終日「歌合」の催行に参画する。早めに会場へ向かうも、うっかり快速に乗ってしまい、引き返すはめに…。
お呈茶もあったが、なにしろ束帯を着るので、着付けは一番最後。白衣のみで席入りしたら、お正客をさせられる。(・_・;)
判者って、大変なのだ。左右のチームから読み上げ、詠唱される和歌を聴きながら、その場で判定をくだし、その理由を古文で述べるのだから。そんじゅそこらの国文学者にも、こんなパフォーマンスはそうそうできはしまい…と、いささか自讃しておく。
オ―ディエンスも多く、皆に分かるように判定しなければならない。笑い声もあがったから、そのあたりも成功だったと思う。
私は和歌の研究者だが、「場」のもつニュアンスというものは、記録されたテクストのみからは、想像力を立ち上げるに限度がある。おそらく、ご批判の向きも多かろうけれども、実施にやってみることで、どのような愉悦が生じたのか、少し確認できたように思った。
もしかしたら、こうした行き方こそが、注釈的な帝大のアプローチ、書誌と古記録からのKOのアプローチとは異なる、独自のアプローチを拓くものではないのかな…と思った次第。いったい、何が楽しかったのかな?という視点である。
いやはや、勉強になりました。A師匠、ありがとうございました。
和歌は、単なるテキストではなく、歌合せという場で、難陳という過程を経て、磨かれるのだと、体験として良く判りました。 その意味では、歌会も、まさに一座建立だと、素晴らしい体験をさせて頂きました。