(水口宿)
水口宿本陣跡
明治天皇聖蹟
水口は、城下町として発展したが、交通体系の整備に取り掛かった幕府は、東海道を整備してその要所の町や集落を宿駅に指定した。直轄地であった水口もこの時宿駅に指定され、東海道五十番目の宿場町として、明治初年まで賑わった。
水口宿は、甲賀郡内の三宿中、最大規模を誇り、天保十四年(1843)の記録によれば、戸数六九二(うち旅籠四一)を数えた。旧街道を歩くと、今も往時の雰囲気を味わうことができる。
(常明寺)
常明寺墓地に、森鴎外の祖父森白仙の供養塔が建てられている。
森白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸にでたが、帰国の際に発病し、遅れて国もとへ戻る途中、土山にて病死した。万延元年(1860)十一月七日のことであった。亡骸は常明寺の墓地に葬られた。
常明寺
森鴎外は、小倉在勤中の明治三十三年(1900)、軍医部長会議に出席するために上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺で荒れ果てた祖父の墓を探し出し、時の住職に願って墓を境内に修した。その後、祖母きよが明治三十九年(1906)に、母ミネが大正五年(1916)に亡くなると、遺言により常明寺に葬られた。昭和二十八年(1948)、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、昭和六十三年(1988)に鴎外の子孫の手により常明寺に供養塔が建立された。
森白仙供養塔
(土山宿)
土山は宿場町であると同時に幕府直轄地であり、勘定奉行配下の代官が陣屋を置いて統治していた。陣屋は、天和三年(1683)、当時の代官鵜飼次郎兵衛の時に建造された。その後、代官は多羅尾氏、岩出氏、そして天明二年(1782)には再び多羅尾氏に引き継がれた。寛政十二年(1800)の土山宿の大火災で屋敷は全焼し、以後再建されることはなかった。以来、陣屋は信楽に移って多羅尾氏の子孫が世襲して維新を迎えた。
土山陣屋跡
大黒屋本陣跡 土山宿問屋場跡
土山宿の本陣は土山氏と豪商大黒屋(立岡氏)の両家が務めていた。土山本陣だけでは宿泊者を収容しきれなくなり、豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代についてははっきりと分からないらしいが、もともと旅籠屋として繁盛していたようである。古地図によれば、大黒屋本陣は、土山本陣と同じように門玄関、大広間、上段間などをはじめ多数の部屋を備えた壮大な屋敷であった。
明治天皇聖蹟
土山宿本陣跡
土山家本陣は、三代将軍家光が上洛する際、寛永十一年(1634)に設けられた。
明治元年(1686)九月の明治天皇の行幸の際には、この本陣で満十六歳の誕生日を迎えられたため、ここで天長節が祝われた。土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜された。
幕末期に参勤交代が中止され、明治三年(1870)に本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役割を終えた。
旅籠平野屋
平野屋は、明治三十三年(1900)、森鴎外が祖父白仙の墓参のために宿泊した旅籠である。
森白仙終焉の地 井筒屋
文久元年(1861)十一月、鴎外の祖父森白仙は井筒屋にて病死した。白仙は江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。
なお、森鴎外が明治三十三年(1900)に土山を訪れた時、既に井筒屋は廃業していた。
東海道伝馬館
東海道伝馬館は、江戸時代の街道や宿場、宿駅伝馬制を論考する展示のほか、東海道土山宿の観光案内も手掛ける施設として、平成十三年(2001)にオープンした。私が訪れた年末は休館。門前に文豪森鴎外の土山来訪を記念した石碑がある。
文豪森鴎外来訪の地
(多羅尾代官屋敷跡)
土山からたぬきの置物で有名な信楽の「陶芸の里」を抜けて、三重県、京都府との境に近い辺境にあるのが多羅尾である。かつてここは京都から伊賀へ抜ける「京街道」など主要道が通る要衝の地であった。
多羅尾氏は、甲賀の武士で、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」の際、家康を警護した功績から、徳川幕府成立後に信楽四千石を与えられた。それから明治維新に至るまで信楽代官を十代にわたって務めた。
多羅尾代官屋敷跡
陣屋跡は、私有地となっており、春と秋の年に二回に限り公開されているそうだが、無論私が訪れたときは立入禁止で、外から様子を伺うしかなかった。
私事であるが、中学生の同級生に多羅尾君という姓の男がいて、「どうも彼は忍者の子孫らしい」という噂もあったが、彼自身が否定も肯定もしなかったものだから、今もって真実は不明である。
この日は、湖南や草津の史跡も見て回ろうという欲張りな計画を立てていたが、雨は降りやまないし、カメラは忘れてしまったし、ここまで南下したら草津まで北上するのは億劫だし、ラジオの交通情報によれば草津インターは渋滞しているというし、すっかりくじけてしまった私は、国道307号線経由で宇治に抜けて、久御山に立ち寄ってそのまま京都に戻ってしまった。いつになく早く実家に戻ることになった。
母が夕食の仕度をしていると、電話が入った。入院中の叔父(母の長兄)が逝去したという。九十四歳の大往生であった。直ぐに、母の実家に弔問に行くことになった。結果的には、史跡訪問を早く切り上げて正解であった。
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