オシムイズム3年で開花/ナビスコ杯 (日刊スポーツ) - goo ニュース
「7色のビブスを使っての複雑な練習で、頭を使うことも教え込んだ。MF坂本は「自分たちがやってきたサッカーと全く違った。20歳を超えてこんなに体と頭を使うとは思わなかった」。MF羽生も「私生活も含めて、本当のプロというものを教えられた。だから今は相手に代表がたくさんいても自信を持って戦える」と言った」
日本でワールドカップが開かれたとき、某知識人の中に「サッカーは人々のナショナリズム感情を刺激してよくない」と言うひとたちがいました。それを読んだときは「本当に世の中にはこういう人がいるんだ」と(純粋に)少し驚きました。なんとなく、それはあまりに短絡的な発想に思えたんです。サッカーを、そしてスポーツを観ることは、音楽を鑑賞するのと同じ性格をもっており、観客の知的興味を刺激することをこの人たちは知らないのかな?と思いました。
ただ、彼らがスポーツを観る喜びを経験したことがないのなら、それも仕方がないかなとも思いました。
たしかにサッカーは観るひとの競争感情を極端に刺激するスポーツです。それはサッカーが観る人に忍耐を強い、その果てにやってくるカタルシスを過激に開放するスポーツだからだと思います。
90分を見ていて点は両チーム合計でせいぜい4回ぐらいしか入りません。それ以外のときは、つねに忍耐強くボールを回します。
足を使うスポーツのためバスケットのように「計画的」に事を運ぶのは困難であり、ボールをゴール前に運ぶプランはほとんどが途中で挫折し、そのたびに守備に回る必要があります。そう、サッカーとは挫折の繰り返しのスポーツです。
そうした「がっかり」が絶えず続くため、ゴールをあげたときの歓喜は激しくなります。
ファールとルール通りのプレーも曖昧なため、肉体の接触も多く、選手が動く範囲もピッチ内では自由なため、グラウンド上は一種のジャングルの様相を呈します。それもまた観客のアドレナリンを刺激する要素です。
そうした要素が絡まってサッカーは観る者の競争感情を刺激します。それがチームスポーうとして行われるため、観る者の団結感情をも増し、そこからフーリガンのような現象も生じます。
そうした現象を見て、それら知識人の方は憂慮されたのでしょう。
べつに知識人じゃなくても、僕がドイツにいたときには、サッカーが嫌いだと言う人に3人も出会いました。そのうち2人は男です。ドイツのようにサッカーが盛んだからこそ、逆にサッカーの欠点に敏感な人も多いのだと思います。
では、本当にサッカーは社会にとってマイナスなスポーツなのでしょうか?
イタリアの著名な社会学者、フランチェスコ・アルベローニは次のように述べています。
「(サッカーの)試合というものをもう一度考えよう。選手達は動きを起こし、相手側の無数の妨害を乗り越えながら、辛抱強く連携プレーを展開する。そして、第一の障害を、ついで第二の障害を乗り越えるが、結局攻撃は失敗する。もう一度はじめからやりなおさなければならない。さらに、もう一度はじめから。目標をけっして忘れることなく、緊張をけっして緩めることなく、失敗にけっしてめげることなく。
普段の生活が各個人に求めることはまさにこれなのである。学校での進級といったことを手はじめに、我々がどういう目標を設定するにしても、定められたたくさんの事柄をこなさなければならない。何かの定理、ポエジーといったものを学び、口頭試問、さらにもう一つの難関を乗り越え、次いでクラスのテストその他をしのぎ、しかもどの結果も決定的なものではないのだから、何度でもこれを繰り返さなければならない」
(『他人をほめる人、けなす人』)
アルベローニが言うに、サッカーの試合は人生・生活のメタファーです。ゴールを決めて浮かれていると相手はすぐさま反撃してきます。ちょうど個人や企業が成功した後に有頂天になっているときに敵は反撃の策略をねっているように。
またサッカーの試合で選手はどれほど感情的になっても相手に蹴りを入れることは許されません。もしそれを犯したら、彼はピッチの外に追い出されます。場合によっては、審判の間違いでカードを出されることがあります。観客はそこから、人生の不条理と、それでも自己抑制をし自分の感情を抑えなければピッチの上にい続けることはできないし、またピッチの外に出されても次の試合に出るためには判定に不服をとなえるよりも自己の鍛錬にじっと励むことのほうが大切であることを学びます。
「これらすべての価値観、精神的規範を、我々は試合を見ることによって学び、それを自分のものとし、日常生活のなかに導入する。これらは我われを支えてくれる規範であり、理想的なモデルであって、生きるという苦しい仕事に携わる我われを導いてくれるものである」(同上)
ここでアルベローニが言うように、サッカーがもたら喜びは、一つ一つの相手の防御に“挑戦”し、それをクリアしたあとにおとずれるものであり、またつねに集中力を保ち、自己の感情を自律的に調整することで得られるものです。
それはサッカーをする者だけではなく、サッカーを本当に愉しむために観客にも要求されるものです。自チームの繰り返しの失敗にもイライラせずに耐えながら、一つ一つの選手の意図と失敗を吟味し、どの選手がどういう試みをしようとしているかを理解し、その選手のリズムに自分を重ね合わせていきます。
これは、おそらくサッカーを野蛮なスポーツとして批判する方々が愉しんでいるであろう音楽鑑賞や読書と同じ集中力が要求される行為です。
涼風
「7色のビブスを使っての複雑な練習で、頭を使うことも教え込んだ。MF坂本は「自分たちがやってきたサッカーと全く違った。20歳を超えてこんなに体と頭を使うとは思わなかった」。MF羽生も「私生活も含めて、本当のプロというものを教えられた。だから今は相手に代表がたくさんいても自信を持って戦える」と言った」
日本でワールドカップが開かれたとき、某知識人の中に「サッカーは人々のナショナリズム感情を刺激してよくない」と言うひとたちがいました。それを読んだときは「本当に世の中にはこういう人がいるんだ」と(純粋に)少し驚きました。なんとなく、それはあまりに短絡的な発想に思えたんです。サッカーを、そしてスポーツを観ることは、音楽を鑑賞するのと同じ性格をもっており、観客の知的興味を刺激することをこの人たちは知らないのかな?と思いました。
ただ、彼らがスポーツを観る喜びを経験したことがないのなら、それも仕方がないかなとも思いました。
たしかにサッカーは観るひとの競争感情を極端に刺激するスポーツです。それはサッカーが観る人に忍耐を強い、その果てにやってくるカタルシスを過激に開放するスポーツだからだと思います。
90分を見ていて点は両チーム合計でせいぜい4回ぐらいしか入りません。それ以外のときは、つねに忍耐強くボールを回します。
足を使うスポーツのためバスケットのように「計画的」に事を運ぶのは困難であり、ボールをゴール前に運ぶプランはほとんどが途中で挫折し、そのたびに守備に回る必要があります。そう、サッカーとは挫折の繰り返しのスポーツです。
そうした「がっかり」が絶えず続くため、ゴールをあげたときの歓喜は激しくなります。
ファールとルール通りのプレーも曖昧なため、肉体の接触も多く、選手が動く範囲もピッチ内では自由なため、グラウンド上は一種のジャングルの様相を呈します。それもまた観客のアドレナリンを刺激する要素です。
そうした要素が絡まってサッカーは観る者の競争感情を刺激します。それがチームスポーうとして行われるため、観る者の団結感情をも増し、そこからフーリガンのような現象も生じます。
そうした現象を見て、それら知識人の方は憂慮されたのでしょう。
べつに知識人じゃなくても、僕がドイツにいたときには、サッカーが嫌いだと言う人に3人も出会いました。そのうち2人は男です。ドイツのようにサッカーが盛んだからこそ、逆にサッカーの欠点に敏感な人も多いのだと思います。
では、本当にサッカーは社会にとってマイナスなスポーツなのでしょうか?
イタリアの著名な社会学者、フランチェスコ・アルベローニは次のように述べています。
「(サッカーの)試合というものをもう一度考えよう。選手達は動きを起こし、相手側の無数の妨害を乗り越えながら、辛抱強く連携プレーを展開する。そして、第一の障害を、ついで第二の障害を乗り越えるが、結局攻撃は失敗する。もう一度はじめからやりなおさなければならない。さらに、もう一度はじめから。目標をけっして忘れることなく、緊張をけっして緩めることなく、失敗にけっしてめげることなく。
普段の生活が各個人に求めることはまさにこれなのである。学校での進級といったことを手はじめに、我々がどういう目標を設定するにしても、定められたたくさんの事柄をこなさなければならない。何かの定理、ポエジーといったものを学び、口頭試問、さらにもう一つの難関を乗り越え、次いでクラスのテストその他をしのぎ、しかもどの結果も決定的なものではないのだから、何度でもこれを繰り返さなければならない」
(『他人をほめる人、けなす人』)
アルベローニが言うに、サッカーの試合は人生・生活のメタファーです。ゴールを決めて浮かれていると相手はすぐさま反撃してきます。ちょうど個人や企業が成功した後に有頂天になっているときに敵は反撃の策略をねっているように。
またサッカーの試合で選手はどれほど感情的になっても相手に蹴りを入れることは許されません。もしそれを犯したら、彼はピッチの外に追い出されます。場合によっては、審判の間違いでカードを出されることがあります。観客はそこから、人生の不条理と、それでも自己抑制をし自分の感情を抑えなければピッチの上にい続けることはできないし、またピッチの外に出されても次の試合に出るためには判定に不服をとなえるよりも自己の鍛錬にじっと励むことのほうが大切であることを学びます。
「これらすべての価値観、精神的規範を、我々は試合を見ることによって学び、それを自分のものとし、日常生活のなかに導入する。これらは我われを支えてくれる規範であり、理想的なモデルであって、生きるという苦しい仕事に携わる我われを導いてくれるものである」(同上)
ここでアルベローニが言うように、サッカーがもたら喜びは、一つ一つの相手の防御に“挑戦”し、それをクリアしたあとにおとずれるものであり、またつねに集中力を保ち、自己の感情を自律的に調整することで得られるものです。
それはサッカーをする者だけではなく、サッカーを本当に愉しむために観客にも要求されるものです。自チームの繰り返しの失敗にもイライラせずに耐えながら、一つ一つの選手の意図と失敗を吟味し、どの選手がどういう試みをしようとしているかを理解し、その選手のリズムに自分を重ね合わせていきます。
これは、おそらくサッカーを野蛮なスポーツとして批判する方々が愉しんでいるであろう音楽鑑賞や読書と同じ集中力が要求される行為です。
涼風
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