「だって、この世には太陽も月も星もあり、空気もあり、緑の木々もあり、花もあり、鳥は歌い、蝶は舞い、ありとあらゆる食物もあり、本当にすごいところなのですから。」
(『なまけ者のさとり方』ダデウス・ゴラス著、山川 紘矢・ 亜希子訳の訳者あとがきより)
わたしが自然の存在に敏感になりはじめたのは、5年ほど前からです。当時、東京の郊外に住んでいたわたしはいろいろな悩みを抱えていたのですが、本を読んだことなどがきっかけで、救われたような気持ちになりました。
その心地いいきもちのまま並木道を歩いていると、ちょうど紅葉のころだった大量の葉っぱの一つ一つが色鮮やかにくっきりと目に映ったのです。
それは、あきらかにそれ以前とは異なる自然体験でした。自然のここちよさということに関しては、むしろわたしはずっと鈍感でした。しかし、そのときには、木々の葉っぱの一枚一枚が自分の目の前に迫ってくるような、そんな感覚がしたのです。
それからは、その並木道を歩くことがわたしの貴重な娯楽になりました。さすがにそれほどの体験をしたのは、そのときぐらいです。しかし、それ以降、自然はたしかになんらかの“エネルギー”を発していて、それは自然たちのまさに生命力なのではないかと思うようになりました。
今でも、木々や海の鮮やかさに目を奪われるときがよくあります。そのとき、それら自然現象をたんなる自然科学的事実だとかたづける理性的思考があたまをよぎることもあります。しかし同時に、それらが自然科学的作用にすぎないとしても、それを受け取るじぶんじしんの感覚を疑うことはできないし、むしろその感覚に感謝していきたいと、そう思うのです。
(『なまけ者のさとり方』ダデウス・ゴラス著、山川 紘矢・ 亜希子訳の訳者あとがきより)
わたしが自然の存在に敏感になりはじめたのは、5年ほど前からです。当時、東京の郊外に住んでいたわたしはいろいろな悩みを抱えていたのですが、本を読んだことなどがきっかけで、救われたような気持ちになりました。
その心地いいきもちのまま並木道を歩いていると、ちょうど紅葉のころだった大量の葉っぱの一つ一つが色鮮やかにくっきりと目に映ったのです。
それは、あきらかにそれ以前とは異なる自然体験でした。自然のここちよさということに関しては、むしろわたしはずっと鈍感でした。しかし、そのときには、木々の葉っぱの一枚一枚が自分の目の前に迫ってくるような、そんな感覚がしたのです。
それからは、その並木道を歩くことがわたしの貴重な娯楽になりました。さすがにそれほどの体験をしたのは、そのときぐらいです。しかし、それ以降、自然はたしかになんらかの“エネルギー”を発していて、それは自然たちのまさに生命力なのではないかと思うようになりました。
今でも、木々や海の鮮やかさに目を奪われるときがよくあります。そのとき、それら自然現象をたんなる自然科学的事実だとかたづける理性的思考があたまをよぎることもあります。しかし同時に、それらが自然科学的作用にすぎないとしても、それを受け取るじぶんじしんの感覚を疑うことはできないし、むしろその感覚に感謝していきたいと、そう思うのです。
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