史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

米子

2016年10月14日 | 鳥取県
(御台場公園)


淀江台場跡

 淀江台場は、藩内八カ所に設置された台場の一つで、境台場と同じく、松波宏元の設計で、宏元の父である今津村大庄屋松波宏年が土地を無償提供した。文久三年(1863)に完成後、松波が率いる農兵松波隊が守備した。現在残る遺構は、高さ約四メートル、幅約二十四メートル、幅約二十四メートル、長さ六十七メートルという土塁である。
 松波宏年は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、さらに慶応四年(1868)の戊辰戦争でも幕府軍として出征した。

(米子城)


米子城跡

 米子城は、伯耆国守護山名教之の配下の山名宗之によって、標高九〇・五メートルの湊山に応仁年間から文明年間(1467~1487)に築かれたと伝えられる。その後、天正十九年(1591)には、吉川広家が新たに築城を始めたが、関ヶ原の戦後、広家は岩国に転封となり、代わって伯耆十八万石の米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長七年(1602)に完成させた。当時は五重の天守と四重櫓の副天守を備えた威容を誇っていたという。江戸時代に入ると、慶長十五年(1617)には加藤貞泰が入城。その後、池田光政の一族が継いだが、寛永九年(1632)以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が城代として米子城を預かった。明治になって城郭は全て取り壊されたが、往時そのままの石垣を見ることができる。またここから見下ろす米子市街の眺望は素晴らしい。


米子城


米子市街

(了春寺)
 了春寺は、米子城主荒尾氏の菩提寺である。墓地をいくら探しても荒尾氏の墓地が見つからない。墓参りに来ていた老人に訪ねたところ、本堂前の道を真っ直ぐ行けば、右手にあると教えていただいた。


了春寺

 荒尾家墓地には十五基の墓碑が整然と並ぶ。荒尾氏は、寛永九年(1632)以来、明治維新に至る二百四十年間、米子の城主として勢威を誇った。鳥取藩の首席家老として屋敷は鳥取に持っていたが、墓は米子の了春寺に有した。


荒尾家墓地


舊米子城主在原朝臣荒尾成冨墓

 米子城最後の城主は、米子荒尾氏十一代成冨。慶応三年(1867)家督を相続し、父成裕とともに国事に参政した。慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使との折衝では、米子・松江に随行し、同年四月には答礼使として京都に赴いた。明治二十六年(1893)、五十一歳にて死去。すぐ近くに息荒尾成文の墓もある。


村河與一右衛門尉直方墓

 荒尾家墓地の近くに村河直方の墓がある。
 村河直方は、文政七年(1824)に生まれ、嘉永元年(1848)家を継ぎ、米子の藍座・蝋座・木綿座の経営、また人参栽培等に努めた功により、家老職米子荒尾家より家禄百石の加増、新田四町歩、人数召抱の賞を受けた。元治元年(1864)、禁門の変後、長州藩士の帰国を擁護した。征長の役に際しては、一書を米子荒尾家に提出して征長の不可を説いた。そのため藩当局から閉門を命じられたが、中岡慎太郎、河上彦斎らを通じて長州と連絡をとった。慶応三年(1867)、大山寺を中心とする挙兵計画をたてたことが発覚、そのため米子荒尾邸内にて村河氏の一族により暗殺された。年四十四。

(中国電力米子営業所)


中江藤樹先生成長之地

 近江聖人中江藤樹は、幼少の頃、米子城主加藤貞泰に仕えた祖父吉長とともに米子に住み、学問に励んだ。中江藤樹の遺徳を偲び、昭和四十五年(1970)、加茂二丁目のこの一角に碑が建てられた。

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