(お台場公園)
由良台場跡
お台場公園は、東京の専売特許ではない。実は鳥取にもお台場公園がある。由良台場周辺は、テニスコートやゲートボール場、遊具広場などを備えた広大な公園となっている。さらに青山剛昌ふるさと館や「道の駅大栄」も隣接しており、私が訪れた時は夏休み中の週末ということもあって、駐車場が満杯になるほどの混雑であった。
お目当てはもちろん由良台場であるが、せっかくなので青山剛昌ふるさと館に立ち寄ってみた。漫画家青山剛昌は、「名探偵コナン」の原作者で、ここ北栄町の出身である。(厳密には境湊だが)水木しげるの出身地である米子では、空港を「米子鬼太郎空港」とネーミングしているが、それに対抗してというわけではないだろうが、鳥取の空港は「鳥取砂丘コナン空港」というのである。実は高校生になる次女が「名探偵コナン」の大フアンで「将来の夢は?」と聞かれると「名探偵」と答えるほどであった(単なる「探偵」ではなくて「名探偵」である)。さすがに高校生になった今は「名探偵」を目指していないが、「名探偵コナン」への愛は変わらない。娘への土産を入手するために、ほんのちょっと立ち寄ったつもりであったが、土産物のショップは一際混雑していた。やっとのことで「コナンせんべい」とキャラクターグッズを購入することができた。
青山剛正ふるさと館
台場公園の大砲
鳥取県内に残る台場跡の中でも、もっとも原型を残しているのが由良台場である。由良台場には七門の大砲が配備されていた。鳥取藩では安政四年(1857)六尾村に二基の反射炉を完成し、その後十年間にわたって約二百門の大砲が製造された。主に藩内八カ所の台場に設置されたが、藩外からの注文にも応じていたという。由良台場公園に展示されている大砲は、砲身三メートル、口径三十五センチ、重量約二トンという、当時最大級のものを復元したものである。
由良台場は、武信潤太郎の指揮のもと、文久三年(1863)から築造が始められたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しに工事は進められた。男女問わず、十六歳から五十歳までの農民が動員され、その延べ人数は七万五千余人に及んだとされる。人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農らの献金によってまかなわれた。翌年完成した台場は、東西一二五メートル、南北八三メートル、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは四・五メートルに及んだ。台場内側は三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計四門の大砲が配置されていた。
由良台場跡
お台場公園は、東京の専売特許ではない。実は鳥取にもお台場公園がある。由良台場周辺は、テニスコートやゲートボール場、遊具広場などを備えた広大な公園となっている。さらに青山剛昌ふるさと館や「道の駅大栄」も隣接しており、私が訪れた時は夏休み中の週末ということもあって、駐車場が満杯になるほどの混雑であった。
お目当てはもちろん由良台場であるが、せっかくなので青山剛昌ふるさと館に立ち寄ってみた。漫画家青山剛昌は、「名探偵コナン」の原作者で、ここ北栄町の出身である。(厳密には境湊だが)水木しげるの出身地である米子では、空港を「米子鬼太郎空港」とネーミングしているが、それに対抗してというわけではないだろうが、鳥取の空港は「鳥取砂丘コナン空港」というのである。実は高校生になる次女が「名探偵コナン」の大フアンで「将来の夢は?」と聞かれると「名探偵」と答えるほどであった(単なる「探偵」ではなくて「名探偵」である)。さすがに高校生になった今は「名探偵」を目指していないが、「名探偵コナン」への愛は変わらない。娘への土産を入手するために、ほんのちょっと立ち寄ったつもりであったが、土産物のショップは一際混雑していた。やっとのことで「コナンせんべい」とキャラクターグッズを購入することができた。
青山剛正ふるさと館
台場公園の大砲
鳥取県内に残る台場跡の中でも、もっとも原型を残しているのが由良台場である。由良台場には七門の大砲が配備されていた。鳥取藩では安政四年(1857)六尾村に二基の反射炉を完成し、その後十年間にわたって約二百門の大砲が製造された。主に藩内八カ所の台場に設置されたが、藩外からの注文にも応じていたという。由良台場公園に展示されている大砲は、砲身三メートル、口径三十五センチ、重量約二トンという、当時最大級のものを復元したものである。
由良台場は、武信潤太郎の指揮のもと、文久三年(1863)から築造が始められたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しに工事は進められた。男女問わず、十六歳から五十歳までの農民が動員され、その延べ人数は七万五千余人に及んだとされる。人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農らの献金によってまかなわれた。翌年完成した台場は、東西一二五メートル、南北八三メートル、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは四・五メートルに及んだ。台場内側は三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計四門の大砲が配置されていた。
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