史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御茶ノ水 Ⅱ

2010年08月29日 | 東京都
(神田明神)


神田明神

 神田明神という名称であるが、最寄駅は御茶ノ水駅、所在地は、湯島聖堂の北である。朱色の門が目に鮮やかである。
 本殿前に「明治天皇御臨幸記念碑」が建てられている。この石碑について、神田明神のHPに以下のとおり解説されている。
――― 明治七年(1874)九月十九日、明治天皇が神田明神に御親拝になられた。当時の記録によると、明治天皇は祠官本居豊頴の案内により本殿前の大床において御立礼で御拝礼遊ばされたという。東京の神社で明治天皇が親しく御参拝なさったのは靖國神社と神田明神のみであった。明治七年(1874)という年は、二の宮に少彦名命が迎えられ平将門霊神が本殿から摂社へ遷座されるなど様々なことが起こった年で、非常に慌しい中での明治天皇御親拝であった。碑は紀元二千六百年奉祝として昭和十五年(1940)に建立された。


明治天皇御臨幸記念碑

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浅草 Ⅱ

2010年08月29日 | 東京都
(正定寺)


正定寺 島田虎之助墓

 正定寺には、勝海舟の剣の師、島田虎之助の墓がある。島田虎之助は、文化十一年(1814)に豊前中津に生まれ、十歳ころから藩の剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く、数年間で藩内に敵う者はいなかったという。十六歳の春および翌年、九州一円を武者修行して名声を挙げた。天保九年(1838)江戸に出て、男谷精一郎の内弟子となった。一年余りで師範免許を受け、天保十四年(1843)、東北修業のあと、浅草新堀に道場を開いた。この道場には勝海舟も通った。嘉永五年(1852)三十九歳という若さで病没。墓碑には「余、哀歎ほとんど一臂(“片腕”のこと)を失うがごとし」という男谷精一郎の銘文が刻まれている。

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靖国神社 遊就館 Ⅱ

2010年08月29日 | 東京都
(三輪田学園)


三輪田学園

 靖国神社に隣接する三輪田学園は、三輪田真佐子が創設した学校である。三輪田真佐子は、天保十四年(1843)に伊予で生まれ、明治二年(1869)同じ伊予出身の三輪田元綱に嫁いだ。三輪田元綱は、文久三年(1863)に起きた足利三将軍の木像梟首事件の首謀者の一人である。この事件のため五年間、但馬豊岡に幽閉されることになった。維新後は外務権大丞に累進した。明治十二年(1879)に元綱は世を去るが、真佐子が教育者として活躍するのは未亡人となってからである。郷里松山で教鞭を取ったのを皮切りに、東京音楽大学、日本女子大学などで教壇に立ち、明治三十五年(1902)三輪田女子高等学校を創設した。


三輪田真佐子像

背後の書は、「知汝自身」(なんじじしんをしれ)
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神田 Ⅱ

2010年08月29日 | 東京都
(お玉ヶ池種痘所記念碑)


お玉ヶ池種痘所跡碑

 お玉ヶ池種痘所記念碑を少し南に行った角に、やはりお玉ヶ池種痘所跡の石碑と解説を記した石板が建てられている。説明によれば、お玉ヶ池周辺には、梁川星巖の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩佛の詩聖堂、東条一堂の瑶池館、佐久間象山の象山書院、千葉周作の玄武館、磯又右衛門の柔道道場など学塾、道場がひしめいていた。

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