◎中村不二夫氏
(略)私は同世代ですが、第一詩集の刊行は前田様のほうが早いです。ここから、推察すると、どうしても鮎川信夫の「橋上の人」を思い起こしてしまいます。お詩集は、我々世代の心象風景を描いて、鮎川の詩とは別の意味で共感できます。ひとつひとつのことばに、まだ、詩が哲学や宗教に通路を持っていたいた時代の残像がうかがえます。(略)内側で必死に答えを出そうとする、不可能性の詩学を体現されています。「朝」という作品は、一日一日、肉体の消耗と引き換えに、ありふれた日常が上書きされていく現実が書かれています。特別な日を内側に隠して。「雷鳴響く夜・病む人へ」は、病む人の描き方が具象とも抽象ともつかないタッチで、不思議な現実感を醸し出しています。とても巧い詩です。「盆の踊り」も人の歴史を描いていて、共感できます。「ウミネコ」を読むと、詩を書くことは希望であることを思います。これからもど、んどん書いていってほしいです。(略)
◎佐川亜紀氏
(略)<一つの容器 河川敷/その底で私の思惟も精一杯に生きている> 川と橋を形象としながら、私の生存を浮かび上がらせている所にさわやかさを感じひかれました。(略)
◎丸山乃里子氏
(略)川とは時間である。詩人の視線によって形を持つ時間である。あるいは川の流れは過ぎ去った風景である。流れているが、流れてゆかない記憶である。電車もまた時間である。往き来する中に重く積み重なってゆく時間。そして坂、海。この詩集は時間を文字(言葉)という形にしていて読者はそれぞれの物語を連想する。
◎成田豊人氏
(略)人生に対して諦観のようなものを感じながら生活しているという印象を受けました。橋のある風景や花輪の風景を見る目は、決して熱を帯びてはいなく、何となく、違和感を感じている、という風に受け止めました。「川流れて・生」の最終連「帰る時間になって/滞留した私にも似た小さな渦に/小石を投じてみた」が印象に残ります。「河口」の「何度ここに立っただろうか」から「始まりの位置を決めたときであったか」の連も印象的です。「橋上譚」の「その先に生があったということは」から「そのものたち」までの連は特に重みを感じます。「朝」の「この日も/あたり前のように朝が始まり」から最終行までは、前田さんの生き方を端的に表しているのかなと思いました。(略)「石畳」ですが、読み進んで行って最終連を読み終えると、この連が急に重みを持って来るのでした。(略)
◎小峰秀夫氏
(略)これが第三詩集とは、貴兄にしては少ないのかな、などと考えました。(略)一編が小説一編に相当するものでしょうから、それだけ耽読したいものです。
◎あゆかわのぼる氏
(略)静ひつです。選びぬかれた言葉が心のひだにしみて来ます。思いを文字(言葉)にする力ですね。もしかすれば長いお休みをとられた効果かも知れない、と思いました。