joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

待つ 『子どもの知力を伸ばす300の知恵』 七田眞(著)

2005年02月02日 | Book
わたしの部屋のじゅうたんは、今年買ったばかりの白い毛のじゅうたんです。一応、「白」なのですが、見ようによっては銀がかっているようにも感じます。しょっちゅうしないのですが、そこに横になるとふわふわした毛の感触を楽しむこともできます。さらにじゅうたんの下には、おそらく暖房のために親が敷いたシートみたいなものが横たわっています。だから、じゅうたんに触れると「厚み」を感じます。午後4時ごろ、そのじゅうたんの感触を楽しみながら横になりうとうとしていると、そのまま寝入ってしまいました。起きたら5時半でした。


「こども」について知りたいなぁと思ったので、すこし前に小浜逸郎さんの『方法としての子ども』を読みました。とりあえず読んでいるあいだは著者のいいたいことはわかった感じがしたのですが、読み終わるとなんだかなにも残らない感じがしました。

要するに、子供、おそらく3歳くらいの「意識」が身につき始めた時期の子供がどういう心的現象を経験しながら、一つ上の段階の子供へと変身していくのかということを扱っていて、それはそれで興味深い議論でした(難点を言えば、不必要に「理論的」に語ろうとしていること。小浜さんは「自分は論理的に思考するのだ」という自負があるのかもしれないけど、内容自体はもっとわかりやすく書けるように思います)。ただ、いまじぶんが知りたいこととは違うように思いました。もっとも、僕自身が自分がなにを知りたいのか、自分でも分かっていないのだけど。

小浜さんの本については、「時」が来たらまた触れたいと思います。

そこで、ちょうど一年前にも読んだ七田眞さんの『子どもの知力を伸ばす300の知恵』をもう一度読んでみました。題名にあるように、どうすれば子供を「賢い子」「いい子」に育てられるかについて具体的なアドヴァイスがなされています(この本は、私が買った直後にPHPから文庫が出ました)。

読んでいて、なんとなく、「いい子」だけでなく、「いい人間」とはどういうものかと七田さんが考えているのかわかる気がします。

七田さんが言うには、「子育て」とは、子どもにわがままを抑える癖を身につけさせること。子ども(=人間)とは元来わがままなのだから、子育てとは、子どもにじぶんを抑制させるしつけをすることだということ。

「こころの育った状態とは「わがまま」を取り去った状態を言います。教育とは「わがまま」を取り去ることです。・・・心の育った状態とは、人に対して深い思いやりを持ち、自分の感情を抑えルールを守る力が育っている状態を言うのです」

「非行に走る子どもの特徴は、自分を抑えることができず、わがままである、ということです」

「・・・きちんとしつけなくてはいけないことは、(子どもが)泣いても我慢させる態度が、親に必要です。我慢するしつけの基準は、もしも親がそれを許せば「子どもの心が悪くなる」ものは許さない点におきます」

「三歳までに親に一度も強くしかられたことのない子どもは、自分を抑えることのできないわがままな子どもに育ちます。・・・三歳までに、親が本当に叱った時にこわいという印象をもっていると、それがブレーキになって、わがままをしなくなるのです」

「子育てには基本に限りないやさしさがあり、その上に厳しさがないといけません。やさしさだけではだめなのです」


わたしには子どもがないので想像ですが、一部の大人にとっては子供をしかるというのは難しいことだと思います。そもそも「叱る」ということはとても難しい行為です。

「叱る」は、おそらく「怒る」とは区別できます。

「怒る」について、心理学者のスペザーノさんは次のように言っています。


「「怒り」は、「コントロール」のひとつのかたちです。「コントロール」とは、ほかの人たちに、あなたの望みどおりのやり方で動いてもらおうとする、あなたのやり方であなたのニーズを満たしてもらおうとする試みです」

「「怒り」には、こんなメッセージが含まれています。「こんな風に感じるのはあの人のせいなのだから、私の感情も振る舞いも、絶対に正当化されるものである」と。これは未熟さのあらわれであり、私たちが持っている、耳を傾ける、学ぶ、受け取る、変わるといった能力を妨げます」

「「怒り」は、傷心、罪悪感、死んだような感じ、怖れ、欲求不満といった、深い感情を隠そうとする防衛的感情です」

「自分自身を責めている人だけが、ほかの人を非難し、攻撃します」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』より)


 わたしは以前、大学のゼミで、ゼミで先生が取り上げる教師のテーマが気に入らず、思い切り大きな声で「こんなの時間の無駄だよ!」と叫んだことがあります。

わたしにとっては、そんなテーマを取り上げること自体が「正しくない」と思い、またそのことを怒りをもって「告発」するのは「正当な」行為だと思っていました。

しかし、そのような「正しさ」の裏には、必ず「自分は不十分な、いけない存在だ」という観念が潜んでいます。自分が不十分であるために、その不十分さを「道徳的な正しさ、誠実さ」で埋め合わせようとします。その一環として、「道徳的に正しくない」他人を攻撃することで、自分の存在の正当化を図ります。

「怒り」とは、一見「正しい」ことを言いながら、その「正しさ」を利用して自分の存在を正当化しようとする試みです。自分の「正しさ」を証明するために、他人を自分のやり方にあわせようと必死でコントロールします。

そうして上手く「怒り」、上手く他人をやりこめた人は、いっときのあいだ自分の「正しさ」の余韻に浸ることができますが、すぐに罪悪感に襲われます。すると、その罪悪感から逃れるために、急に「親切で心優しい情愛」を見せたり、あるいは余計に傲慢に振舞って罪悪感を払いのけようとします。


子どもを「怒る」ことも同じことなのではないかとわたしは想像しています。

「しつけ」とは、「正しい」ことを教える試みです。しかし、元来わがままな子どもに「正しさ」を示すのは、かなりエネルギーがいることでしょう。

その「正しさ」を教えるさいに、多くの大人はどうしても、「じぶんの不十分さ」に直面しなくてはなりません。「何でも欲しがってはいけない」「人のものを取ってはいけない」「他の子をいじめてはいけない」。これらの「正しさ」を言うことは簡単なようですが(実際簡単ですが)、大人のほとんどすべては「何かを欲しがる」「他人のものを奪う」「他人を攻撃する」という性格を身につけています。

そうしたじぶんの性格を棚に上げて、「何でも欲しがってはいけない」「人のものを取ってはいけない」「他の子をいじめてはいけない」と子どもに教えなくてはなりません。しかしそのさい、その「正しい」ことを言うときに、それによってじぶんの不十分さを補おうとする、つまり「自分の正しさ」「じぶんの十分さ」を主張しようとすることにどうしても陥ってしまうのではないかと思います。こころの仕組みの必然として、「しつけ」と「自分の正しさの証明」をごっちゃにする感情に否が応でも大人は巻き込まれてしまうのです。

その「自分の正しさ」を主張して、子どもを自分に合わせようとするためには、当然「怒って」、「コントロール」しなければなりません。

たしかに言っていることは正しいのですが、それは子どものために言っているのを通り越して、子どもを攻撃することで「自分がどれだけ正しいか」を証明したいという感情に大人は巻き込まれるのです。つまり、「正しいしつけ」を隠れ蓑にした感情的攻撃です。

もちろん親のほとんどは、「じぶんは子どものためを想って叱っている」と言うでしょう。しかし、よほど成熟した人でないかぎりは、「正しい」ことを、「怒り」「コントロール」を混じえずに言うことは困難だと思います(そんな人をわたしは見たことがありません)。それぐらいわたしたちにとって、「正しい」ことはじぶんの不十分さを感じさせるし、またその不十分さの感覚から逃れるために、「正しい」ことを強く声高に言おうとします。


そのように「正しい」ことを言う際の罪悪感から逃れたいために、放任主義を取る親もいるでしょう。「しつけ」を勝手な大人の怒り、無意味な厳しさととらえてしまった人は、「子どもは自由が一番」と思い、自由にすることでそのうちいい子に育つと思ってしまうのです。

「ゆとり教育」というものの性格は、そういうものなのでしょう。しつけ、規律ということを、「子どものコントロール」という側面だけでとらえてしまうのです。つまり、しつけを「怒り」「コントロールと同一視してしまったのです。そのさい避けられるべきだったのは、大人による子どもへの「怒り」「コントロール」だったのに、一部の教育者たちが間違えて、しつけそのものを放棄してしまったのです。


七田さんが提唱しているのは、おそらく、「しつけ」から「怒り」を取り除くことです。この本の中で彼は、「子どものわがままを放ってはいけない」と何度も何度も繰り返しながら、同時に「きつく叱ってはいけない」とも繰り返します。この場合に意味しているのは、「叱ることがいけない」のではなく、「感情に任せて攻撃する」つまり「怒る」ことはダメですよ、という意味だと思います。「怒ってはいけません」「子どもをコントロールしてはいけません」と何度も七田さんは言いたいのだと思います。七田さんは次のように述べています。


「ママが厳しく、パパが少し甘いのは子どもにとって支えになります。二人とも厳しすぎると救いがありません」

「二歳前後になったら、いけないことは泣いて反抗しても、いけないと教えなくてはいけません。・・・初めはきつく叱り(三十秒)その後急に変わってやさしくなり抱きしめて、叱ったわけを言ってあげる、このやり方を覚えてください」

「してはいけないことは前もって言ってやり、子どもがそれをしたは口で叱らず、表情や態度でいけないことを教えるようにしてください。怒った表情ではなく、悲しい表情でしてくださることです」

「子どもを叩いて育てるのは、全く逆効果で、子育てを難しくするばかりです。押入れに入れる等の体罰も避けてください」

「子どもの態度を改めるには、お風呂に入ったときに、話してあげるのがよろしいです。 どのような態度が人に嫌われるのか、だからどういうふうに人に接してはいけないのかなど、その場でなく、普段話しておいてくださることが大切です」


子供を育てるときに、厳しく育てるのがよいか、それとも自由に育てるのがよいか、という議論の立て方があります。しかし、それは「厳しく」とか「自由」とかいう言葉に惑わされて、子育てにとって大事なことを見落としてしまっていのでしょう。「厳しく」というと“スパルタ”みたいなものを連想してしまうし、「自由」というと“放任”を思い浮かべます。でも、どちらも間違いなのでしょう。

“スパルタ”はたんに大人が自分の感情を垂れ流しているだけだし、“放任”も「正しい」ことを言いたくないという大人のわがままです。

それに対して七田さんが言いたいのは、子どもを育てる際の、親自身が自分の感情を抑制することを学ぶ必要性です。

上記のように「わがままをゆるしてはいけない」と言いながら、「きつく叱ってもいけない」と七田さんは言いますが、それは同時に親自身に忍耐を強いる作業です。こどものわがままを許さないようつねに「監視」しながらも、わがままを見つけても親に自動反応的にきつく叱らないよう警告していますが、それは大人にはストレスのたまる作業でしょう。「怒り」というストレス発散が許されないのですから。


「子どもすることはすべて実験、あるいは学習なので、叱ることはいけないのです。・・・
叱ることは全くありません。親は腹を立てて叱りますが、言って聞かせてもわかりませんから、これは叱るほうが無理というものです。腹を立てずに、して欲しくないことをする時は抱いてその場から連れ出してくださればよいのです。
腹を立て、叱って育てると、言うことをきかない子になり、とても難しい子育てをするようになるので、叱らず、ほめて育てる子育てを実践してください」

「わがままが出て、ひっくり返った場合、あつかい方を間違うと大変です。あとの子育てをとても難しくしてしまいます。
 そのような場合、わがままを通してはいけないのです。無視して泣かし続けるか、気を別のものにそらせるかして、わがままを我慢させなくてはいけません。無視して泣き止んだら、優しく抱いて、「よくがまんしたね」とほめてあげることが大切です。・・・
 反対に子どもの気持ちを大事にするという口実でわがままを許すと、子どもはいつでもひっくり返ってわがままを通すことになるでしょう」


子どものわがままを、怒らずに、しかもそれをゆるさないこと。それは同時に、親自身が、「わがまま」という過ちに感情的にならずに、冷静に対処することでもあります。「他のこどもをいじめる」「何でも欲しがる」などの子どもの行為に冷静に対処するということは、「他人を攻撃する」「今以上に欲しがる」というすべての大人がもっている自身のニーズにも冷静に対処するということです。

つまり、子どもに忍耐を教えるのは、親自身が忍耐を学ぶことなんですね。子どものわがままに感情的にならないという抑制を学ばなければ、子どもに抑制をしつけることはできないということです。みなさん大変ですねぇ(笑)。


“スパルタ”でも“放任”でもない「第三の道」(笑)を七田さんは主張しているわけですが、これは心の教育だけでなく、知的教育(=勉強)にも七田さんは貫こうとしています。これはもう「右脳教育」として有名ですね。ただ、「右脳教育」の本質はまだまだわたしには分かりません。分かりませんが、右脳教育教室で体験授業させてもらっときの印象だと、言葉・数字を映像(イメージ)で処理する能力を養うことのように感じました。

言葉・数字をただ文字として理解しようとすると、頭の中では貧相で退屈な「文字」だけが並んで、感情が乗ってこず、頭の回転も鈍るような気がします。典型的なのが英語の文法学習ですね。

右脳学習はそうではなく、幼児・子どものころに言葉・数字を映像として理解する発想を身につけさせることで、頭の中で豊かで多様な思考パターン築かせるのが狙いのように思いました(あくまで素人の感想です)。

ともかく、こうした知的教育も、子どものころから積極的にさせるべきだと七田さんは言います。そしてそのやり方も、“スパルタ”でもなく“放任”でもないやり方です。

「子どもの取り組みは、子どもが楽しむことを一番大切なこととして、押しつけをしないことを決まりにしてください。
ノルマをつくって、いやでも、どうでもさせるというやり方は押しつけになり、お勉強を楽しくないものにし、ママと子どもの関係をおかしなものに変えてしまいます」

このように、無理やりコントロールして勉強させてはいけないといいながら、同時に七田さんは、子どもには積極的に学びの材料を与えてやるべき、といいます。七田さんによれば、「子どもはつねに楽しさを求め、学ぼうとしているものなので、その性質を上手に利用してくださればいい」とのことです。


「子どもは学ぶのがとても速いものです。教える親、あるいは教師の側がそれを知らず、同じ絵本やカードをいつまでも見せ続けていると、「もういい、飽きた」とサインを出します。今まで喜んでいたのに見なくなります。
子どもがもう頭に入れてしまったのに、そのサインも気づかず、おなじものを延々と与え続けていると、子どもは学ぶことをすっかり嫌いになります。
親がそれに気づいて、絵本を新しくどんどん変えてやり、カードをどんどん新しい変化のあるものにしたり、見せ方を変えてやると、再び目を輝かせて学ぶようになります」

「子どもの反応を見ながら、すべて子供を楽しませるというねらいで進めてください。くれぐれも子どもが嫌がっているのに押しつけにならないようにしてください」


この本を読むと、七田さんは、こころのしつけ、つまり子どもに自分の感情をうまく抑制させることはとても難しいと考えている印象があります。それぐらい、人間は元来わがままで自己中心的な生き物だととらえているようです。

それに対して“学ぶ”ということについては、上で引用したように、七田さんはかなり楽観的にとらえているようです。やり方さえ間違わなければ、子どもは元来学ぶことが大好きなんですよ、と言いたいのだと思います。

ただそこでも大切なのは、〈こうあるべき〉という理想像を親が描き、それに子どもを合わせようとしてはいけないということ。そうしないように親自身が自分を抑制することを学ぶことの大切さです。

元来学ぶことの楽しさを子供(人間)はもっているのだから、子供が楽しんでいるかどうかを基準にして、積極的に学ばせてあげればいい、そう七田さんは考えています。

つまり、学ばせるという介入を親は積極的にすべきでありながら、同時に子どもが何に楽しんでいるかというその方向性については、子ども自身が本来持っている〈傾向性〉〈趣味性〉〈ギフト〉に任せることを親は学びなさい、そう七田さんは言いたいのだと思います。

ここでも、こころのしつけと同じように、積極的に養育に関与すべきと提言しながら、同時に子どもを自分の理想像に無理やり合わせるような感情的な行動を慎むよう親に警告を発していると言えます。七田さんは次のように言います。


「子どもを賢くしようとして教えすぎると、逆に自分で考えることのできないだめな子にしてしまいます。
なんでも自分でやらせ、自分で考えさせるように徐々に変えていかれるのがよろしいです。初めはひたすらインプットしてやればよいのですが、ある程度進んだら一方的に教え込むのではなくて、自分でさせる方針にして、親のほうは口に出さず、できるだけ聞く方にまわってください」

「一日の知的取り組みは、30分から1時間もあれば十分なので、あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけないと、親が自分にプレッシャーを感じるのはやめてください。
子育てはおおらかにのんびり育ててくださるのが一番上手く行く方法なのです。あれこれやりすぎて、親も子もストレスを感じすぎてはいけません」

「手のかけすぎ、時間のかけすぎ、言葉のかけすぎは過保護になります。子どもの時間をすべてうばい、子供自身の活動をうばってはいけません」

「おけいこ教材などやりすぎないようにし、むしろ外遊びを奨励してください。」


常識的にみれば、七田さんの言葉は矛盾にあふれています。厳しくしつけるように言いながら、厳しく叱ってはいけないという。また、子どもにはどんどん新しい教材を与えてやるべきと言いながら、子どもが楽しんでいるかどうかを基準にして学習を進めるべきと言う。ただ、こうした矛盾も、本全体を読めば矛盾でもなんでもないことが、七田さんの文章からはジワっと漂ってくるようです。

ようするに、簡単に言えば、子ども(人)に関わることは、コントロールではないし、放任でもないということ。コントロールも放任も、自分の罪悪感(「自分は不十分でいけない存在だ」という想い)を隠すための(子ども、他人を利用した)感情的行動です。

コントロールは、自分の罪悪感を隠すために、「正しい」ことを子ども(人)に押し付けます。
放任は、自分の罪悪感に萎縮してしまい、子ども(人)に対して「わたしには正しいことをあなたに言ってあげられる資格はありません」と土下座しています。

それに対して七田さんの提唱する教育は、大人が自分に対して罪悪感をもたずに、それによって正しい動機で正しいことをちゃんと子ども(人)に言ってあげ、またしてあげることだと言えます。

そのように大人が自分に対して罪悪感をもっていないときに、わがままを言う子どもに冷静に対処し、子ども自身がそのわがままな態度を乗り越えるのを〈待つ〉だけの忍耐を示すことができます。

また知的教育においても、「こういう学習をすべき」「これだけの点を取るべき」という理想像を押し付けずに、子どもが学習を〈楽しむ〉ことを信頼してそばで見守ってやることができます。

子どもを乳幼児・幼児の段階から学習させるというと、まるで「お受験」だけを想像して、「悪しきエリート教育」のようにも思えます。しかし、子どもが〈楽しむ〉ことを信頼するという点を見れば、七田さんが考えている教育は、これまでの学歴偏重主義とは違うのではないかと思います。また、もちろん「ゆとり教育」とも違います。

七田さんが考えている知的教育は子どもを積極的に観察し、彼が〈本当に〉望んでいることがはっきりするのを忍耐強く待つ教育なのかもしれません。彼は次のように述べています。


「勉強が嫌いというのは困ります。子どもは好きな教材を与えてやると喜んで取り組みます。嫌いなものを押し付けず、好きなことをさせてあげるとよく伸びます」

「習い事は時間と経済の許す限りしてあげればよろしいです。ただ何でもするけれど、すべてが平均的で、得意なものは何もないでは困ります。
うちの子供は将来役立つものは、これだと親が考えたものに重点を置くようにしてください」

「勉強にしばらず、外でよその子と遊ぶ時間もとるようにすると、皆とも遊べ、落ち着きも出て、創造性も高まります。あれもこれも欲張っては、あぶはちとらずになります」

「叱らず楽しく進めてくだされば問題ありません。優れた才能を育てるには、ハードなトレーニングは必要なものです。遊ばせて育てては何も育ちません。
子どもを頑張らせてくださることは、大切なことですし、よいことです。自身を持って子どもの才能を育ててあげてください」


総合学習見直し 「ゆとり」弊害、他教科圧迫 学力低下加速、現場努力も限界に (産経新聞) - goo ニュース

「学力低下」ということが近年叫ばれ続けていますが、その反動で単に一生懸命勉強させる、受験科目を多くする、というのでは、昔に返るだけのように思います。もちろん既成の学校教育で「個性を伸ばす」なんてことを言う余裕はないと思いますし、またそこでま公立学校に求めるのは酷だとわたしも思います。

ただ、“スパルタ”か“放任”かという二者選択とは違う教育のあり方をわたしたちは考えるべきだし、七田さんはその仕方を、乳幼児・幼児の教育という点から考えたパイオニアなのではないかという印象をもちました。


涼風




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