。

この権力が「構造的」なのは、国際通貨体制とは、一国の通貨が基軸通貨として用いられるときには、最初に書いたようにシステムに不具合が生じざるをえないことです。

たとえ一国の通貨が基軸通貨として用いられても、その国がその地位を乱用して通貨を乱発せず、また他国が債務返済不能に陥ったときには、その返済を容易にするよう自国の通貨の価格を設定するなどの責任をもつ必要があります。場合によってはそのために自国の産業発展を犠牲にする必要もあります。

言い換えれば「本来」基軸通貨国は、上記の役割を担えるほど健全な産業発展をし続け、自国の地位を悪用せずに公正な貿易ルールを使用する責任があります。

そうした責任とは反対の事を悉くしつづけたがアメリカでした。自国の貿易発展が阻害されると金本位制を反故にし、世界的インフレと石油ショックを引き起こすドル乱発を行い、著しく貿易赤字を増やし、世界に軍事力を見せることでドルの利用を強制し、世界中のお金をアメリカに「貢納」させることで数字上の経済発展を達成しています。

ストレンジ(と本山先生)が告発しているのは、世界貿易のシステムに内在する通貨体制の矛盾と、その矛盾に無頓着で自国の利益のみを考えるアメリカの(20世紀から現在まで続く)政治経済戦略だと思います。


涼風

『楽しみの社会学』

2005年11月12日 | Book
   
最近このブログでちょこちょこ取り上げるている(「『フロー体験 喜びの現象学』」 「自己と“流れ”」 「政治と外発的動機」)チクセントミハイについて、また少し書きたいと思います。

簡単に言えば、チクセントミハイが言うのは、人は自分の能力の限界を試すことに喜びを感じるものであること。その能力の方向性は各人によって違うけれども、自己の能力よりやや高いハードルを設定することで、それに取り組む動機が刺激され、達成したときには大きな充足感を得る。そのハードル越えの欲求は富や名声といった外発的な誘引ではもたらされないし、食欲や性欲といった単純な欲求とも異なる。言うならばそれは自己をより複雑にしていく行動である。一つ一つの障害をクリアすることで、その行為に関するより高いレベルのノウハウが身体に蓄積され、心身がより複雑に秩序化されていく。これはチェス・ロッククライミングから数学までじつに幅広い分野でみられる現象である。

こうした“内発的動機”にもとづく行為が人間の幸福の源泉の一つであることを彼は主張するのですが、この行為は本人には「仕事」とも「遊び」とも明確に認識されていないそうです。形式上はどちらかに分類されていても、実際にその行為をしているときは本人はまさにその行為に没頭し、自分が遊んでいるとか仕事をしているということは意識されていません。

たとえば私たちが仕事の重要性を言うとき、社会的責任や家族への責任とそれにともなう人間的成長といったことが考えられています。しかし幸せに仕事をしているひと、“フロー”な状態にある人は自分が仕事をしている意識をもたずに仕事をしている人ということにチクセントミハイにとってはなります。幸せな行為とは、そうした“責任”といったものとは無縁だし、ましてやその反対の“余暇活動”といったものでもありません(たとえそれが余暇時間になされていたとしても)。

このときチクセントミハイは、この“フロー”な行為を思わず子供がしているような行為としてもイメージしているのではないかと思います。ではその子供のような行為とは何なんでしょう?

ちょっと長くなりますけど次の文を引用します。


「この研究の結果は、子供に教えるべき最も基本的なことは、行為への挑戦の機会を、彼らの環境の中に認識させることであることを示唆している。これが他のすべての基礎的技能というものである。・・・

(例えば)ヨガの訓練は、自己の生理的支配を挑戦の中心的狙いとする。健全な教育は―簡易なヨガ、武術、タンブリング、手の動きの巧緻性を要する運動、アイソメトリック運動、ダンス等を通して―自分の身体で何ができるかを子供たちに示すことから始められよう。次の子供は、自分の身体の個々の特殊な機能の発見へと導かれるであろう。彼は呼吸によって多くのことができることを教えられよう。歌、叫び、詩の朗読などである。指を使って何ができるか。粘土細工、絵の具を塗りつけること、あやとり、道具の使用などである。

更に最も重要なことは、心は何ができるかということである。・・・真の教育の基礎的作業は、子供にイメージや類推、言葉の遊びや定義づけを通して、心がいかにして環境を秩序づけるかを教えることである。・・・

心の限界を試すため、最初の教育は芸術的なものでなければならない・・・。雲が心の中に絵として描き得ることを知ることが、子供たちにとって重要である。身の周りの音にパターンをききわけることを知ることが重要である。彼らは言葉で遊ぶこと、言語という道具を支配する自信が発達するまで、奔放な言いまわしや、荒っぽいだじゃれを組み立てることを学ぶことが必要である

自分の身体や心が必要とする技能のすべてを発展させるように訓練された子供は、けっして退屈や頼りなさを感ずることはなく、従って、彼の環境から疎外されることはない」

『楽しみの社会学』

ここでチクセントミハイは、なにか心と身体の筋肉を解きほぐすような、規律とのびやかさの同居した行為を指摘している。

彼が子どもに教えるべきとしていることは、従来の教育とは何がちがうのだろう?ダンス、粘土遊び、芸術、言葉遊びなどに共通することは何だろう?

子供を遊ばせようと言うのは簡単です。ただ彼は、活動を通して自己が律せられる(外から規律を押し付けられるのではなく)ような行為を想定しているのだと思います。

絵を描いたり粘土遊びをしている子供を叱る親はあまりいないと思います(余程の受験信者の親でないかぎり)。しかしテレビゲームやテレビをずっとしている子供には多くの親が眉をひそめる場合が多いでしょう。それは、テレビをみるという行為には、心と身体を能動的に発動させて活動するような活発さが親には感じられないからです(実際に子供がテレビを見る際に能動性を発揮していないかどうかは別として)。

自己の中から積極的に湧き上がる能動性によってより高いハードルを目指すこと。そうした能動性は、心と身体という二分法をこえるのかもしれません。身体を動かしているだけにみえて、ダンスやサッカーの熟達者は知性を駆使して創造性を産み出しているかもしれません。頭だけを使っているようにみえて、将棋の名人は駒を指すときに身体全体が興奮でみなぎっているかもしれません。

ただ現代の教育では、知能を教育する際に子供が身体で興奮することはほとんどないと思います。心・頭と身体を分離させてしまうような教育だからです。チクセントミハイが「イメージや類推、言葉の遊びや定義づけを通して、心がいかにして環境を秩序づけるかを教えること」が重要だと言うのは、頭を駆使することは、生身が接する環境に“芸術的に”“スポーツのように”接触することと両立することを言いたいがためのような気がします。

概念・イメージが“言葉”としてのみ教えられると、普通の子供は無味乾燥な記号の羅列にウンザリし、その“言葉”の組み合わせを学ぶ教育に遊ぶように取り組むことはできなくなります。

しかし数字の掛け合わせ、社会の物事が絵画として・イメージとして“芸術的”に理解できるものだとわかるとき、子供は日々の生活で視覚神経で見ている色彩豊かな世界と勉強とが密接に結びつくことを肌で感じることができます。

こういうことは、以前見学させてもらった右脳幼児教室(「見る力」)ですでに行われていることのように思うし、大西泰斗さんが英文法教育でずっと主張し続けていること(「《感覚》で学ぶと...(!!!)」)もそういうこと(どういうことだ?)と思います。


涼風

参考:「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

   『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』 チクセントミハイ/ルイス(著) joy -a day of my life-

   自己と“流れ” joy -a day of my life-

   『フロー体験 喜びの現象学』 チクセントミハイ(著) joy -a day of my life-

   “Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

   “The Evolving Self” by Mihaly Csikszentmihalyi

眠ることの大切さ

2005年11月11日 | Book

昨日は夜遅くに寝たのに、今日はとても朝早く、まだ暗いうちに目が覚めてしまいました。こうやって目が開いてしまうと、一日中不快な感じで過ごします。眠たいけれど寝れないという感じなのです。やることがあるから寝れないのではなく、たとえ布団に入っていても寝れないのです。でも頭がフラフラで寝不足感はつきまといます。結局活動できないままです。

中谷彰宏さんは、日本の経済成長は電車の中で寝ることができるサラリーマンの癖によってなされたと言っています(『できる人ほどよく眠る』。それぐらい眠るということは大事だということですね。彼は月2、3冊以上のペースで本を出すけれど、一日7時間半はかならず睡眠をとるようにしているそうです。7時間半寝られなければ、次の日に前日の達成できなかった睡眠時間を足して寝るそうです。それぐらい寝なければいい仕事はできないということですね。

そういえばホリエモンも睡眠は8時間は取ると言っていました。ホリエモンには好きになれない部分も多いけれど、思わずハッとさせられる言動も多くあります。彼ぐらいハイパーテンションで活動していると夜遅くまで酒を飲んでそうなイメージがあるけれど、眠ることは重要でそうしなければバリバリ働くことはできないんでしょうね。

“寝すぎ”もよくないけれど、起きている時間を大切にしたい人ほど、ちゃんと眠るようにしているのかな。そうは言っても物理的制約でどうしようもできない人も多いし、理想的すぎるのかもしれないけど。


涼風

『脳とコンピュータはどう違うか』

2005年11月10日 | Book

今話題の茂木健一郎さんと田谷文彦さんが書いた『脳とコンピュータはどう違うか』を読みました。といっても一文字一文字読んだわけではなく、ページをさっとめくってそこに出てくる単語を見て内容を類推しながら1時間足らずで最後のページに行きました。得意な分野でもないので、詳しく読もうという気も起こらなかったんです。

内容は、コンピュータがどれだけ進化しているように見えても、それはプログラミングされた計算をしているにすぎないということ。確かに複雑な計算をできるし、さまざまなプログラムを組み合わせることで色々な分野に応用できる反応を今のコンピュータはするけれども、基本的には自分から能動的に“思考”を作動・創造することはできず、最初の設定に依拠せざるをえないということ。

それに対して人間の脳の特性はまさに自ら“思考”を行っているということ。またその脳の働きのパターンも必ずしも人間の脳の本質として備わっているものではなく、環境の影響を受けること。

大体こういうことを言っているような印象を受けました。大雑把過ぎてスミマセン(^ ^;)。

読み終わったときの正直な印象は、「うーん、語り方が“科学的”なところは新しいのかもしれないけど、結論は20世紀の言語哲学や現象学(この二つも互いに違うのだけれど)がずっと前から言っていることとそれほど違うのだろうか?」というものでした。

でもこれだけ話題になっているし、茂木さんは小林秀雄賞まで受賞しているので、もっと革新的なことを言っているのだと思います。


今これを書いている前にある英語のAudiobookを聴いていました。そこで思い出したのが著者たちが言う「感覚クオリア」と「志向クオリア」のこと。

「クオリア」とは、対象に刺激された脳がその対象を把握しようとする働きのことだったと思います。「感覚クオリア」とは、まさに対象のもつ形・色・匂いなどに対応して発動する脳の刺激パターン。「志向クオリア」とはその「感覚クオリア」よりももっと包括的なもので、対象を概念として“全体的”に捉える脳の刺激パターンです。

たとえば、感覚クオリアが「リンゴ」を理解するのは、まさにアノ赤くて丸い「リンゴ」を見ることによってなされます。それに対して「志向クオリア」は、たとえば白い画用紙の上に「リンゴではないもの」を描くことによって結果的にリンゴの形をした空白ができたときに、それを「リンゴ」として把握できる脳のパターンです。

どうして英語を聞いていてこれを思い出したのかといえば、英語というのは、というより外国語というものは、というより言語というものは、この「志向クオリア」に著しく依拠して形成されるものなんだろうな、という感じだからです。

よく言われているように、文法書に書かれている文法が言語を形成されているわけではありません。本来は個々の状況に応じて自由になされる発語・記号の表現を観察してそこに最大公約的なパターンを取り出したのが文法であって、文法が個々の言語表現を完璧に規制することは不可能です。

つまり個々の状況では私たちは、文法という目に見えるものをとらえる「感覚クオリア」ではなく、一寸先は闇である自由な一つ一つの記号表現を瞬時に“理解”し、それを“概念”として一挙に一つのまとまりとして把握してしまう「志向クオリア」を活用しています。それは、一つ一つの音のつらなりを理解するというよりは、文脈に応じて発音されない音を類推し、そこから単語を頭で組み立て、相手が発した言葉を想像する能力です。

日本語では何気なくそうしたことをしていても、外国語だとその難解な作業をすることにひじょうに困難を覚えます。


ただ、そういうことを思ったというだけなんですけど・・・


涼風

興味本位のお客さん 買うお客さん

2005年11月10日 | ネットでの取り引き
Yahoo!オークションに出品していると、たまに「質問」が来て商品に関して尋ねられることがあります。

それでわかったのは、買う前に色々聞いてくるお客さんはほとんど商品を買わないということ。

以前、商品説明のプロが言っていましたけど、台所用品とか他の商品を実地で実演していると前に陣取って色々質問してくる女の人たちがいるけれど、そういう人は絶対に商品を買わないそうです。

これはどうしてなんでしょう?

思うに、商品を買う前に色々考えている時点で、その人は買わない理由を探しているのかもしれないし、もともと買う気がないから、いろいろと頭でその商品について“考える”のかもしれません。

人が何かを買うときというのは、たとえお店の人に何かを聞いたとしても、大体「買う」という腹が決まっているように思います。

興味本位で来るお客さんほど、いろいろ頭で考えて質問をするけれど、結局は買わないものなのかな。

買うときはスパッと買ってしまう。

言い換えれば、いいセールスマンというのは、人を理屈なしに「買おう!」と思わせてしまうもののように思います。

「買う」という行為は理屈で説明できるものではないんですね。


涼風

「自然」

2005年11月09日 | 見たこと感じたこと

今年は秋の訪れがなかなか来ないですねぇ。夏でも秋でもない感じがします。

秋というと私は以前住んでいた東京都国立市の大学通りを思い出します。並木道が駅から南へまっすぐに500m以上も続いているきれいな通りです。

その木々には春には桜が満開になるのですが、それ以外の季節も、初夏には青々とした緑で満ちて、秋には赤や黄色の葉っぱがとてもきれいです。

自然の美しさというものには、わたしは意外にも東京で目覚めました。相性の問題もあるでしょうけど、なぜか東京のほうがそうしたものへの感受性が研ぎ澄まされます。

どうしてだろう?東京というのは無国籍都市で土着性がないので、自分が根無し草のようになります。それだけに純粋に「自然」という概念に感覚が敏感になるのかもしれません。

それに対して地方にいると、自然は「自然」ではなく、生活に密着した「田舎」になるように思います。

日本の「田舎」の風景には臭みや貧しさを感じ思い浮かべるのに対し、欧米の「大自然」の写真には造形美のようなものを感じて感動するのも、自分の身体に染み付いたアジア性みたいなものが欧米の風景には感じられないから、そこに「純粋な自然」というものを見出すのかな。


涼風

参考:「多磨の紅葉特集」

デフラグデフラグ

2005年11月08日 | 家電製品にかかわること

昨日の記事で書いたように、CD複製ソフトがおかしくなったので、「教えて!goo」で対策を質問したところ、デフラグをかけてみるようアドバイスを貰いました。

それで早速試してみたところ、何度か動作が直ったみたいです。

うーーん、「デフラグ」という基本的なことも思い浮かばずに悪戦苦闘していたのがなんだかお間抜けです。

もしパソコンの調子がおかしいと感じられている初心者の方がいましたら、デフラグで直るかもですよ。

涼風

参考:「デフラグでHDを最適化して、動作を早くして・寿命をのばそう」

500円が消える

2005年11月07日 | 家電製品にかかわること
僕はCD-RにCDの内容を書き込む際に「Drag'n Drop CD+DVD 3.0」を今まで使ってきました。Dynabookでは解説書でこのソフトを使うように指示されていたのです。

ところがここ数日このソフトの調子がおかしくて、CD-Rに上手く複製することができません。「書き込みエンジンの内部エラーが発生します」という表示が出てきます。スクリーンセーバーを解除したり書込み速度を遅くしたり色々試しても上手くいきません。

そうこうするうちに計10枚ほどのCD-Rをパーにしました。1枚50円ほどなので500円分を無駄にしました。500円がなくなってとっても悲しいです。

「Drag'n Drop CD+DVD 3.0」のメーカーに問い合わせようと思っても、なんと「3.0」に関するサポートはこの10月で終了していました。信じられないです。

CD-Rへの書込みというのも、実は僕はよく分かっていなくて、さぁこれからどうすべきかと思います。新しいソフトを買わないとだめなのかなぁ?2、3千円も出費するのはお金がもったいないなぁ。

パソコンは本当に僕の生活の役に立っているのかしら?便利さとイライラ度を差し引きするとトントンだったりして。


涼風

サッカーの性質

2005年11月06日 | スポーツ
オシムイズム3年で開花/ナビスコ杯 (日刊スポーツ) - goo ニュース

「7色のビブスを使っての複雑な練習で、頭を使うことも教え込んだ。MF坂本は「自分たちがやってきたサッカーと全く違った。20歳を超えてこんなに体と頭を使うとは思わなかった」。MF羽生も「私生活も含めて、本当のプロというものを教えられた。だから今は相手に代表がたくさんいても自信を持って戦える」と言った」


日本でワールドカップが開かれたとき、某知識人の中に「サッカーは人々のナショナリズム感情を刺激してよくない」と言うひとたちがいました。それを読んだときは「本当に世の中にはこういう人がいるんだ」と(純粋に)少し驚きました。なんとなく、それはあまりに短絡的な発想に思えたんです。サッカーを、そしてスポーツを観ることは、音楽を鑑賞するのと同じ性格をもっており、観客の知的興味を刺激することをこの人たちは知らないのかな?と思いました。

ただ、彼らがスポーツを観る喜びを経験したことがないのなら、それも仕方がないかなとも思いました。

たしかにサッカーは観るひとの競争感情を極端に刺激するスポーツです。それはサッカーが観る人に忍耐を強い、その果てにやってくるカタルシスを過激に開放するスポーツだからだと思います。

90分を見ていて点は両チーム合計でせいぜい4回ぐらいしか入りません。それ以外のときは、つねに忍耐強くボールを回します。

足を使うスポーツのためバスケットのように「計画的」に事を運ぶのは困難であり、ボールをゴール前に運ぶプランはほとんどが途中で挫折し、そのたびに守備に回る必要があります。そう、サッカーとは挫折の繰り返しのスポーツです。

そうした「がっかり」が絶えず続くため、ゴールをあげたときの歓喜は激しくなります。

ファールとルール通りのプレーも曖昧なため、肉体の接触も多く、選手が動く範囲もピッチ内では自由なため、グラウンド上は一種のジャングルの様相を呈します。それもまた観客のアドレナリンを刺激する要素です。

そうした要素が絡まってサッカーは観る者の競争感情を刺激します。それがチームスポーうとして行われるため、観る者の団結感情をも増し、そこからフーリガンのような現象も生じます。

そうした現象を見て、それら知識人の方は憂慮されたのでしょう。

べつに知識人じゃなくても、僕がドイツにいたときには、サッカーが嫌いだと言う人に3人も出会いました。そのうち2人は男です。ドイツのようにサッカーが盛んだからこそ、逆にサッカーの欠点に敏感な人も多いのだと思います。


では、本当にサッカーは社会にとってマイナスなスポーツなのでしょうか?

イタリアの著名な社会学者、フランチェスコ・アルベローニは次のように述べています。

「(サッカーの)試合というものをもう一度考えよう。選手達は動きを起こし、相手側の無数の妨害を乗り越えながら、辛抱強く連携プレーを展開する。そして、第一の障害を、ついで第二の障害を乗り越えるが、結局攻撃は失敗する。もう一度はじめからやりなおさなければならない。さらに、もう一度はじめから。目標をけっして忘れることなく、緊張をけっして緩めることなく、失敗にけっしてめげることなく。

 普段の生活が各個人に求めることはまさにこれなのである。学校での進級といったことを手はじめに、我々がどういう目標を設定するにしても、定められたたくさんの事柄をこなさなければならない。何かの定理、ポエジーといったものを学び、口頭試問、さらにもう一つの難関を乗り越え、次いでクラスのテストその他をしのぎ、しかもどの結果も決定的なものではないのだから、何度でもこれを繰り返さなければならない」

『他人をほめる人、けなす人』)


 アルベローニが言うに、サッカーの試合は人生・生活のメタファーです。ゴールを決めて浮かれていると相手はすぐさま反撃してきます。ちょうど個人や企業が成功した後に有頂天になっているときに敵は反撃の策略をねっているように。

 またサッカーの試合で選手はどれほど感情的になっても相手に蹴りを入れることは許されません。もしそれを犯したら、彼はピッチの外に追い出されます。場合によっては、審判の間違いでカードを出されることがあります。観客はそこから、人生の不条理と、それでも自己抑制をし自分の感情を抑えなければピッチの上にい続けることはできないし、またピッチの外に出されても次の試合に出るためには判定に不服をとなえるよりも自己の鍛錬にじっと励むことのほうが大切であることを学びます。

「これらすべての価値観、精神的規範を、我々は試合を見ることによって学び、それを自分のものとし、日常生活のなかに導入する。これらは我われを支えてくれる規範であり、理想的なモデルであって、生きるという苦しい仕事に携わる我われを導いてくれるものである」(同上)

ここでアルベローニが言うように、サッカーがもたら喜びは、一つ一つの相手の防御に“挑戦”し、それをクリアしたあとにおとずれるものであり、またつねに集中力を保ち、自己の感情を自律的に調整することで得られるものです。

それはサッカーをする者だけではなく、サッカーを本当に愉しむために観客にも要求されるものです。自チームの繰り返しの失敗にもイライラせずに耐えながら、一つ一つの選手の意図と失敗を吟味し、どの選手がどういう試みをしようとしているかを理解し、その選手のリズムに自分を重ね合わせていきます。

これは、おそらくサッカーを野蛮なスポーツとして批判する方々が愉しんでいるであろう音楽鑑賞や読書と同じ集中力が要求される行為です。


涼風

不安

2005年11月03日 | reflexion
  
最近のこのブログの記事で取り上げているように、天外伺朗さんはエゴが肥大化するとそれを戒める出来事が起きると述べています。同じようなことをタデウス・ゴラスさんは、直視することを避けていることは必ず目の前に現れると指摘しています。

経験や実感から彼らの言っていることは正しいと僕は思うのだけど、だとしたら、「不安」を感じるというのは実はとてもいいことなのかな、と思いました。

「不安を手放そう!」という“ポップ心理学”が日本でブームを引き起こして久しい。その中には良質なものがあるけれど、それらの本を買うときはどうしても「これで絶対に晴れ晴れとしたこころを手に入れるのだ!」と消費者は力んでしまう。

でも、「晴れ晴れ」や「まっさらなこころ」というものは、多くの人が気づいているように、手に入れることはできない。ピンセットで「心」を解剖して悩みをつまみ出すというのは不可能です。

でも、それはいいことなのじゃないでしょうか。

「晴れ晴れ」とせずに、多少の不安を抱えているぐらいのほうが、傲慢になることもないし、エゴを肥大化させずにすむし。

ほどほどに悩むぐらいでちょうどいいじゃないかという気がします。それぐらいの方が人間的で可愛気があるんじゃないでしょうか。


涼風

知と感情 ―Do you have an open mind?―

2005年11月02日 | 日記
    “To his detriment as a scientist, he was too dogmatic in his beliefs to look at problems and solutions with an open mind.”


政治についての意見を書いていると、すっきりするどころか、一日中頭に血が上っていることがあります。昨日もすっかり一日中悪い気分でいました。

最近はあまり人と会わない生活をしているのですが、もし今の自分に現在の政権を支持する人が来て挑発的に感じられる言動を取ってきたら、たとえそれが身近な人であっても、自分は全力で反撃に出て相手の人格に徹底的な攻撃を加えるのではないかと、そう感じます。

以前わたしの周りには、自身と意見が異なるだけで感情的に攻撃をしてくるひとたちがいるように感じて、「あぁ、どうしようもない子供だなぁ」とわたしは解釈して、必死で「鼻で笑おう」としていました。そうすることで自分を正当化し、相手の「攻撃」を無視しようとしていました。しかし、今の自分をみると、まったく同じ傾向を自分ももっているのだなぁと改めて気づかされます。まさに「紅茶を無視しているとコーヒーという現実に向き合わざるをえない」(『なまけ者のさとり方』)です。

betterな社会をデザインするという欲求は多くの人がもっているけど、それを実践する上で意見が違う人がいると、どうしても相手を悪人とみなして攻撃してしまいます。

「批判」ではなく建設的な「指摘」ができればいいのですが、どうしても利害感情が混ざって、他人を貶めるような言動をしてしまいます。

これはどんなに頭のいい人でも脱することができない傾向ですね。知的であることが優秀であるという文化に育っているため、たまたま知的遊戯が得意なだけでその人は社会全体の人を見下してしまうという文化に日本もなっています。

社会について考えたいというのは、べつに奉仕ではなくてその人の欲求から出てくるのですが、どうしても他人への攻撃を伴う場合が出てきます。

抜群に頭がよくてかつ他人をニュートラルに判断できる人もいます。しかし歴史上の知的ブレイクスルーを果たした「偉人」が自分の周りの人を奴隷のように扱ったという例も多すぎるほどあります。まして・・・

なかなか難しいところです。


涼風