陽だまりの中のなか

前田勉・秋田や詩のことなど思いつくまま、感じたまま・・・。

詩集 「橋上譚」  感想(その1)

2014-05-31 | 詩集「橋上譚」

◎細部俊作氏 

(細部氏のブログからコピーさせていただいた)

『前田勉詩集「橋上譚」を読む』

5月中旬、送られてきた詩集は立派なものだった。帯の色に使っている青は空を映す川のようだ。帯の文字の白はさざ波かもしれない。カバーを外して表紙を出すと、そこには日本海に沈もうとする夕陽が見えた。

★「川流れて・生」
 「岸辺に・・・絡むようにして浮遊物がゆっくりと渦巻き/滞留している/あれは私なのかもしれない/過去の私も今の私もグルグルと巡り/巡ることで生を確かめ/渦からはじき出されるのを待っている」。

 この情景は「河口」では次のように表現される。「流されてきた木片が/川と海がぶつかり合うあたりで/揉まれ/海へ出ることを躊躇している」と。川の淵や橋脚のあたりで目に見えてくる浮遊物も木片も、脱色したビニール屑も、それらは日常が生み出す滓(かす)のようなものであり、またそれは自分でもあると吐露している。その渦から抜け出そうとするかしないかの間に漂っている。

 「朝」、「川霧立ち込める朝に」にも、前田が情景に自己の心象を投影させる巧みさがうかがえる。そして冒頭の作品の情景は詩集全体を彩る象徴でもあるようだ。どこか物憂い、独り言のような、孤独なトーンが流れている。

★「河口」
 何度ここに立っただろうか
 少年のようにもがいていたときであったか
 少女のように夕陽に憧れていたときであったか
 今の自分の
 始まりの位置を決めたときであったか
 

 川床を這うように
 私の時間は流されてきた
 (略)
 あの木片のようだ

 抒情を感じさせる数行ではある。けれど、「・・・であったか」といってしまえば、あっさりと遠い記憶として一瞥してそれで終わりになってしまう淡泊な慨嘆になっている。その流れに「そんなものさ」が投げやりな気分を乗せている。
 しかし、それでも前田は何度も河川敷に来る。河口に来る。人の日常や営為を、波が洗い川の音がかき消す世界に。日常は生活臭のする家や勤め先や隣家等などの中に見ようとすればいくらでも見えるはずだが、そうした日常の生活空間から抜け出して、河川敷や橋や河口のあたりまで来る。
 前田の詩作の現場はそこにあるようだ。昨日と変わらない日常の中に埋没している中から自分を掬い取ろうするかのように言葉を探している。誰にも聞こえない声で、呻きつつ。

★「河川敷」
 お地蔵さんに会いにくる。「君」の心の中にもその姿が残っているのではないか、と問いかける。いま、私はそれを見ている。君と共有していたものに会いにくる。君が遊んだ遊具は取り替えられたがお地蔵さんは今もそこに立っている。
お地蔵さんについては後でまたふれる。

★「朝」
 白鳥の物悲しい声のする朝、今日は特別な日か? 単に一日がカウントされただけか? 日々の同じ相貌の中に埋没してしまわない特別な日・・・六十歳の誕生日も「一万数百回目のいつもの物憂い朝でしかない」。一日の始まりという実感を失っている。そこを突き詰めて書き刻んだ作品だ。「かもしれない」という非断定のあいまいで中途半端な位置に佇んでいる。落ちるでも飛ぶでもない中空にいる自分から、目をそらさずに見ている。

★「川霧立ち込める朝に」
 昔、車両の連結部分の隙間から白鳥の飛ぶ姿を見たことがあった。その情景を、今、白鳥を見ながら思い出している。前田はそこにも日を重ねている自分を反射的に見出す。そんな自分を白鳥に見透かされているようだと書く。白鳥の物悲しい声は前田の声であったかもしれない。しかし、物悲しさの正体がどうなのか前田は書かない。ただ自分と重なって見える白鳥をずっと見ている。飛ぶ白鳥の描写がよくわかる。

 

★「雷鳴響く夜・病む人へ」
 行頭を一段下げてからの二連目をどう読んだらよいか。文章のように読むなら、お収まりがつかないように感じた。しかし、「痛みに耐えながら/夜の白い時を数えているに違いない」や終連は強く印象に残る。秀逸だと思う。

★「花輪沿線」
 「待つ 待っている 乗ってゆく人 列車を 列車を待つ人 人を」これから乗ろうとする人を駅で待っているのか、到着する人を待っているのかわからない。駅舎にいる人は大体が自分が乗る列車とか、誰かを待っているといっていいが、その一般的な理解から書き起こして何かの意味合いやイメーにつなげようと意図しているのではない、と思う。わからない。何か煙幕を張っているような感じではないか。この作品以外にも二、三感じるが、言葉を胸に秘めておいて、しかしそれを語らない、そんな傾向がないか。

★「峠」
 尾去沢街道踏切を通り過ぎるのは、あるいは尾去沢鉱山の「西道金山旧鉱」、「山崎御山旧鉱跡」といった鉱山跡に佇むのは、雄物川河川敷や河口にいた前田だろうか。日常への埋没感におぼれそうな日々から、新たな生活の地に、前田は雄物川の感傷を持ってきただろうか。同じ感傷を抱きながら異邦として町を歩いている。どこか探訪するような眼差しも感じさせる。この日々にどのような新たな意味を見つけるか、詩はその意味と出会っただろうか。

★「ウミネコ」など
 東日本大震災に関連した作品もあった。テーマとしてはとても難しいのではないか。それでも書いたということに、前田の詩作への思いの強さを感じる。
川シリーズより後年の作品と思われる。川シリーズで書いた日常へのこだわりから抜け出ようと試行している必死さを感じる。

 「ウミネコ」。震災後に女川に来た。ウミネコに見られているのが「何もできない私」だとしても、直接自分の目で見た被災地の様子は記憶に残るだろう。それがいつか若い人や幼い子に語る日があるだろう。

★「その日」以下
 Ⅴには肉親の死や弔いの時のことが書かれている。それらは川シリーズとは違って、幼少時の自分や母親の追憶がある、兄たちもいる。それらは黒いシルエットとなって映る。「石畳」はいい作品だと思う。それは自分の存在を日常の中に探そうとする“もがき”から解放されているからかもしれない。

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