陽だまりの中のなか

前田勉・秋田や詩のことなど思いつくまま、感じたまま・・・。

詩誌『穂』・静岡からの波紋

2023-03-13 | 詩関係・その他

                     

 静岡の詩人、菅沼美代子さんから詩誌『穂』第44号を寄贈頂いた。同誌の同人は静岡県内
在住の女性9人。

 先号の第43号を初めて寄贈頂いた時ふと、6年前に第114号で廃刊となった秋田の詩誌
『海図』が思い起こさ
れた。『海図』もまた女性だけの同人詩誌であった。

 さて、『穂』第44号は同人の詩作品と追悼文、そして「Essay 詩の周辺」と位置付けられ
た全員のエッセイが掲載されて
いる。

   「叩く」  

  幼児の涙の中に街路樹の深緑が まだ 残っている/小さな手が見送りの父親を引き寄せ
    て/手の届くありったけ
を叩いている/戦争に巻き込まれた国で/国に残る父親と幼児の
    ために隣国へ避難する母親/父と母の間で架け橋
の形で揺れながら/手は父の肩や頬を叩
    き続けている/

 井上尚美さんの詩「叩く」の第一連を抜粋。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃、何
度かテレビニュースでみ
たことのあるシーンに”違いない”。戦況を伝えるアナウンサーの声
に関連した映像として流れていたはずで、その映
像への説明アナウンスはなかったと記憶する。
音声のない映像から感受した詩人の表現は見事に「叩く」姿を描写している。幼児の哀しみ
が、
兵士として国に残る若い父の苦悶が、子の手を止めない若い母の苦しみが伝わってくる。
  幼児は、戦禍の理不尽さよりも父との別れを、
もう知っているのだ。あんなにも小さいのに。
「叩く」ことでしか伝えられない・・・。それがどういうことかをこの詩は言おうとしている
ようだ。
 第2連では、先輩が語った終戦後の記憶を散文調で表し、先輩の「僕」は牛より貧しい自分
に腹が立って、畑を耕している母の
背を「叩いた」が、母は間を置かずその倍のビンタを返し
てきた・・・と述懐させる。「母は僕を通して、僕ではない何者かを叩いていた
のだ」とする
「僕」のこの吐露は、井上さんの本質的な声でもあると感じた。重い数行の詩世界だ。

 追悼文では、先の日本現代詩人会会長である新藤凉子氏への想いを菅沼美代子さんが綴る。
その関わり方が羨ましい。私の知る秋田の「歴程」会員の方からも新藤氏のことや連詩のこと
を伺っていたので、氏のお人柄や面倒見の良さなどを更に知る事ができた。

 

発行日  2023.03.01
発行人  井上尚美
発 行  穂の会 静岡県島田市
頒 価  500円

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若狭麻都佳さんの特集『花美術館』

2023-03-12 | 詩関係・その他

      

秋田県大館市出身・若狭麻都佳(わかさ まどか)さんの表現世界が、美術文学の総合誌
『花美術館』で紹介されている。

VoL.79で詩「華供養」「手の花」と、パフォーマンスを演じる画像。
VoL.80では評論家「小出龍太郎特筆・若狭麻都佳の世界」として詩「夢原罪Ⅱ」
「Amazing planet  Kの正体」と
ミクストメディア(多種類の素材を使い、様々な手法で
制作したアート)の
「麗しき悪夢」「馨しき牢獄」。
(画像は「麗しき悪夢」の一部。(著作者承認済み)・・・画像UPシステム上の制限によ
り一部カットされている)

  
   「Amazing planet  Kの正体」

  ばら・・・ばら
  の
  秩序だった
  白い混沌
  が
  まぶしい
  底が
    抜けた
  時間

  人々は楽しげに狂っている
  魚たちが
  燃え立つように青く走り
  ちりばめられた丘のうえ
  荘厳な声が吹き抜ける

  絞首台に吊られてゆく
  シャーマンの
  こなごなになった
  いのちの破片を拾い集めて
  覆されたものたちが
  草になる

   古代ノ骨ガ咲イテイル

  やがて・・・
  草が産み落とした
  ツギハギの星
  が
  何処にあるのか
          遡るたび
   進化してゆく
  その
  おとこにだけは
  聞いてはいけない

評論家の小出氏はこの詩を「政府批判の眼差しで現在の日本政府を見つめれば、冒頭から
末尾まで、全行に共感することが出来る。この詩は、じつに興味深い、抱腹絶倒の作品で
さえある」と言う。
「日本の現状を考えれば理解できる」として、「コロナウイルスとワクチン騒動」を挙げ
ながら、
「こうした現状を認識して読み進めると、なるほどとなる」と書く。
「<魚たち>と<丘のうえ>の<荘厳な声>、魚たちは「群れて泳ぐ小魚」=民衆、先導
者の意のまま右に左に向きを変える。
「丘」と「荘厳な声」は権威の象徴だ」と断言。
「絞首台に吊られてゆくシャーマン」は「科学的権威者に逆らう人」「<ツギハギの星>
とは地球全体、つまり各国矛盾
だらけの政策」と読み解く。

なるほど、そういう読み方もあるのか!と実は驚いた。
私のような社会とか芸術とか文学などに疎い者にとっては、ちょっと衝撃的な解釈であっ
た。しかし、よく考えてみると、吉本隆明が『真贋』で「自分の表現したものが自分から
離れてしまえば、他人から見て何か言われることは、覚悟の上だと考えるのが普通ではな
いでしょうか」と言っていることが、端くれものを書いている端くれの私にしてもそうだ
と思っているところがあるから、これもまた、そう解釈した人にとっての”若狭詩”の一つ
なのだ。

若狭さんの描こうとした意味合いはどういうことなのだろうか、とは私は思わなかった。
極論すれば、ここに具象性を求
めているのではないと感じた時、それはそのまま全体と
して、一つの塊としての映像を頭に描きながら曖昧であ
れば曖昧のまま受け入れるしか
ない。それは詩作する側にも言えることで、少なくとも詩作中の思考では具象性を持った
細切
れのテーマが散在していて、詩作途中で掬い取ったり棄てたり戻したりしながら、
イメージは言葉で探り出されて翻訳され、文字に変
換され、そして視覚的に表現される
のではなかろうか。
だから若狭さんの作品は字数下げや回転や記号を組み入れてい
く。・・・のだろう。
発表された作品は、受け取る側の感性のようなものによって形を変え香りを変えてゆく
のは当然のことながら、そのようにあ
らためて思った。

若狭さんの紹介のつもりが脇道に逸れてしまったが、”若狭詩”に刺激を受けたひと時で
あった。

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