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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『マスター・アンド・コマンダー』

2005年02月20日 | 映画・ドラマ
何かを「証明」しようとしているときは、たいてい上手く行かないし、疲れるばかりです。おそらく、わたし(たち)の行動の大部分の動機が、この「証明」を目指しています。「有能な人間」であることを他人に認めてもらおうとしています。

もし「有能な人間」であることが認められなければどうなるでしょう?そう、「馬鹿」になりますね。「馬鹿」であると他人に思われることは、多くの人にとって恐怖です。

『マスター・アンド・コマンダー』という2003年のアメリカ映画があります。19世紀初め、英仏戦争時にフランスの太平洋進出を食い止めるべく、南半球でのイギリスの戦艦とフランスの新型戦艦との激突を描いた映画です。

映画自体は、イギリスとフランスの船同士が広い海を舞台に互いの意表を付き合う心理戦や砲撃戦を組み合わせたスリリングな戦闘シーンがメインですが、決してそれだけではありません。

艦長の友人である医師がその純粋な学問的興味からガラパゴス諸島に寄せる子どものような好奇心。またその医師と艦長の友情と葛藤。例えば、任務を優先させる艦長に対し、ガラパゴスへの上陸を禁止され博物学上の歴史的発見を目の前にして断念せざるえない医師の悔しさ。国家軍隊の伝統に誇りを持つ艦長に対し、進歩的で民主主義的な医師が加える皮肉の数々。それでも最後にはゆるしあうお互いの関係。

また徴兵によって船に乗せられた平民と、子供でも士官候補生である者たちとの身分上の序列。

そういった色々な事情を手際よく鮮やかにこの映画は扱っていきます。

その中でわたしにとって一番興味深かったのは、ひとりの士官候補生と平民たいとの軋轢でした。

その候補生は心優しいひ弱な青年で、どうみても軍人には向いていません。にもかかわらず厳しい航海の中で平民たちを指導しなければならないのですが、元々荒くれ者たちが徴集されている平民たちは、そのひ弱で頼りない候補生を軽蔑します。そして、ある決定的な事件がきっかけで、その候補生は船の中で村八分のような状態になり、心理的に追い詰められていきます。

たとえ身分が上でも、船の中で多数を占める平民に嫌われることは、軍人として必要な統率力の欠如を意味します。また元々気の弱い彼には、自分に反抗してくる荒くれ者たちを怒鳴りつける勇気はありません。

そうした状況で、この青年は極限まで心理的な苦しみを負うことになります。

この青年は「馬鹿」です。軍人としての道を歩みながら、それに見合う能力を示すこともできず、平民や他の士官候補生、あげくの果てには艦長にまで諦められます。

映画の中では、この青年は本当にのろまでグズな者として描かれます。

しかし、その青年が一瞬だけ輝きを見せる場面があります。平民たちが酒を飲み荒っぽく歌を歌う中で、それを横で見て感動した青年は思わず一緒に口ずさみます。しかしその出自が高貴だからか、彼の声はあまりにもノーブルな「美声」で、まわりの雰囲気にそぐいません。平民たちも調子が狂い、青年に白い目を向けます。

これはその青年が荒くれ者が集う軍隊では適応不可能な「馬鹿」であることを示すと同時に、彼の素晴らしさを伝える場面です。

監督のピーター・ウィアーはこの映画で、軍人の示す勇敢さと同時に、対比的に知性や芸術が人間にとって持つ大切な意味を(それとなく)表現していきます。
この対立軸は主には艦長と医師とのあいだの葛藤を通して描かれますが、この青年の例は、組織の中での有能さと、個人としての素晴らしさが調和を見せなかった場合の悲劇を表していました。

すばらしい才能をもつ人間もある場面では「馬鹿」でのろまで邪魔者でのろわれた存在でしかないという事実を、否応なく描いています。


わたし(たち)は馬鹿であることを怖れます。それは世の中の秩序が提示する価値観にただそぐわないだけだということを理解するのは、簡単ではないようです。


涼風