知人を介して県外の方から「昭和初期の作家、矢田津世子を知っていますか?」との問い合わせがあった。そして「矢田の文学記念館があるそうですが、その画像はないですか」と言う。当ブログで数回取り上げていること、文学記念館ではなく小さな”文学記念室”であることをお伝えした。
出来れば画像が欲しいとも言う。あるにはあるが昔の物で画素数が少ないので引き延ばしには適さない旨を伝えた。介した知人によると、その方は矢田津世子の作品に出会ってから、純粋に矢田文学に惹かれている人だとのことであった。そうであればここは人助け?いや、同郷の先人を慕ってくれる方がいるのであれば応えるしかない・・・私なりに。(その前に、県内で矢田津世子を知っている人はどのくらいいるのかな?)
南秋田郡五城目町の「五城館」を訪れたのは何回目であろうか。結構な回数なはずだ。当ブログでも過去に書いたが、資料の保存状態は相変わらずお粗末な状態。川端康成とか坂口安吾、坪井栄などの書簡封書や矢田の著書が焼け(酸化)て黒ずんでいる。矢田が着用したという着物(和服)もなんとか早く手当てしないと展示している意味がなくなる。照明や湿度管理などは全く論外。素人の私でも感じるくらいだから、もう、これは県立図書館、または県立博物館の先覚記念室所管にすべきではないか・・・。五城目町は平成の合併を避けて独立立町している自治体。財政的に苦慮しているとは思うが、何か方策を打ち出さなければ。地元の造り酒屋の前、元生家のあった近くらしいが、そこに文学記念碑が草に埋もれていた。碑の裏側に回ると、町の教育委員会と芸術文化協会が併記されてある。今一度改善策を出せないだろうか。
<矢田津世子>
・1907年(明治40年)、五城目町助役の鉄三郎とチヱの4女として誕生
・1915年 一家が秋田市へ転居
・1016年 一家が東京へ転居
・1929年(昭和4年)22才。「女人芸術」に参加。林芙美子らと出逢う
・1931年 大岡昇平らと出逢う
・1932年 坂口安吾と出逢う
・1936年 29才。『神楽坂』で第3回芥川賞候補となる
・1938年 病床につく。『秋扇』が「母と子」の題名で映画化される
・1940年 『家庭教師』が映画化される
・1943年 病状がすすむ
・1944年(昭和19年)3月14日死去。37才。
・1984年 五城目町で文学記念碑の除幕式行われる
・1995年 五城目町矢田津世子文学記念室公開始まる