◎細部俊作氏
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「松風ざわめいて」
生家の近くの神社に来た。以前、この松に囲まれた神社に「君達」を連れてきたことがあった。そのとき・・・ざわざわとびゅうんびゅんと松風がうなり大きな幹が揺れる音に驚き、太い幹がゆらりと揺れる様を怖がっていた。そんな年頃の「君達」だった。「二人とも両手で耳をふさいで/何かを言った」が「何を言ったのか/何かを叫んだのか」自分には聞こえなかった。
一方、幼年期の自分と今の自分が遠い時間を超えて混ざり合う。子供のころの「私」が階段を下りてゆき、「何かを言っているようだが聞こえない」。「君達」が言ったことも、子供の「私」が言ったことも「潮騒のような松風がざわめいていて聞き取れない」。潮騒のような松風は昔と今の間を吹き抜け吹き続けている。
そんなイメージを抱いた。
ところで、この詩に出てくる「君達」と「河川敷」の「君」とを見つつ眺めつするうちにある想像をしたくなる。
「河川敷」の「君」は、遊具で遊び、お地蔵さんを一緒に見た存在であったのだろう。そこで私は勝手な想像をする。河川敷も河口も前田が自分の日常の象徴を手探りで形作ろうとする場だったと思われるが、同時にそこは、お地蔵さんを共に見た「君」へ語りかけ、問いかける場でもあったのではないか。お地蔵さんがいるから河川敷に来た。河口はその延長にあるから、河口に来たのではないかと。
★「時には」
「思い返すことはしない」とつぶやいていた母がいた。「戦争の話を一度も語ることなく/そこから避けるようにして生きていた」父がいた。そして「今 から逃げてきた」私がいる。親からそのつもりはなくとも受け継ぎ、組み込まれた「因子」
に気づいた自分がいる。「静かすぎて自分の位置がわからない」と叫びたい自分がいる。
◇ヘボ眼(まなこ)で気ままにぶつかった幾つかの作品について感じたことを綴ってみた。「あとがき」によると、この詩集は十年間書けなかった後の50歳代に発表された作品で編まれたことを知った。十年間の作品三十九編。幾つかのパートで分けられているそれら作品群を、各々の性格で一言ずつで括ってしまうのは乱暴だし、気が引けるけれど、河川敷の日々、病棟の夜、花輪沿線の町で訪ね歩くような日、民俗行事や大震災の方へ向かって言葉を立てようとする試み、肉親と過ごした幼年期の追憶の中に自分の源を見出したい思い、「君」や「君達」へ向ける呼びかけ・・・私にはそんなふうに見えた。
詩を書かない者からすると、それらは夜な夜な言葉を紡いできた営みの蓄積であって貴いもののように感じた。そこには長い空白の後の十年間という時間的な重さ厚さも加わる。
これからも前田の詩を見たい。それも、読者は身勝手で欲張りだから言ってしまえば、前田の抒情をもっと見たい。昔、詩を書いていたが、今では全く書くことのなくなった者は、そのころと相も変わらず、抒情を含まない詩は水気を失った果物と同じだと今も思っている。
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