陽だまりの中のなか

前田勉・秋田や詩のことなど思いつくまま、感じたまま・・・。

今年最後の日曜日は快晴!だった

2020-12-27 | 季節

 今年2020年最後の日曜日、どうしたことか?秋田市は朝から快晴。
 今日はこの恩恵を有効に活用しなければ、などと柄にもなく思って
窓拭きや洗車、鉢植え植物への水やりと日向ぼっこ移動、居室全開での掃除機掛け等々それなりに?
それなり
の能力範囲で実行した・・・のであった。
 午後、久々にウォーキングへ。約一時間半コースの最終であるいつもの雄物川河川敷を通過する。
見慣れているとはいえ、今日もまた新しい貌を見せてくれていたことに驚く。
 ふと、この地区へ家を建てて住み始めたのは30年前の12月の今頃であったことを思い起こした。
年月を思い起こせる場所、そんな位置づけでもあるようで少々嬉しかった。

    
   お地蔵さんも防寒コート姿            秋田大橋から(日本海への)河口を望む      

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粟津 號・船木俱子著『三船敏郎外伝 わたしのトシローさん』

2020-12-11 | 詩関係・その他

 秋田県男鹿市出身の俳優、故・粟津號(あわず ごう)さんの取材に基づいた
『三船敏郎外伝 わたしのトシローさん』が、
同じく同市出身で夫人の詩人・船木俱子さんの加筆、推敲、編集によって上梓された。

 ”あとがき”らしきものはないが、船木さんは、わずか2行「秋田で生まれた俳優・粟津號が、
三船敏郎氏のルーツに感銘して綴ったものを、(平成十二年(二〇〇〇)粟津他界の為)
大幅加筆・推敲したものです。」とだけそのことを記している。重みがあって船木さんの想い
が伝わって来る。

 粟津さんと三船敏郎との出会いは・・・そして、”世界の黒沢(明)”も実は秋田にゆかりが
あった・・・と、そんな知らない人にとっては驚愕の展開もあって実に興味深い。粟津さんの
事細かな取材によって、同根である”役者”に対する憧憬の念がフツフツと感受できる。

 粟津さん亡き後、夫人・船木俱子さんが20余年間じっくりと温めてきたという、この著書
への取り組みには敬服しかない。感動。

 著作権のこともありこれ以記述できないが、この世界に是非触れてもらいたい。         

      

 ・粟津 號(あわず ごう)1945年秋田県男鹿市生まれ。2000年没。
 ・船木俱子(ふなき ともこ)秋田県男鹿市生まれ。詩人。
 ・発行日 2020.12.01/発行 俱子オフィス/〒279-0011 千葉県浦安市美浜2-1-502/定価 1,500円+税 

 

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所属詩誌から 成田豊人詩集『夜明けのラビリンス』私感再掲

2020-12-08 | 詩関係・その他

       

 所属する同人誌のひとつ、詩誌「密造者」へ成田豊人詩集『夜明けのラビリンス』(当ブログで概要紹介済み)の
読後感を寄せたので再掲。

 幻視表出の効果と暗喩 
   ー成田豊人詩集『夜明けのラビリンス』ー      前田 勉

 詩集を編み上げるというのは、人によって意味合いが異なっているのは当然のことだが、端的に言えば、ある程度の
詩編がまとまったから出版するという人もいれば、一つのテーマを意識し取り組んできた結果として出版するという人
もいる。そういう
見方で言えば、この度の第八詩集『夜明けのラビリンス』は後者の方であろうか。ひとつのテーマに
添った、あるいは近似した思考の詩世界を一冊にまとめ上げたという感じがする。もちろん、これまで一定期間ごとに
詩集としてまとめ上げてきた成田の在り方からすれば、納得する詩編がまとまったことや、自身の機運が到達した時期
であったということは当然ながら考えられる。

 さて、ここでは収録された一つひとつの作品解釈ではなく、全体的な、外側から感じたことなどにふれてみたい。
   一読後に感じたことは、大まかに三つに分けることができる。まず事象表現の巧みさであった。生まれ育った街や人々
などを描写するとき、あるいは記憶され過ぎ去った時間空間を表わすとき、心情が美しく哀しく添えられている。
しかし、単なる懐かしみ耽溺する湿り気はなく、ひとつの思考の入り口としてどこか乾いている。乾いていようとして
いる。成田の抒情性と社会性の展開基盤とも言い得る目線が、背景に隠されているようにも思えてくる。こうした作品
群は彼の生な姿が見える分、作品に近づきやすい。

 次に特徴的なのは、白昼夢とも明 晰 夢(めいせきむ)とも言える異次元の世界を複数示したこと。インパクトのある
効果をもたらしている。

 そしてもう一つは、社会に対する成田のきっちりとした視点が暗喩という表現をとりながら底流にあるということだ。
前の詩集『消息』から今詩集までの七年間における自身の詩世界への取り組み、殊に方法論としての変化、
そうしたものがこの詩集にはよく表わされていたように感じられた。

幻視世界の表出効果
 夢とも現(うつつ)とも判然としない時間空間、ドラマチックな展開、想像域もしくは幻想を可視化させる詩行、
時にまるで独り芝居のような感じさえする場面設定。
こうしたものが顕著に表わされていると思った部分を次に抜き出してみる。(傍線と太字は前田)


  まだ雪に埋もれた小路から/高校時代の同級生がいつの間にか現れる
  /駅前の潰れかけている映画館の事をまくしたて/高校生の頃交わした話続きと思い
  /あいづちを打とうとしたが/もう姿を消してしまった/幻だったのか
  /遠くに学生服姿が見えた気もする/追いかけようかと思った刹那/誰かが後ろから肩を叩いた
  もう帰れという言葉と共に
       (「大館市大町界隈・春先」)


    父なのか/ただの訪問者なのか/玄関のガラス戸には人影が映っている/明らかに父とは違う
  /鍵を外し戸を開けると/いきなり/真新しい軍服
姿の自分が現れ
       (「ある帰還」)

    引き金をまた引く/血しぶきが目弾ける/倒れた男の顔に見覚えがあった紛れなく自分自身の死骸
       (「私の部屋」)

  車は速度を落とし/入口の近くで止まった/中に人影が見える/見覚えのある背 広紛れもない 自分だ 
       (「公園にて」)

  翌日 塵としてレコードを捨てた/自分の内臓を人目に晒した気分のまま/装置を返しに行った
  /友人は
怪訝な顔/貸した覚えはないと言い張り/そもそも持っていなかったと言いたてる
       (「終活」)


    路地の入り口を通りすぎるたびに/忘れてしまった人々が無表情のまま佇んでいる/名前を呼ぼうとする
  /無言のまま姿が消えて行く/(略)//武器を持った集団が近づいて来る/精悍な顔つ
きの軍人達
  /擦れ違う時/みな俯き足取りだけはきびきびし/音も立てず 過ぎ去った/慌てて
振り向く
  /足跡のない雪道が/どこまでも続いているだけだ

       (「雪あかりの街」)

    不思議なことに/五人家族は時々輪郭がはっきりしなくなる時がある/何かを食べている気配もない
  /ずっと声音はしないし/匂いもしない/乳飲み子の泣き声も聞こえてはこない
  /ただみんなうつむいているだけだ
         (「超・同棲時代」)

 二十六才の時の処女詩集『北の旋律』からあらためて既刊の七詩集に目を通してみたが、ここに引用した方法、書き方
に類したシチュエーション、作品は前の詩集『消息』に四編あっただけで、それ以前の詩集にはなかった。この四編の頃
に彼の思考回路は少しギヤチェンジしたのだろうか。
 
時間を超えた過去と現在との往来や自分の生の根源が関わっている事象が幻視として表わされ、内奥の揺らぎや表現技
量が象徴、強調される。その場面で読み手は一瞬戸惑い、やがて意外性の効果を理解し再度前後の詩行や連を確認する。
成田にとってそこら辺の効果は計算済みのことなのかもしれない。
    
この突然と出現する世界は魅力的である。が、しかし、これら意外性と心象を表わすにはぴったりのこの手法も、多用
すると効果は薄れてしまう。同人誌などへ発表してから次の発表までは時間が介在してくれるが、詩集となれば、いわば
隣り合わせに連なっているようなものだから、類例として読まれてしまいかねない。敢えてここにまとめたというの
は、
描かれている世界、想念に力点を置いた彼の“時期”“期間”であることを示そうとしたのかも知れない。

社会性への視座
 
収録された詩作品は単なる過去への回帰性を以って思い出話を紡いでいるのでもないし、当然ながら読み手へのサービ
スのために幻視とも妄想とも言い難い世界を出現させているのでもない。これまでの詩集や個々に発表されてきた詩作品
を読み進める
と分かることだが、きっちりとした社会性への視座で描き表されているということに注視しなければならな
い。例えば生まれ育った街を描いた詩では、寂れて行く商店街、施設、人々も同じように消えてしまい「すっかり時代の
澱にまみれ/未来を待ち焦がれているように/微笑みを浮かべていた人々は/写真の中で疲れ果てている」(「鷹巣・銀
座通り商店街異景」)という現実を描く。こうしようとも、こうあらねばならないとも、どこかに対して問うことも、叫
ぶことも、コトバとして詩句として具体的に書かれてはいないが、切実な現実をここで発信している。交錯する思いを切
ないまでに発信している。だから言わんとすることが伝わってくる。

 読み手の勝手な解釈を、ここで敢えて結びつけてしまうという過ちを自覚しながら言うのだが、前掲引用した作品のう
ち、二作品の詩行を太字で表示した箇所の「軍服」「武器を持った集団」「軍人達」といった文字、コトバは、この街に
住みこの街をつくっていた多くの先人たちと時代性を表わすものでもあり、かつ、ストレートな意味あいも持っているの
だと思う。「時代は変わっても/言葉にできない深い空白を抱え/人々はしめやかに生きてきた/何も悪いことはしなく
ても/不幸の時に包まれ」(「米代川・2018」)てきたから、みな“うつむいて”いる。単に幻視された過去の存在者
たちだから、ということだけではないように読み取れてくる。

暗喩?
 
ここまで引用した詩は、比較的わかりやすい。つまり読み取れる範疇に入る作品群とも言える。彼の作品は暗喩の効い
たものが多くなってきた感じがする。当詩集では「ある別れのために」「歌は影となって」「坂の底から」「私の部屋」
などだろうか。表題となった「夜明けのラビリンス」もそうかも知れない。こうした作品へ入り込んでいくのはある意味
難しい。タイトルを意識しながら読み進めていくのだが、背景に気付かなかったり感じ取れないでいると、どこまでも交
わることなく平行線のままモヤモヤしたものを抱え込んでしまう。時にその背景は世界で起きている紛争や事件であった
り、大震災のことであったりとそのモチーフを推測したりはするのだが、読み手として曖昧なままである。
 
また、「あの」「あの時」「あの日」「あの人」「あれから」といった、多くの書き手(私を含めて)が懐古的な情景
や情態を表わすときに多用してしまう指示代名詞の前で、つい立ち止まってしまうことがある。これらは読み返しても充
当すべき具体的なことは出てこない場合が多い。すべては彼の中で熟考し消化されたものたちだから書いていない。言い
たいことの本質ではない事柄、あるいは誰でも知っている事象だからという位置づけが、前提にあるからかも知れない。
直截な書き方をしていないので、私のような社会性に疎い読み手はここで試されている感もする。

 詩に意味を求めようとして読むからだろうか。
 

   「私の部屋」

  刑場には風がかすかに吹き/砂漠の埃が鼻腔をくすぐる/鍵のありかは確かめる暇もない/
  時は常に止まっていて/ひどい熱が体にまとわりつく/無抵抗のまま跪く死刑囚のうなじが光る/
  拳銃の安全装置を外すと/どこからか昔聞いた歌が聞こえて来る/旋律はぬめるように体を包む/
  指先が凍え始める/引き金を引く/血の匂いが漂うなか/誰にも妨げられず古いメロディーが/
  空間に浸みて行く/突然記憶が甦る/何人もの人間を凌辱し部屋に閉じ込め/ドアに鍵を掛け火を放った/
  吹き出す煙と炎/家が崩れ落ちる瞬間/神々しいとさえ思った/また一
人囚人が連行されて来る/
  どうして無抵抗のまま処刑されるのか/いつか訊ねてみたい/汗に濡れた拳銃を頬に当ててみる/
  少し前映像で見た遠い異国/人で溢れるスクランブル交差点の真ん中で/互いの舌を
からませ/若い二人は/
  抱き合ったまま立ち尽くしている/眠くなりそうな画面/引き金をまた引く/血しぶきが目に弾ける/
  倒れた男の顔に見覚えがあった/紛れもなく自分自身の死骸/また
歌が聞こえて来た/出発は迫っていて/
  出口のドアが遠くに見える
透明な仮面を被りながら/部屋に鍵を掛け/念入りに戸締りを確認し/
  妻と子供の待つ外に出る/家族とこれから歩く雑踏を想像すると/再び指先が凍り付く/
  時間は音を立て激しく流れていて/
仮面は既に皮膚と溶け合っている/


 暗喩について吉本隆明は、「野村さんは暗喩(略)の詩人、城戸さんは直喩の詩人ということが出来ると思う。
(略)同じ暗喩の詩人でも、(略)平出さんは自分は詩の外にいて、そこから暗喩表現をしている。
だから読むとスッキリしているし個性も味わえる。一方、野村さんは言葉の中に半分、自分が入っている。
半分は詩の外から詩をつくり、半分は詩の表現の中に自分を入れている。
だから、暗喩が多義性を帯び、複雑な陰影をもち、難しく感じられる」と『詩(※)の力』の中で言っている。
非常に分かりやすい説明で、
暗喩のバリエーションを示した定義のようにさえ思えるが、
この個所を読んでいると、成田が書く詩は野村タイプなのかなと思ったりした。

 成田は暗喩の詩人でもある。

 印象、あくまでも曖昧な印象としてのことだが、五〇才代あたりまでの成田は想う世界を直截に、
時に激しく言い表していたようなイメージがある(実は違うかも知れないが)。
性や酒や艶やかな世界をも書き表しながら、生きていることをリアルに強く出し、社会を直視していたように思う。
衒うことなく、それらを以ってごく当たり前のように詩作していた気がする。
彼の持つ資性なのだろう。今なおインパクトのある詩世界を持ち続け、内奥表出へ更に挑んでいる。
当詩集を読みながら、成田のそんな姿を感じた。
(文中敬称略)


『詩の力』2009年、新潮文庫。毎日新聞社刊『現代日本の詩歌』を解題。
〈参考〉文中引用した吉本隆明氏の文章の内、野村は野村喜和夫氏、城戸は城戸朱里氏、平出は平出隆氏。

 詩誌「密造者」/発行編集:亀谷健樹/秋田県北秋田市上杉下屋布袋257/頒価800円

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地区に残る伝説・歴史~黒沢せいこさんの著書に出会う

2020-12-07 | 詩関係・その他

        

 先般、横手市の黒沢せいこさんから著書『増田今昔物語』、『栄地区の伝説』、『詩・写真集 風と光と』、
そして昔ばなしを収録したDVDとCDなどをご恵贈戴いた。
 当方、黒沢さんについては秋田県現代詩人協会会員であること、第1回秋田県現代詩人賞や第3回花の詩祭の
受賞者との認識はあった。だが、当ブログ今年8月4日UPの「黒沢せいこ 『絵はがき詩集「北国の原風景」』で触れたとおり、”昔ばなし”などの活動には思い至っていなかった。この度は、黒沢さんの活動の範囲・深さ・行動力に圧倒され、ただただ敬服するのみであった。
 『栄地区の伝説』(栄地区=横手市にある”秋田ふるさと村”の東側一帯か?旧横手市を初期から構成していた地区)には”ウソ?ホント?”とのサブタイトルがついている。「まだまだ書き足りない事、調べきれないもの、聞き間違いの記述などがあるかも知れません。栄地区の古代から現代までのざっとした歴史の流れも間に合いませんでした。私的な見解も入ったりしておりますが、栄地区のほぼ全域を取り上げたつもりです。お叱りもあるかも知れませんが「ウソ?ホント?栄地区の伝説」ですので「ウソかホントかわからないけれども、まず読んでみるか」というおおらかな気持ちでページを開いて下さったらと思います」。「あとがき」でこのように述べているこの背景には、あとがきから察するに、まず黒沢さんが自称する”歴女”であったことと併せ、公務員として栄地区の公民館長であったこと、そして、それ以前に?感性が研ぎ澄まされていた詩人であったことなどがあろうか。地区の人にとってはこれほど適任者に恵まれた好機は無かったであろうと推察する。
 こと細かに地区・周辺のエリアの言い伝えなどを考察しながら、かつ実地調査収録等を交えて構成するこの著書は門外漢の当方としても興味深い。私的に言えば、そもそも新興地住宅地であった当方の生地周辺にこうした昔ばなしや伝説は無いような気がするし、そうしたことを聞いて育った記憶がない。対比してしまえば羨ましいことだ、実にウラヤマシイ。とはいえ、「そう思っているのは自分だけ」と言われそうで心もとない。あるかも知れない、ないかも知れない・・・しナァ。

(『栄地区の伝説』は読了。『増田今昔物語』は、実はこれから後半順を追って”積読”(つんどく)の整理をしながら順番に<(_ _)>・・・・。)

 

『増田今昔物語』
  発行日:2020.05.12/発行所:イズミヤ出版(秋田県横手市十文字町梨木2)/頒価1500円+税
『栄地区の伝説』
  発行日:2014.04.05/発行所:イズミヤ出版(秋田県横手市十文字町梨木2) /頒価2000円+税

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