joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

悪と憎しみについて

2004年08月20日 | reflexion
相手がどれほど邪悪な存在であっても、それを恨めばうらむほど、自分じしんが邪悪になっていきます。

相手が邪悪であるという認識じたいは変える必要がないはずです。嫌いな人は嫌いなままでいていいでしょう。

ただ、相手の中に悪を見出すことと、相手を憎むことはまた別の問題です。相手が悪であることは相手の責任ですが、相手を憎み、うらむむことは自分じしんの責任です。

『平気でうそをつく人たち』 スコット・ペック(著)

2004年08月18日 | Book
いま、『平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学』という本を読んでいます。

まだ途中までなのですが、この「うそ」というのは、一市民として礼儀正しくふるまいながら、巧妙に他人をコントロールして自分を思い通りにしようとする人たちのことです。

これは特別な人をさしているわけではなく、どこにでもいる人たちの中に潜む邪悪な心性を描いています。すなわち、一見倫理的に正しく振舞いながら、巧妙な形ですべての責任を他人に押し付け、それによって他人の人生を思い通りにしようとするのです。

読んでいて身につまされました。ここに潜む邪悪さは、まさに誰もが体験していることではないでしょうか。

戦争など目に見える蛮行を悪とみなすのは、間違ってはいなくとも、簡単なことです。

しかし、社会の規範にそって規則正しく生きる人たちの倫理的怠惰、すなわち自分の責任を直視せずに、責任を他人に押し付けることで他人を操る人たちの「悪」は、よほど注意しなければ、こちらがからめとられてしまいます。

著者は言います、他人を支配する人と同様に、他人に支配される人も、その怠惰な態度によって「うそ」に加担しているのだ、と。他人に支配されることで、自分で主体的に生きる責任を意図的に放棄しているのです。

自分の中に潜むもう一人の自分を見つめなおすのに、最適な本のようです。

平和について

2004年08月17日 | reflexion
平和とは、支配を手放すことであるようにおもいます。他人を、物事を支配し、コントロールすることを手放すこと。

これはむずかしい。支配を手放すと、わたしは、盾をうしなうことになる。他人を支配していれば、つよい人間でいられるのに、支配を手放すと、また幼子のような存在にもどらなければならない。

この幼子のような存在は、ただの幼児とはちがいます。幼児は、親に支配されることをのぞみます。親に支配されながら、同時に親を利用することで依存していられるように状況を整えようとします。

それに対して、支配を手放すと、わたしたちは本当に本当にひとりの存在になります。誰にもよりかからない、小さい子供になります。

この小さい子供になる勇気をもてるかどうかが、平和になれるかどうかを決めます。

わたしも、わたしのきらいないあの人も、小さな子供になる手前で怖じ気づきます。だったら、平和という海を前にした飛び込み台の手前でこわがっている人たちをゆるせるチャンスもあるのではないでしょうか。

作家の死 『テクストから遠く離れて』 加藤典洋(著)

2004年08月16日 | Book
加藤典洋著『テクストから遠く離れて』を読みました。

この本では、作者の意図とテクストの解釈を切り離すいわゆる「テクスト論」を批判し、テクストを解釈する上では作者を想定せざるをえないこと、しかしその作者とは現実の作者というよりも、わたしたちが文学テクストを読む中で読者の側で不可避的に想定している作者であることなどが詳しく論じられています。

よんでいて「そうそうそうなんだよ」と思わず心の中で言いたくなりました。いわゆる「テクスト論」ではテクストの解釈の多義性ということが言われて、作者とテクストが別物であると論じられていました。少なくとも、そういうイメージがテクスト論については流布していました。

それに対して加藤さんの議論は、テクストの意味は読者それぞれによって解釈されることと、テクストを解釈する上で作者の意図を論じることは決して矛盾しないことを、くわしく論じています。

テクスト論が打ち出した「作家の死」という概念はそれ自体は正しくても、にもかかわらず読者は作者の意図を考えながら小説を読んでいるという事実を説明することができませんでした。

それに対して加藤さんは、読者は一度生身の作者を消して自分の解釈で小説を読みながら、また自分の側でもう一度作者を創出している事態を上手く説明しています。

ここで論じられている「テクスト論」の説明に異議を出している人が多いようです。そのあたりの議論は専門家に任せましょう。ただ、加藤さんの「テクスト論」の理解が正しいか否かにかかわらず、加藤さん自身のテクスト論はとても説得力のあるもののように感じました。

ただ、加藤さんが批判する「テクスト論」が正しく理解されていないのなら、「テクスト論」を正しく理解することで、加藤さんの議論がどう乗り越えられるのかを知りたい気もします。そこでは、文学を読むということがどういうことかについて、より発展した議論が展開されていることでしょう。

もう一つ興味深かったのは、加藤さんが文学のテクストと数学のテクストとは異なると述べていること。文学のテクストは作者がおかれている文脈・意味状況に左右されるが、数学はそうではないと論じていたと思います。

もしそうだとすると、社会科学のテクストはどうなるのだろうか?社会科学のテクストは、論理的であると同時に、時代の状況に激しく意味が規定されるそういうテクストです。もっとも、これは社会科学者自身が取り組むべきテーマなのでしょう。

ふと思う

2004年08月16日 | 日記
今日、図書館に本を返しに行ったら、月曜日なので閉館でした。ぐたっときたけど、図書館は少し大きな公園の中にあるので、天気がいい中で大きな木々をながめられたことはよかったです。

帰りがけに本屋によると、浅見帆帆子さんの『毎日ふと思う 3』が出ていました。浅見帆帆子さんのことは、『あなたは絶対運がいい』などで有名なので、知っている人も多いと思います。僕は去年に初めて読んだときに、すごく文章からオーラが伝わってくるような迫力があって、すごいなぁと思ったことをよくおぼえています。

ぱらぱらとめくってみたけれど、あいかわらず楽しそうに生きていそうだ。こんなまぶしい人生が世の中にはあるのだ、と少し不思議な気分になりました。

本の中で彼女がじぶんのエニアグラムのタイプを4・7・9の要素があると言っていたけれど、どうだろう?4がもっているような独善さを僕は彼女からはあまり感じないし、4ほど他人に甘えるような人にもみえない。美的センスに優れていて、感覚的なものを重視するという点で4と言えなくもないけれど、4にしてはもっと彼女自身はあっさりした性格の人のような気がします。

かといって7でも9でもない気もします。僕の予想では、彼女は5じゃないのかなぁ。なぜ、といわれると難しいのだけど、写真の印象からそんな気がします。でも、もし4だとしたら、すごく健全な4の人なのだろうな。

図書館から帰ってパソコンを開くと、神田昌典さんの会社のメルマガがきていました。そこには、神田さんと本田健さん、そして浅見さんの3人の対談を収めたテープが発売されるとのこと。なるほど、こういうふうに人はつながっているのか。神田さんも本田さんも、コンサルタントでベストセラー作家です。お二人の本はどちらもとてもおもしろいです。


もし、わかるとしたら…

2004年08月16日 | reflexion
嫌いな人がいて、その人への恨みで悩んでしまうとき、「もし分かるとしたら、あの人の真実の姿はどういうものだろう?」とたずねてみます。

わたしにとって嫌いな人は、悪意があり、残忍で、他人を虫けらのようにあつかう悪魔です。もちろん、それはほんとうに相手の人の一部かもしれません。だって、わたしにもそういう部分があるのですから、嫌いなあの人にそういう部分があっておかしくないでしょう。

では、もう一度じぶんに聞いてみます。他人に悪意を持っているじぶんをわたしは好きでしょうか?悪意をもっているときのわたしはしあわせでしょうか?そして、残忍な部分をもっているわたしには、そうじゃないところがないでしょうか?

もしわたしが、本当は悪意ではなく、平和に満たされていたいなら、嫌いなあの人もそうでしょう。

もちろん、悪意をもつことは楽しい。人をいじめるのは楽しいですね。悪口も、ケンカも、楽しいですね。

しかし、もしそうした楽しさの誘惑を手放し、平和でみたされることができるのなら、誰でもそうしたいのではないでしょうか。

誰にとっても、平和への道は険しく、他人を攻撃することはいつも簡単です。しかし、わたしが平和を望んでいるのなら、嫌いなあの人も(じつは)平和を望んでいるでしょう。

もし、わかるとしたら、嫌いなあの人は、平和を望んでいます。


『デモクラシーと世界秩序』 デヴィッド・ヘルド(著)

2004年08月16日 | Book
『デモクラシーと世界秩序』という本を読みました。著者デヴィッド・ヘルドはイギリスの政治学者で、この本では国境を越える現象(金融・企業の経済活動・環境問題)が主流となる現代社会の中で、民主主義はどのようであるべきかが問われています。

民主主義といわれても、選挙のたびに近くの学校の投票所に行くだけの私たちにとっては、たいしてアクチュアルな問題には思えません。ただここで言われている民主主義とは、たんなる投票制度だけではなく、むしろ民主的な社会関係とは何か、それはグローバル化する問題にどう対処すべきかが問われています。

さらっと読んだだけなので、ヘルドの独自性はまだ分かりません。ただ、彼にとっては、これまでの民主主義が一国内での上からの権利付与という性格を持っていたのに対し、金融や環境などの社会問題が一国では手に負えなくなる状況の中では、より民主的な統制のシステムが必要になることを訴えています。

この場合の「民主」とはかならずしも“デーモスによる支配”“多数派による支配”ということを意味せず、むしろ社会構成員間の対等な関係、相互に自律した諸個人からなる関係による議論ということをイメージしているようです。

したがって、相互的な自律の関係を目指すという点から言えば、社会的に弱者に置かれている人の自律を支援することは、民主制度を確立する上では必須のことであるとも述べられています。

この本はおそよ知的な興奮を一般読者に与えるという本ではありません。具体的な問題を詳細に取り上げることはほとんどなされておらず、むしろ、これまでの欧米での民主主義の確立過程とそれをふまえての民主主義の性格の検証、それら欧米諸国の民主主義がいかに現在のグローバル化の中でかつての機能を失っているか、それをほかんするためにはどのような民主主義が構築されるべきかという問題が、比較的抽象的に述べられています。

ただ、とりたててセンセーショナルなことを述べていなくても、一つの社会問題が一つの国内では収まらず必然的に国境を越えていく現代の状況の中で、それをコントロールするための統治制度はいかに作られていくべきかという現代政治の基本的問題を分かりやすくイメージするのに最適な書物ではないか、という印象をとりあえずもちました。もっとも、この印象は読み直していく中で、いい方向に変化するかもしれませんが。

政治学の本なので、やはりなにか無味乾燥な、社会の実態に触れない形式的な議論のように感じる部分もあります。社会について論じているのだから、社会に生きる人たちの実感をとらえるものを書いて欲しいという感じもします。ただ、著者の立場はきわめて良識的で、右派でもなく左派でもなく、あくまで社会に生きる人たちの利害を逃さない制度とは何かということを真摯に追求しています。

疑いえない

2004年08月15日 | reflexion
こころについてこんなことを考えています。

多くの人は、自分がこれまでしてきたこと、してこなかったことを後悔します。それは自分の人生上の決断にかかわることであったり、他人に対してしてしまったイヤなことだったりします。

他人を傷めつけてしまったり、あるいはまわりの期待に応えられずにしっぱいしてしまったり、そんなことで悩みます。

そんな悩みの底には罪悪感があります。自分は悪い存在だ、親の期待にも応えられず、他人に迷惑ばかりかけている、と。

しかし、そんな自分の「罪」が全部許されているとしたらどうなるでしょうか?あるいは、最初から「悪いこと」などこの世には存在せず、自分は無実であり、自由でもあるとしたらどうなるでしょうか?

わたしは特定の宗教を信仰していませんが、もし自分が最初から全面的に許されている存在だと考えるとき、なにか自分を越えた大きな存在を感じます。自分には罪がなく、許されているというのは、なにか大きなものが自分を包んでいると、そういう感覚をもたざるをえないのです。

神がいるのかいないのか、そういうことを議論したいのではありません。考えることはいかようにもできます。

ただ、許されているのだとおもうとき、私自身を許す何か大きなものがいるように感じるのです。

こころは不思議です。こころは中立であることはできないようです。自分を攻撃するか、あるいは何か大きなものに抱かれていると感じるか、どちらかしかないように感じるのです。

心理学・心理療法は科学であると同時に、やはり非科学的なものを含まざるをえないのかもしれません。それは欠点ではなく、むしろ長所なのでしょう。

いいところも結構あった

2004年08月13日 | スポーツ
日本代表、パラグアイに敗れてしまいました。ただ、それほどがっかりしないのは、内容に素晴らしい点が見られ、もう少しで追い着くところまでみられたからでしょう。

パラグアイがリードして後ろにひいたこともありますが、後半では日本は中盤でボールを持ちいいチャンスをたくさんつくっていました。ただ、何度も何度もチャンスをつくってゴールを決める日本と、わずかなチャンスを確実に決めていくパラグアイ、その差が出ました。そして、その差は日本と世界トップクラスとの間にいまだ横たわっている差なのかもしれません。

ちょっとしたミス、わずかなチャンスを確実に見逃さないパラグアイを、長谷川健太さんは「したたか」と表現しました。そう、サッカーというスポーツに臨む際に、そうやって「したたか」になれるかどうかは、歴史の違いなのかもしれません。

サッカーとはボールを上手く操るだけではなく、偶然が支配する状況の中でわずかなスキを逃さない、そうしたメンタリティが必要なのでしょう。そうしたメンタリティを養うには、まさに生か死かという状況を何度も潜り抜けなければならないのかもしれません。

日本はまだまだ、サッカーをスポーツとして、一定のルールにのっとって行う「ゲーム」としてみているのかもしれません。

まあ、そうした歴史の違いだけではなく、昨日のパラグアイはとても強かったと思います。スピードもあり、決定力もある、いいチームでした。

さて、つぎはイタリアです。

新鮮な動き

2004年08月12日 | スポーツ
女子サッカーがスウェーデン戦に勝利しました。

わたしは女子サッカーにまったく疎かったので、そのスピードにびっくりしました。おかしいですね。女性のアスリートたちの存在は前から知っているのに、女性のサッカーというだけでとてもレヴェルが低いと勝手に予想していたのです。もうこういう人は少数派なのでしょう。

そのレヴェルの高さと同時に興味深かったのは、行われているサッカーがとてもクリーンなことです。これは、スウェーデンにも言えることです。予選の北朝鮮戦でも感じたことのなので、女子サッカー全体の特徴なのでしょう。

クリーンというのは、つまり両チームとも純粋にスポーツとして、ルール(秩序)にのっとってサッカーが行われているのです。そこでは、男子サッカーでは当たり前の光景、すなわちヒジ打ち、足の裏を見せてのスライディング、どさくさ紛れに足で踏みつける、ファールされたように見せかけて審判をだます、不必要に攻撃的なタックル、つば吐き、審判への抗議・暴言などなどが全然みられませんでした。

だからでしょうか、見ていてとても気持ちがいいのです。おそらくレヴェル的には男子とは比較しようがないと思うのですが、それにもかかわらず見てしまったのは、そうしたクリーンさに惹かれたのかもしれません。

これは、原因は何なのでしょうか。女子サッカーの歴史が浅く、また本格的にプロ化もされていないからでしょうか。

わたし自身は、やはり女性が男性に比べて攻撃的な性格をもっていないからかな、と思いました。もちろん、女性にも攻撃的な部分はあります。しかし、それを肉体的な暴力にうったえるという習慣は、多くの女性にはなじみのないものでしょう。

もちろん、日本の学校の部活のように、女子の中でも陰湿ないじめはあると思います。ただ、それでも、男子と比べれば直接的な攻撃に訴える習慣は女性たちには比較的少なく、そのことが実際のプレーにおけるクリーンさにつながっているのかもしれない、そう思いました。

そう考えると、ファールもされていないのに痛がったりふりをしたり、時間稼ぎのためにいつまでも倒れこんだり、おとこの方がけっこう姑息で卑怯なのかな。

じぶんを取り戻す

2004年08月12日 | 見たこと感じたこと
夕方というのは、ふしぎな時間です。あの時間帯だけは、世界がまったくべつのものになったような感じがするのです。

昼間、世界は、それぞれの色を出しています。道路も、ビルも、緑の木も、それぞれがもっている色を出しています。だから、すべてのものがばらばらに存在しています。

夜は、まわりが暗くなり、しかしライトに照らされたものは、過剰な光とともにやはりその固有の色を発します。

でも夕方は、すべてが夕方になります。空も、人も、電車も、すべてが夕方になります。あの時間帯だけは、わたしたちは、過去の記憶からも、未来への不安からも解放されて、今このときに生きているようになります。

夕方はすべてがうけいれられているようです。夕方の時間では、すべてがうつくしく、すべてが肯定されるべきもののようです。

夕方のとき、わたしたちは魔法の時間にいるようです。

a day of my life

2004年08月10日 | Music
このブログの題名である“a day of my life”は、原田知世さんのアルバムのタイトルからとりました。

もうこのアルバムが出てから5年もたつなんて、という感じです。けっきょく、じぶんはこのアルバムの曲のように生きていきたいのだ、なんてことをおもいます。そう言いたくなるような、シンプルで落ち着いた楽曲が並んでいます。

ギター・ドラム・ベース・シンセ、そして彼女の声だけなんですよね。一曲目の最初のギターの音で、なんだかやさしいきもちになってしまう感じなのです。

自然との対話

2004年08月09日 | 見たこと感じたこと
「だって、この世には太陽も月も星もあり、空気もあり、緑の木々もあり、花もあり、鳥は歌い、蝶は舞い、ありとあらゆる食物もあり、本当にすごいところなのですから。」
『なまけ者のさとり方』ダデウス・ゴラス著、山川 紘矢・ 亜希子訳の訳者あとがきより)


わたしが自然の存在に敏感になりはじめたのは、5年ほど前からです。当時、東京の郊外に住んでいたわたしはいろいろな悩みを抱えていたのですが、本を読んだことなどがきっかけで、救われたような気持ちになりました。

その心地いいきもちのまま並木道を歩いていると、ちょうど紅葉のころだった大量の葉っぱの一つ一つが色鮮やかにくっきりと目に映ったのです。

それは、あきらかにそれ以前とは異なる自然体験でした。自然のここちよさということに関しては、むしろわたしはずっと鈍感でした。しかし、そのときには、木々の葉っぱの一枚一枚が自分の目の前に迫ってくるような、そんな感覚がしたのです。

それからは、その並木道を歩くことがわたしの貴重な娯楽になりました。さすがにそれほどの体験をしたのは、そのときぐらいです。しかし、それ以降、自然はたしかになんらかの“エネルギー”を発していて、それは自然たちのまさに生命力なのではないかと思うようになりました。

今でも、木々や海の鮮やかさに目を奪われるときがよくあります。そのとき、それら自然現象をたんなる自然科学的事実だとかたづける理性的思考があたまをよぎることもあります。しかし同時に、それらが自然科学的作用にすぎないとしても、それを受け取るじぶんじしんの感覚を疑うことはできないし、むしろその感覚に感謝していきたいと、そう思うのです。

『自然との対話』 イレーネ ファン・リッペ=ビースターフェルト(著)

2004年08月08日 | Book
『自然との対話』という本を読みました。図書館で借りてきて、一度通して読み、二度目を読み終わったところです。一度目よりも二度目のほうがはるかに著者のリズムに乗っていくことができたように思います。

この本を読もうと思ったきっかけは、訳者の矢鋪紀子さんが他で訳していた『あなたも作家になろう』という本を読んで、その味わいのある日本語の素晴らしさに接し、ぜひこの人のべつの本も読んでみたいと思ったからです。

『自然との対話』は、子供の頃から自然に親しんできた著者が、人生の困難に直面していく中で失っていた自然とのコミュニケーションをもう一度回復し、それによって自分自身や人間のあり方、ひいてはこの宇宙のあり方にまで洞察を深めていく過程を自身で綴った本です。

著者にとって自然とは、決して保護すべきかわいそうな存在ではありません。それは人間の側の傲慢な考えなのです。自然はもっと大きく、人間のように皮相な判断をくだしません。自然は人間と同じように生命を持つ存在でありながら、人間とはことなり、ただ存在することで自分を表現する命なのです。

著者は言います。もし自然に意思があるのなら、とっくに自然は人間を痛めつけているだろう、と。

実際にわたしたちが自然を破壊しているのは事実ですし、そのことを反省すべきなのもたしかです。しかしそれは、自然をかわいそうな存在にしているからではありません。むしろ、自然を傷めつけることで、わたしたちはじぶんたちをいためつけているのです。

自然は、いい悪いという判断を下さずに、ただ存在しています。だからこそ自然のエネルギーは、私たちを癒し、自分自身の源に戻るように私たちをうながしていきます。

この本では、著者イレーネ ファン・リッペ=ビースターフェルト(オランダ女性であり、王室出身であり、働くシングル・マザー)が、率直に自分の内面の動きを描写していきます。そこでは、たんに自然を大切にしましょう、という甘い言葉は拒否されています。

むしろ彼女は、自然が表出するエネルギーを受け取ることで、善悪の判断を超えてただ存在するというあり方をつねに学ぼうとしています。

その中で出てくる、過去生、宇宙、守護霊などの概念に馴染めない人もいるでしょう。しかし、それら神秘的な言葉を受けつけることができない人でも、彼女の著書を読めば、それが思考の錯乱から出たものではなく、彼女自身の体験が導いたものであることを、納得できるのではないでしょうか。



アジアカップ、勝ちました。

2004年08月08日 | スポーツ
日本代表がアジアカップで中国を破りました。過酷な状況の中で頂点まで上り詰めた選手の皆さんとジーコ監督、スタッフの皆さん、おめでとうございます。

気温が40度近い中での試合が続いていたので、内容についてはどう判断すればいいのか分かりませんが、とにかく大会期間中楽しませてくれました。

交代がないジーコ監督の采配には批判もありますが、ただ、今日の試合に関しては、特別チームに破綻が見られない以上、また自チームのペースで試合が進んでいる以上、選手を代えることでバランスを崩したくないのかな、とは思いました。

それにしても、もうアジアのチームはラクには勝たせてくれませんね。

中国は、中東のチームに比べれば、ずる賢さのないサッカーをしていたように思います。その点では、日本や韓国に資質的に似ているのかもしれません。テクニックはともかく、スピードと身体の強さは魅力的ですね。日本よりもむしろ韓国に似ているのかな。

一対一で冷静にゴールを決められる玉田の活躍は大きな収穫の一つですね。これからの活躍が楽しみです。