すこし前に、アメリカの精神科医アンソニー・ストーによって書かれた『孤独』を読みました。図書館にあったこの本はかなり汚れていたから、多くの人に読まれているのでしょうね。
おもしろかったのは、ストーが、人間関係の改善を目指す現在の主流の心理学に対して批判的で、ことさらに人間関係の向上を人々に目標とさせるのはよくないと主張していることです。
この著者によれば、現代の先進国社会は、貧困や戦争などの生理的な危機の問題から脱したがゆえに、今度は人間関係に極端に悩むようになり、人間関係をよくしなければならないという強迫観念に憑かれているということです。
それに対し彼は、無理に人間関係の力を高めるよりも、もっと孤独でいられることの精神的な健全さに目を向けることを提唱します。
日本でも、社会の中で人間関係が占める割合はたしかに大きいですね。ビジネスでは人間関係の力が大きくモノを言うし、家庭とは人間関係をもっとも学ぶ場であると言えますね。
しかし、ストーにしたがえば、人間は孤独になることで最高の創造力を発揮させることができる。実際、人間の文化を豊かにした芸術家や学者の多くは、孤独でいることで創造性を自らの中に熟成させ、表現活動を行なっていった。孤独にはそういう偉大な側面があることを彼はたえず強調しています。
この本は、ある意味で、一つの倫理のあり方を示しているとも言えます。
わたしたちの多くは、というよりほとんどすべての人は人間関係で悩みます。いま、ニュー・エイジ、スピリチュアリティ、「癒し」、心理学、宗教など、さまざまな側面から「こころ」が注目されていますが、これほどにまで「こころ」が注目されるのも、その発端は、人々が対人関係で悩んでいるからですよね。
そこから、対人関係を上手くやっていけることが人生をよくすることになるという考えが生まれます。そして、それはある程度事実であるとわたしも思います。
しかしこの著者は、人生は他人との関係だけに占められているのでもないし、また他人との関係だけに注意を向ける人生は逆に豊かにはなりえない可能性があることを示唆します。
わたしたちはよく「愛」という言葉を耳にし、また口にします。異性愛(ラブロマンス)、夫婦愛、家族愛。また友人や知人、同じ国の人、同じ星に住んでいる人への愛について語ります。
これらの愛は尊いものとして語られます。そこから、他人への思いやり、他人の感情に配慮する能力などが問われるようになってもきました。「EQ」という考え方はそういうものの代表だと思います。
しかしストーは、「愛」だけではこの人間社会の文化は決して豊かにはなりえなかったことを証明しようとします。むしろ、学問や芸術における創造性とは、わたしたちが考えるような「愛」とはべつの論理がはたらくことによって成り立つことを彼は示唆します。
この著書は、カフカ、ニュートン、カント、ヴィトゲンシュタイン、ユングなど文化上の偉人たちの実例を取り上げ、彼らは孤独という状態でいることによってその偉業を達成したこと、つまり対人関係を上手くする能力とはべつの宝物(贈り物“Gift”)があることによって成し遂げられたことを説明していきます。
90年代初めに翻訳されたこの本は、やや冗長な説明が多いようにも感じられますが、対人関係の改善を目指す心理学が数多く出て、また多くの人々に受け入れられている今の経済的先進国の状況に対して、なお十分に挑発的であるように思います。
ストーが言うように、文化上の偉人たちの一部が、対人関係において「愛にあふれた」体験に乏しかったのは事実だと思います。
カール・マルクスやヴィトゲンシュタインなどの学問上の偉人たちは、自分とは異なる考えの持ち主に対してはつねに威圧的な攻撃を仕掛けたと言われています。ユングは、フロイトとの決裂後は、およそフェアとは言えない攻撃的態度をフロイトに取り続けたということを読んだこともあります。カントは異性との性的関係を生涯もちませんでした。カフカは異性とは手紙でのやり取りだけに終始し、実際に会うことはごく稀だったとのことです。他にも、その対人関係が軋轢におおわれ、また生涯孤独のうちに過ごした文化上の偉人を挙げればきりがないのでしょう。
彼らの例を見ながら、対人関係の改善に興味を示さず、また明らかに対人関係において危機や衝突を繰り返しながらも、自分の興味・関心だけを追い求めた彼らがいなければ、わたしたちの文化は貧困なままであっただろうとここでは述べられています。
ストーは、わたしたちが考える「愛情」がたとえ欠如していても、その人の人生が価値あるものであること、他の人に劣るものではないことを主張します。
わたし自身は、多くの人と同じように、人間関係で悩んだ経験から、もっと自分と他人のこころを理解することが重要だと考え始めました。そこから、心理学やスピリチュアルな事柄をあつかった本をたくさん読むようになり、いくつかのセミナーに出たりもしました。
そうしたものへの関心は今もありますが、ただ、私の中で、最初にあった「人の気持ちを考えなきゃ」「他人と上手くやらなきゃ」といったような窮屈な考えが薄れてきたのも事実です。
この本でも述べられていますが、一人でいること、健全に孤独でいることは、むしろ愛された経験があってはじめて可能であると言えます。
心理学的に言えば、幼児のころに十分に親から愛情を与えられ、この世界は安心できる場であるという体験をできた子どもは、親の愛情に執着しなくなり、一人でいることに満足できるようになります。つまり、単純化して言えば、自ら進んで孤独でいられることは、その人が体験的に愛を知っているからだとも言えます。
この著書では問題の解決を対人関係の改善に求める心理学が批判されていますが、その心理学とは極端に人と交流することを積極的に勧めるものを想定しているのでしょう。もしその心理学が、他人と親密な関係を結ぶことに極端に価値を置きすぎるときは、それ自体が人々の愛の欠乏感を助長させる場合もあります。その歪さをストーは批判したのではないかと思います。
すべての孤独は健全とはいえませんし、むしろ何らかのこころの傷を負ったがゆえに孤独でいる人が多いのもたしかでしょう。ストーは孤独でいることが創造力を育むことを文化的偉人の例で説明しますが、しかし彼らにしても不必要に対人関係や孤独でいることで悩んだこともあるのではと思います。
ひょっとするとこの本は、理想としての孤独を描いた書物なのかもしれません。孤独でいることで悩みながら豊かな創造力を伸ばした人がいる一方で、ストーは、悩まずに孤独を楽しみながら創造性を伸ばすという生き方があることを言いたかったのかもしれません。この本が一つの倫理のあり方を示しているかも、というのはそういう意味です。
おそらくそのような孤独は、自分の興味・関心を追求する一方で、こころのなかで他者のことを思い描きながら、その他者と豊かな交流をはぐくむこともあるでしょう。積極的に他者と交流することはなくても、世界の中の一つの存在として、一人でいることで周囲と調和しているように思います。
そのような孤独は、世界に対するひとつの愛情の表現といえるかもしれません。
おもしろかったのは、ストーが、人間関係の改善を目指す現在の主流の心理学に対して批判的で、ことさらに人間関係の向上を人々に目標とさせるのはよくないと主張していることです。
この著者によれば、現代の先進国社会は、貧困や戦争などの生理的な危機の問題から脱したがゆえに、今度は人間関係に極端に悩むようになり、人間関係をよくしなければならないという強迫観念に憑かれているということです。
それに対し彼は、無理に人間関係の力を高めるよりも、もっと孤独でいられることの精神的な健全さに目を向けることを提唱します。
日本でも、社会の中で人間関係が占める割合はたしかに大きいですね。ビジネスでは人間関係の力が大きくモノを言うし、家庭とは人間関係をもっとも学ぶ場であると言えますね。
しかし、ストーにしたがえば、人間は孤独になることで最高の創造力を発揮させることができる。実際、人間の文化を豊かにした芸術家や学者の多くは、孤独でいることで創造性を自らの中に熟成させ、表現活動を行なっていった。孤独にはそういう偉大な側面があることを彼はたえず強調しています。
この本は、ある意味で、一つの倫理のあり方を示しているとも言えます。
わたしたちの多くは、というよりほとんどすべての人は人間関係で悩みます。いま、ニュー・エイジ、スピリチュアリティ、「癒し」、心理学、宗教など、さまざまな側面から「こころ」が注目されていますが、これほどにまで「こころ」が注目されるのも、その発端は、人々が対人関係で悩んでいるからですよね。
そこから、対人関係を上手くやっていけることが人生をよくすることになるという考えが生まれます。そして、それはある程度事実であるとわたしも思います。
しかしこの著者は、人生は他人との関係だけに占められているのでもないし、また他人との関係だけに注意を向ける人生は逆に豊かにはなりえない可能性があることを示唆します。
わたしたちはよく「愛」という言葉を耳にし、また口にします。異性愛(ラブロマンス)、夫婦愛、家族愛。また友人や知人、同じ国の人、同じ星に住んでいる人への愛について語ります。
これらの愛は尊いものとして語られます。そこから、他人への思いやり、他人の感情に配慮する能力などが問われるようになってもきました。「EQ」という考え方はそういうものの代表だと思います。
しかしストーは、「愛」だけではこの人間社会の文化は決して豊かにはなりえなかったことを証明しようとします。むしろ、学問や芸術における創造性とは、わたしたちが考えるような「愛」とはべつの論理がはたらくことによって成り立つことを彼は示唆します。
この著書は、カフカ、ニュートン、カント、ヴィトゲンシュタイン、ユングなど文化上の偉人たちの実例を取り上げ、彼らは孤独という状態でいることによってその偉業を達成したこと、つまり対人関係を上手くする能力とはべつの宝物(贈り物“Gift”)があることによって成し遂げられたことを説明していきます。
90年代初めに翻訳されたこの本は、やや冗長な説明が多いようにも感じられますが、対人関係の改善を目指す心理学が数多く出て、また多くの人々に受け入れられている今の経済的先進国の状況に対して、なお十分に挑発的であるように思います。
ストーが言うように、文化上の偉人たちの一部が、対人関係において「愛にあふれた」体験に乏しかったのは事実だと思います。
カール・マルクスやヴィトゲンシュタインなどの学問上の偉人たちは、自分とは異なる考えの持ち主に対してはつねに威圧的な攻撃を仕掛けたと言われています。ユングは、フロイトとの決裂後は、およそフェアとは言えない攻撃的態度をフロイトに取り続けたということを読んだこともあります。カントは異性との性的関係を生涯もちませんでした。カフカは異性とは手紙でのやり取りだけに終始し、実際に会うことはごく稀だったとのことです。他にも、その対人関係が軋轢におおわれ、また生涯孤独のうちに過ごした文化上の偉人を挙げればきりがないのでしょう。
彼らの例を見ながら、対人関係の改善に興味を示さず、また明らかに対人関係において危機や衝突を繰り返しながらも、自分の興味・関心だけを追い求めた彼らがいなければ、わたしたちの文化は貧困なままであっただろうとここでは述べられています。
ストーは、わたしたちが考える「愛情」がたとえ欠如していても、その人の人生が価値あるものであること、他の人に劣るものではないことを主張します。
わたし自身は、多くの人と同じように、人間関係で悩んだ経験から、もっと自分と他人のこころを理解することが重要だと考え始めました。そこから、心理学やスピリチュアルな事柄をあつかった本をたくさん読むようになり、いくつかのセミナーに出たりもしました。
そうしたものへの関心は今もありますが、ただ、私の中で、最初にあった「人の気持ちを考えなきゃ」「他人と上手くやらなきゃ」といったような窮屈な考えが薄れてきたのも事実です。
この本でも述べられていますが、一人でいること、健全に孤独でいることは、むしろ愛された経験があってはじめて可能であると言えます。
心理学的に言えば、幼児のころに十分に親から愛情を与えられ、この世界は安心できる場であるという体験をできた子どもは、親の愛情に執着しなくなり、一人でいることに満足できるようになります。つまり、単純化して言えば、自ら進んで孤独でいられることは、その人が体験的に愛を知っているからだとも言えます。
この著書では問題の解決を対人関係の改善に求める心理学が批判されていますが、その心理学とは極端に人と交流することを積極的に勧めるものを想定しているのでしょう。もしその心理学が、他人と親密な関係を結ぶことに極端に価値を置きすぎるときは、それ自体が人々の愛の欠乏感を助長させる場合もあります。その歪さをストーは批判したのではないかと思います。
すべての孤独は健全とはいえませんし、むしろ何らかのこころの傷を負ったがゆえに孤独でいる人が多いのもたしかでしょう。ストーは孤独でいることが創造力を育むことを文化的偉人の例で説明しますが、しかし彼らにしても不必要に対人関係や孤独でいることで悩んだこともあるのではと思います。
ひょっとするとこの本は、理想としての孤独を描いた書物なのかもしれません。孤独でいることで悩みながら豊かな創造力を伸ばした人がいる一方で、ストーは、悩まずに孤独を楽しみながら創造性を伸ばすという生き方があることを言いたかったのかもしれません。この本が一つの倫理のあり方を示しているかも、というのはそういう意味です。
おそらくそのような孤独は、自分の興味・関心を追求する一方で、こころのなかで他者のことを思い描きながら、その他者と豊かな交流をはぐくむこともあるでしょう。積極的に他者と交流することはなくても、世界の中の一つの存在として、一人でいることで周囲と調和しているように思います。
そのような孤独は、世界に対するひとつの愛情の表現といえるかもしれません。
とても不思議な感情です。
今までで最高級にシンパシーを感じたかもしれません。
何というか、それだけしか言えないです。
すみません。
コメント、ありがとうございます。ずいぶんと遅いお返事ですみません。
読んでいただけるだけでも有難いのに、共感してもらえるのはもっと嬉しいことです。こういうコメントをいただくと、ブログを書いてよかったと思います。
なんとなくお返事を書けなかったのは、この記事は半年も前に書いたものだったので、僕の中にもいろいろな変化があったからでした。
変化というと大袈裟だけど、この記事を書いていた頃は、ブログを始めてまだ少しだったので、自分でも上品なことを書いていたなぁと思うからです。
べつに嘘を書いていたわけではありません。ただ、ブログを始めた頃は、なるべく読む人の気持ちを害さないようにしながら、それでもぎりぎりまで自分に正直なことを書こうとしていたのです。
ただ、ずっと文章を書いていると、そのうち自分の感情を抑えるブロックも外れ、批判や暴言も平気で公の場で書くようになります。そういう文章を書いていると一方では気持ちいいけど、もう一方では自分の心が荒れているのに気がつきます。
最近はそういう自分の中の荒れに気づいていたので、夜木さんがコメントをくれた記事を書いた頃の自分と今の自分はちょっと違い、今はもっと下品になっているなぁと思いました。
そういう自分に気づいていたので、どういう風にお返事を書けばいいのか分からなくて、そのままにしてしまいました。
ともかく、これからも気が向いたらここに来てくださいね。
涼風
授業でアートヒーリングをしています。
ある時、イラストレーターの方が見学にこられて
某少年の絵を見て、素晴らしいと言いました。
「こういう線は描けない!」と感動していましたが
それは少年が精神的に痛んでいたときの絵だったのです。
ある親が「我が子の絵を見ると平凡で・・・」と
言いました。
前述の話を例え話としまして
子どもの精神状態が平和が良いのか
不安定が良いのか
平和なら平凡な絵になるんだろうし
不安定なら芸術性が高くなるのなら
どちらを選びますか?
と聞きました。
自閉症の一種であるアスペルガーに
ノーベル賞受賞者が多いですが
子どもの親なら、
もしも選べるのならどちらを選ぶでしょうか。
普通の親のわたしなら
例え平凡でも平和な心を持ってほしいと願います。
わたしには、恵まれた人がその視点から
さらに芸術性を欲している人の意見のように見えてしまいます。
そしてこれは わたし自身が自己攻撃に使っている部分でもあるのでしょうね♪
久しぶりに長い文章を打ちました・笑
感じさせてくださって ありがとう♪
もし芸術が不幸からしか生まれないとしたら、子供に芸術家なんかになって欲しくないですね。不幸な子供時代を送り、お酒に溺れ、複雑な男女関係に巻き込まれ、借金に追われなければ芸術を生み出せないのだとしたら、芸術なんてないほうがいいように思います。
でも、ひょっとしたらそういうのは20世紀的な観念のようにも思います。これからは幸せで満ち足りた人生から芸術を生み出す人が増えるようにも思います。
そして、おそらく孤独と幸せは矛盾しないように感じます。
どれほど平凡な生活を送ろうと、才能のある人はその平凡の中に美を見出すのだと想像しています。
太宰のように、今までは徹底的に不幸に追い込まれなければ芸術表現に取り組まなかった。でも、もし彼が普通の家庭に育っても、素晴らしい文学を生み出したように思います。
不幸を自分に嘘をついて生きることだとしたら、平凡に生きていても波乱万丈に生きていても、不幸な人は不幸だと思います。同時に、自分に正直であるがゆえに平凡に生きたり波乱万丈に生きる人もいます。
これからは、自分に正直であるがゆえに、静かな生活の中から素晴らしい芸術を生み出す人が増えるのかもしれないし、現にそういう人が多いのかもしれない。「ニセのワクワク」に騙されずに、じっと自分の多くそこにあるものに耳を傾ける人です。
素晴らしい芸術には才能は不可欠でも、不幸は不可欠ではないようにも感じます。
涼風
一年以上前に書いた文章でも読んでくださっている人がいるとわかると、ブログを書いてよかったと思えます。
ストーが論じている孤独、そして創造性の秘密ということについては、私も考えたいと思っています。
またお暇なときにでも遊びに来てくださると嬉しいです。