(石田ローズガーデン)
石田ローズガーデン
狩野良知・亨吉父子生家之跡
大館市は忠犬ハチ公の故郷であり、市街の中心地には秋田犬会館がある。そのすぐ近くに石田ローズガーデンがある。この場所は、大館市初の名誉市民である故石田博英氏の私庭であったが遺族から大館市へバラが寄贈され、平成七年(1995)から市で管理することになった。ここには約五百種類ものバラが植えられている。私が訪れたとき、既にバラのシーズンは過ぎていたようだが、それでも目をひくような鮮やかな花を幾つか見ることができた。
バラ
石田ローズガーデンの場所は、狩野良知、狩野亨吉父子の生家である。門の壁に「狩野良知・亨吉父子生家之跡」と書かれたプレートが嵌め込まれているほか、ローズガーデンの中にも「狩野良知・亨吉生家の跡」木柱が建てられている。
狩野良知・亨吉生家の跡
(大館市立栗盛記念図書館)
かつて大館市立中央図書館と呼ばれていたが、現在は栗盛記念図書館と改名されている。図書館の前に狩野父子の顕彰碑が建てられている。
大館市立栗盛記念図書館
狩野父子顕彰碑
狩野良知は、文政十二年(1829)出羽国秋田郡大館町に生まれた。経世論「三策」は吉田松陰の心を動かし、松下村塾で刊行された。「三策」は儒教的王道政治の理想を当代に発揚した論策であった。明治二年(1869)、一家を挙げて本藩久保田(秋田)に移り、藩家老職軍事取調掛となり、藩政改革に参与した。廃藩後、秋田県の教育政務に従事し、明治七年(1874)、上京して内務省地方局事務取扱に務め、戸籍親族民籍の諸条例を立案した。明治十七年(1884)には、内務権少書記官となり、退官後は秋田育英会のために奔走した。明治二十四年(1891)に刊行された「支那教学史綱」は、四年後上海で翻刻された。明治三十一年(1898)、「宇内平和策英和両文」を発表。明治三十九年(1906)没。
狩野亨吉は、良知の二男として慶應元年(1865)、大館に生まれた。明治九年(1876)、出京して大学予備門に入学。当時聞いた米人教師モースの進化論は、彼の生涯の思想方向を決めることになった。東大理学部にて数学、文学部で哲学を修め、四高(金沢)、五高(熊本)の教授を歴任した。明治三十一年(1898)には三十四歳にして第一高等学校校長に抜擢された。明治三十九年(1906)には京大教授に任じられ、文学部長として倫理学を講じた。二年後、東北大学総長より東宮御教育係に推薦されたが辞退し、自ら古本屋と称して古書を漁り、東北大に図書を売却した。志筑忠雄の星気説、関孝和の和算、安藤昌益の「自然真営道」等、邦人独自の学説を発見紹介した。終生、独身を貫いた。昭和十七年(1942)末、東京雑司ヶ谷にて没した。
吉田松陰歌碑
図書館の裏手には、吉田松陰の歌碑が建てられ、模築された松下村塾が移されている。
歌碑には、松陰の有名な絶唱「親思う心にまさる親こころ 今日のおとずれ何ときくらん」が刻まれている。
模築 松下村塾
この松下村塾は、昭和五十九年(1984)、大館出身の実業家で熱烈な松陰フアンである竹原吉右衛門の財政的援助を受けて、財団法人大館鳳鳴高校振興会が建てたものであり、かつてJR東大館駅に近い竹村記念公園内にあったが、平成二十九年(2017)四月、当地に移築したものである。海原徹著「松陰の歩いた道」(ミネルヴァ書房)によれば、全国に六つある模築松下村塾のうちの一つで、五番目に建築されたものだそうである。
(一心院つづき)
一心院の墓地を歩いていると次第に雨脚が激しくなってきた。傘もない私は濡れるに任せて、歩くよりなかった。墓地をほぼ一周したときに気が付いた。ここは以前に訪れたことがあったことを。三十分という貴重な時間をロスってしまった。しかし、前回は発見できなかった根本源三郎、松岡政蔵、下遠来助らの墓に出会うことができたので、「良し」とするしかない。
根本源三郎為成君墓
官軍 秋藩 根本源三郎為成君墓(旧墓)
根本源三郎は佐竹大和組下組頭。慶応四年(1868)九月二日(四日とも)、羽後岩瀬村にて戦死。三十一歳。「官軍 秋藩」と記された墓石の横に、遺族によって建てられた旧墓も置かれている。
官軍 秋藩 松岡政蔵墓
松岡政蔵は、根本弥三郎下男。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後岩瀬村にて戦死。十八歳。
官軍 秋藩 下遠来助墓
下遠(下藤とも)来助は、佐竹大和家人。狩野徳蔵組。慶應四年(1868)八月十二日、羽後東岱にて戦死。四十九歳。
(遍照院)
遍照院
遍照院の無縁墓石の中に戊辰戦争戦死者の佐川伊太郎の墓がある。
佐川伊太郎は、大館給士。小林準太組。慶応四年(1868)九月二日、羽後岩瀬村にて戦死。三十六歳。
官軍 秋藩 佐川伊太郎墓
(玉林寺)
玉林寺
官軍 秋藩 根本兵右衛門墓
根本兵右衛門は、経直とも。大館給士。慶応四年(1868)、八月十一日、羽後鬼ヶ城にて戦死。三十八歳。
官軍 秋藩 石田政治墓
官軍 秋藩 石田正方墓(旧墓)
石田政治は、大砲隊。明治元年(1868)九月二十日、羽後薬師森にて戦死。二十歳。
見慣れた「官軍 秋藩」と記された墓石の背後にもう一つ石田政治の墓が置かれている。恐らくこちらが、もともと家族によって建てられた旧墓であろう。「官軍 秋藩」と記された墓石の方は、いずれも建てられたのが大正五年(1916)となっており、戊辰から五十年近くが経ったこの時、県から一律に下賜された墓石と推定される。
官軍 秋藩 秋元多吉墓
秋元(秋本とも)多吉は、佐竹大和附歩行士。二階堂鵜之助組。慶応四年(1868)九月二日、羽後岩瀬村にて戦死。三十一歳。
官軍 秋藩 岸慶治墓
岸慶治(敬治とも)は、銃士。慶応四年(1868)九月二日、羽後片山野にて戦死。四十歳。
(浄應寺)
浄應寺
工藤金兵衛は、能代足軽。慶応四年(1868)八月二十日、羽後東岱にて戦死。二十七歳。
官軍 秋藩 工藤金兵衛墓
(餅田)
官軍 秋藩 滝口定之助墓
餅田の共同墓地に戊辰殉難者滝口定之助の墓がある。
滝口定之助は、卒。慶応四年(1868)九月四日?、羽後下根戸にて戦死。二十六歳。
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