joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

サティでお買い物

2005年11月18日 | 店舗を観察して

今日、サティに部屋で着る上着を買いに行きました。

スウェットの上からでも羽織れるような大きくて厚手のカーディガンを探していたのですが、そういうものはなく、結局renomaのフリースにしました。

このフリースには色々な色があったのですが、見た目が一番映えていたのはとても白に近いベージュでした。

買う前も買った後も、「これでよかっただろうか?」という罪悪感が出てきました。白は汚れが目立つし、家の中で食事とかするときに着ると汚れがついてすぐに汚くなるように思えたのです。

そうした罪悪感は結局「親に叱られるんじゃないか」という想いにつながっているように思います。

昔遠足のおやつを買いに行ったときに好きなものを買っていたらチョコレート系のものばかりになっていました。家に帰って兄弟と親がそのことで文句を言いました。食べるのは僕だし予算内の買い物だったのですが、「いけないことをした」という罪悪感に凄くとらわれた出来事でした。そうした経験はたくさんしていると思います。

そういうものが積もり積もって、お金を使う買い物にはどこか罪悪感がつきまとい、「賢明に買い物しなければ」という想いが出てきます。好きな色を買うよりも親に叱られない買い方をしなくてはいけないと思っているのです。こういうのは多くの人が案外持っているんじゃないかと思います。


そのサティは兵庫県の大久保というところにあります。神戸・大阪の通勤圏内で新しいマンションが立ち並ぶだだっ広い平面な土地で、サティを経営するジャスコ系の建物が5つぐらいドーンと立ち並んでいます

中に入ると商品は安いものが中心ですが何か華やかさがあります。ドトールに通ずるような華やかさと安さの混合ですね。裏はともかく表をきれいなカラーにしたような店造りです。

これはどこか薄暗いダイエーとは大きな差です。サティも必ずしも業績はよくないのですが、それでもお店の醸し出す明るさの雰囲気は大きく違います。簡易なオシャレ感が出ているので、消費欲が旺盛な若い夫婦や家族などはサティに流れているんじゃないでしょうか。

どういうコンセプトをもてばこんなにダイエーと大きな差がでるのだろう?


涼風


参考:「マイカル、スピード再建 当初計画7年前倒し 更生手続き12月終結」

『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』

2005年11月18日 | Book
  

   高橋伸夫さんという経営学者が執筆した『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』という本を読みました。もう図書館に返してしまったし、メモもとっていないのですが、記憶を頼りに印象に残った内容をまとめてみたいと思います。

ひとことで言えば、賃金のアップで応える成果主義は働く動機付けにはならないと主張しています。

まず、90年代以降日本では成果主義がもてはやされてきましたが、戦後の日本企業では社員間ですでに賃金格差がつけられていました。20代、30代では何千円・何百円という差しか「幹部候補」と「一般社員」の間に差はないのですが、ピラミッドの上部のポストは少ないため、40代、50代となるほど社員間で賃金の差はついています。つまり生涯賃金で見れば同じ会社の中でもすでに賃金格差は日本企業に存在していました。年功制賃金はじつは内部に大きな格差を伴う賃金体系でした。

ではその年功制と成果主義のどこが違うのかと言えば、それは若年の時点でできない社員に賃金を著しくカットできるところにあります。

生涯賃金の視点で格差をつける年功制は、最低の生活を保障するという思想の下に組み立てられており、それゆえ若年では差がなくまた低い賃金にもかかわらず、生活のための最低賃金を保障します。20万円前後でしょうか。

それに対し成果主義は、この「最低の生活を保障する」という思想を取っ払い、できない社員の賃金にかかるコストをカットするという性格をもっています。経営者はこれでコスト削減ができると思います。つまり成果主義とは、会社の売り上げを伸ばすためというより、コスト削減のために導入されてきたと言えます。

成果主義を訴える論者は、中高年の社員にかかるコストを削減すること、会社にかかる社員給与の負担を減らすことが会社にとって大切であることを強く打ち出しています(例えば『成果主義を自分の味方につける法』 この本をざっと読んだ私の印象は、社員として働く人のための成果主義という視点以上に、経営者はコストカットするために成果主義を導入すべきであり、派遣・アルバイト・パートを活用して社員の給与をカットできる企業がこれから伸びることを主張しているというものです)

こうした主張に対し高橋さんは、社員の給与をコストと考える視点が逆に企業の生産性を低めると述べます。

給与をコストとみなすと、まず社員への教育投資は削られ、最初から一定の水準を収める器用な社員のみが残ります。同じタイプの人間だけが残ると言ってもよいと思います。

また企業活動に不可欠なチーム運営も阻害されます。つねに解雇と隣り合わせに働く社員は、結果的に大きな業績に結びつく活動ではなく、短期的に(そこそこ)一定レベルの業績を達成することのみを目指すようになります。

日本の経済成長を支えた製造業の躍進には、短期的な業績にとらわれず、製品の質を追求した会社の視点がつねにあったのですが、目先の狭い需要にとらわれるとそうした活動は不可能になります。

たしかに産業構造の転換は進んでいますが、その中でも日本の製造業の強み自体は今でも日本経済にとって大きな位置を占めますし、そもそも個々の製品の独自性が求められる現在では、高度な技術を蓄積することが今まで以上に求められていると言えます。その際には長期的な視野の企業活動が不可欠です。

(私は経済の弱肉強食をそのまま肯定する長谷川慶太郎さんの視点には違和感を持ちますが、この日本の製造業の強みをつねに訴える視点は彼をある一定程度信頼できるエコノミストにしていると思います)

つまり企業の活動を長期的に見るには、給与をコストではなく投資とみなし、チームとして働く社員が一定期間その企業に残ることを前提にする必要があります。日本の年功制の長所は、給与の差をつけながらも、社員がその企業に残ることを前提にしているところにあります。それにより、狭い意味での専門技能に還元できないチーム運営のノウハウがその企業に蓄積されていきます。

(企業内にチーム運営のノウハウを長期的に蓄積することの大切さを説いたのが、岩井克人さんの『会社はこれからどうなるのか』です)

社員への給与を投資とみなすことは、同時に社員がその企業にいることで自分の将来をデザインできることを意味します。

これを旧い企業人の生き方とみる人もいるかもしれません。しかし現在働いている人の間でも必ずしも頻繁な転職がベターと考えられているわけではありません。むしろ、玄田有史さんが指摘するように、現在でも転職はより安定した大企業を志向して行われることがおおく、首尾よく大企業に移れた人はそこから動こうとはしません(『ジョブ・クリエイション』)。

またさらに決定的なのは、転職が若者に肯定的にとらえられているわけではないのは、現在の若者の極度の正社員志向に表れているといえます。「ニート」や「フリーター」が「問題」として頻繁に取り上げられていますが、そのことと現在の若い人たちの正社員への志向(執着)は同じコインの裏表です。

90年代以降に正社員採用を著しく減らし続けた日本の企業社会では、それだけリスクと不安感を若者に植え付け、一層正社員にこだわる傾向を彼らにもたらしました。そのことが原因で20代の正社員は企業からの無理な業務指令に従い極端な残業を強いられています。そう、今の若い人たちは働き過ぎなくらい働いています(『仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在』 『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』)。またそうしてぼろぼろに働かされた若い人が仕事を辞め、フリーターやニートになるという構図もあります。

これらの事例は、働く人はある程度の安心感をもって将来をデザインできることを企業に求めているといえます。「正社員」という地位が必ずしもそれを与えるとは言えないのですが、そうした安心感と意欲を多くの企業が今働く人に与えることができていないのです。

経営者から見れば「不況なのだから仕方がない」と言うかもしれませんが、そのことで給与をコストみなしつねにコストカットを意識することで、働く人の意欲を阻害し、結果的に彼らを職場から排除し、短期的な基準のみをクリアする社員だけが残り、現状維持で成長できない企業となる危険性をもつことになります。

この働く意欲と給与との関係について、これは高橋さんの一番言いたかったことだと思いますが、人は給与のアップを目標に働くことはできないと主張します。むしろ人が働くことに意欲が湧くのは、その仕事を自分がコントロールしているという感覚であり、自分の力で一つ一つの基準を達成しているという充実感です。その際の基準とは賃金ではまったくなく、むしろ仕事そのものの前進です。それはサーヴィス・製品の向上の場合もあるし、チームワークの発展という場合もあるでしょう。また売り上げのアップという場合もあると思いますが、そこで充実感・達成考えられるのは、収入がアップするからではなく、その仕事の能力が自分は高まっているという達成感です。

むしろ自分の仕事を給与のみで測るようになると、多くの働く人は仕事の内容ではなく、給与の数字だけをみることになり、仕事の達成感への志向が阻害され、それゆえ働く意欲の源泉が摘み取られる結果になります。

このことで高橋さんがとりあげているのが次の面白い例です。あるユダヤ人のお店に子供達が来て「ユダヤ人、ユダヤ人」と差別的な言動を繰り返していました。それに困った店主は、子供たちに「ユダヤ人と言うごとに10セントあげる」といい、お金を与えました。次の日にも子供達が来て「ユダヤ人、ユダヤ人」というと、「今日は5セントだ」と前日より少ない額のお金を与えました。そうして店主は毎日子供たちに与える額を少なくしていき、ついには「今日はユダヤ人と言ってもお金をやらない」といいます。すると子供達は「だったらもうこの店には来ない」と言って立ち去っていきました。

実話かどうか知りませんが、人間の心性を考える充分ありうるメカニズムです。外から動機を与えられずにしていることは続けられるのですが、お金という動機を他人から与えられることで逆に自発的なモチヴェイションが阻害されていくのです。

この内発的な動機と外発的な動機の区別は、最近頻繁にこのブログで取り上げるチクセントミハイなどの心理学者たちが以前から主張してきたことです。チクセントミハイや高橋さんに共通するのは、人は自分の仕事をある程度を自分でコントロールしているという意識をもち、その遂行において自分の能力が前進していること自体に行為から喜びを得ます。

そう考えると、お金とはそうした働く人の行為を保証するためのものであって、お金自体が目的化するようなシステムはむしろ働くことにとってよくないことになります。成果主義とは、まさにそのお金自体が目的化してしまう人事管理体系だといえます。

このことと関連するお話があります。和田裕美さんという今超話題のセールスコンサルタントがいますよね。英会話のブリタニカの教材販売で年収約4000万を達成した人です。

ブリタニカのセールスは完全歩合ですから成果主義の極限をつきつめていた会社です。そこで和田さんは驚異的な数字を達成し、20代で支店長をつとめるほどになります。

その和田さんに対し、組織の再編成をしたブリタニカは幹部職を確保しますが、提示された給与は1500万だったそうです。4000万近くを稼いでいた和田さんからみればものすごいダウンです。

和田さんには他からのヘッドハンティングもあったそうです。しかし和田さんは帆からの申し出を断り、ブリタニカに残ることにします。そのことについて和田さんは次のように言っています。完全歩合は過去に実際にした仕事に払われる給与です。しかし1500万という給与は、まだしていない未来に対して会社が保証する給与です。会社はそれだけ私に大きな期待をかけている証拠です。私にはその1500万はとても大きな重みをもつように感じた、と(『こうして私は世界No.2セールスウーマンになった』)。

このことは組織が個人に対して「未来」を描く条件を整えることがどれだけ重要かを示しています。

成果主義はすでになされたものに対して払われるのに対し、日本の年功制が上手く機能したのは、働く人が自分の未来(生活と仕事と)を描く条件を提供したからです。

また和田さんは、完全歩合の世界で大成功を収めながらも、自分がセールスの仕事にやりがいを見出したのは単にお金がたくさん入ってくるからではなく、セールスが人との関わり合いであり、お客に喜ばれることが嬉しいからだと述べています。これも高橋さんやチクセントミハイの述べている、人が仕事に打ち込むときの心理と完全に符号しています。


たしかに「正社員」や「年功制」という形式のみにこだわる必要はないでしょう。重要なのは、働く人が自分の未来を描けることの重要性です。

今の日本は40代、50代の転職は容易ではありません。それに対して欧米の経済先進国はたしかに日本よりは転職率は高いです。しかしそれが働く人に活力を与えているかと言えば、これからちゃんと調べる必要はありますが、おそらくノーではないかと思います。仕事を失うことがどれだけ働く人に恐怖を与えるかは、私がドイツにいたときに直接・間接的に、また研究書、ニュース、映画や小説などで充分伝えられています。

竹中平蔵さんは積極的にこれまでの日本企業の年功制の廃止、転職の活性化を訴えています。彼の頭にあるのは大成功したアメリカのシリコンバレーやウォール街のビジネスマンかもしれません。しかしそうした人はアメリカではごく一部です。また日本よりも解雇が容易なヨーロッパは長期的な不況にあえいでいます。

わたしは日本の不況(現在の株高ではなく大衆の生活水準からみて)の原因は、消費者の趣向の変化に供給側の企業の意識が追いつかず、大量生産時代と異なりどういうサーヴィスをすればよいのかがハッキリしていないためではないかと思います。

つまり変えるべきなのは商品の内容であって、人事体系ではないのではないかと推論しています。むしろ、商品の差別化が求められるほど、円滑なチーム運営と商品創造のノウハウの個性化が必要であり、それには働く人が自分の仕事の内容に打ち込める条件整備が不可欠で、それに応えられるのは成果主義ではないのではないかということです。

そういう感想を高橋さんのこの本から思いました。


涼風

参考:2005年3月27日付けエントリー 『会社はこれからどうなるのか』