史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

都留

2014年06月12日 | 山梨県
(広徳院)
 都留市の広徳院に天野開三(海蔵)の墓を訪ねた。都留市といっても、西桂町との境界に近い。
 広徳院墓地に入ると、天野家の墓がたくさんあって、簡単に天野開三の墓を探し当てることはできない。没年月日から推定したが、表面は流麗な草書体で書かれており、解読不能。今一つ、自信が持てない。


広徳院


天野開三の墓?

 天野開三は、文化十一年(1814)、甲斐都留郡境村に天野茂甫の長男に生まれた。若くして江戸に出て、江川太郎左衛門の知遇を得、品川台場建設工事を請け負った。彰義隊の天野八郎は、一時開三の世話になっており、養子となったといわれる。嘉永六年(1853)、下田地方が大津波に襲われたと知ると、江戸から大勢の人夫を引き連れて駆け付け、下田の人々を叱咤激励した。終始、幕府を支援したが、維新後は郷士に戻った。明治三十三年(1900)、十一月、八十七歳で没。


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南アルプス

2014年06月12日 | 山梨県
(泉能寺)


泉能寺

 五味長元の墓を訪ねて泉能寺まで足を伸ばした。ところが、墓地には五味家の墓がいくつもあって、残念ながら、長元の墓を特定することはできなかった。恐らく縁戚になるのだと思うが、墓地内には、五味国鼎(1754没。学者、医者)、五味可都里(1817没。俳人)などの墓もある。
 五味長元(もしくは張元、安郎右衛門)は、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス市藤田=とうだ)の生まれ。安政七年、遣米使節団の一員に選ばれ、咸臨丸で太平洋を横断した。時に六十一歳であった(使節団中の最年長である)。帰国後、『安政寅申米使日記』という見聞録を残した。アメリカから入れ歯と避雷針を持ち帰ったという。明治二十三年(1890)、九十一歳で没。


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身延

2014年06月12日 | 山梨県
(不二ホテル)


不二ホテル


三田村鳶魚翁終焉之地碑

 昭和二十七年(1952)五月十四日、江戸文化研究家の三田村鳶魚が、下部温泉不二ホテルで亡くなった。現在、不二ホテル前の庭には、海音寺潮五郎書「三田村鳶魚翁終焉之地」碑が建立されている。

(常福寺)


常福寺

 身延町下山の常福寺に小沢一仙の墓があるというので、墓地を歩いた(朝から激しく犬に吠えられた)。結局、小沢一仙のものと特定できる墓石は見つけられなかった。

 小沢一仙(別名、雅楽助)は、天保元年(1830)、伊豆松崎に生まれた。父は彫刻師石田半兵衛で、一仙自身も宮大工であり、彫刻を得意とした。その後、甲斐に出て甲府勤番小沢家の養子となった。鳥羽伏見の戦争が起こると、いち早く高松實村を担ぎ出し、岩倉具視や西郷隆盛の承認を得て、東征軍先鋒として信濃、甲斐を進軍した。ところが甲斐に入ったところで京都の方針が変わり、高松隊は偽官軍となった。憤慨した小沢一仙は抗議したが容れられず、慶応四年(1868)三月十四日、斬首された。
 常福寺の説明によれば、一仙の法名は「朝仙院常信日秀」というらしいが、どうしてもその文字を刻んだ墓を見付けられなかった。いずれ再挑戦したい。


小沢一仙の墓?



コメント (2)
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市川三郷

2014年06月12日 | 山梨県
(津向屋)
 市川三郷町鴨狩津向(つむぎ)は、静かで小さな集落である。ここから津向の文吉と呼ばれる一人の侠客が出た。現在、津向の文吉の生家には、生誕地碑が建てられている。


津向文吉生誕の地

(津向共同墓地)


津向文吉墓

 津向の文吉は、文化七年(1810)、名主宮沢勘右衛門の次男に生まれた。天保八年(1837)、車田村の市兵衛と喧嘩となった。てっきり殴殺したものを思った文吉は駿府に逃走したが、天保十年(1839)、密告により奉行所に捕えられた。ところが、甲州に照会したところ誤認と分かり釈放されて津向に返された。嘉永の博徒狩りにより八丈島に流された。文吉は寺子屋や医者の真似事をして生計を立て、島の娘との間に男女二人の子を成した。維新の大赦により二十一年振りに故郷に帰ることができた。文吉は清水次郎長の喧嘩の仲裁人として知られる。明治十六年(1883)十月、七十三歳にて死去。


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石和

2014年06月12日 | 山梨県
(石和南小学校)


史跡 石和陣屋跡

 現在、石和南小学校周辺が、石和陣屋があった場所である。
 寛文元年(1661)、甲府宰相綱重の時代に石和に陣屋が建てられた。綱重は江戸に常駐したため、陣屋には代官が置かれた。享保九年(1724)、甲州を拝領していた柳沢吉里が大和郡山に移封されると、明治維新まで幕府の直轄地となった。

(八田家御朱印屋敷)


八田家書院

 八田家は、もと武田氏の家臣であったが、のちに徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜り、それを用いて母屋を建造した。慶長六年(1601)、都留郡富士根の材木を賜って書院を建築した。母屋は安政六年(1859)に笛吹川の氾濫により大破したが、書院は今日まで伝えられた。この書院は、桃山期末期の武家書院様式で、当時の様式を今日に伝える貴重な文化遺産となっている。


表門

 表門は、寛文元年(1661)に石和陣屋が創設されたときに、時の代官平岡勘三郎良辰が建立したもので、明治七年(1874)、払下げを受けて八田家の表門として移築されたものである。

(常在寺)
 笛吹市石和町唐柏の常在寺にも、竹居の吃安の墓がある。


常在寺


心誠院諦悟日道居士(竹居吃安の墓)

 墓石の側面には、「嘉永七巳年十二月五日 安五郎墓」と刻まれている。

(仏陀寺)


仏陀寺

 竹居の吃安は、文久二年(1862)十月、石和代官所に捕らわれた。仏陀寺の説明によれば、牢屋に近い接慶院に葬られたそうだが、同院が廃寺となったため、昭和四十一年(1966)、当寺に改葬された。


心岳宗安禅定門(竹居吃安の墓)


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笛吹 Ⅱ

2014年06月12日 | 山梨県
(浄源寺)


浄源寺

 ここ数年、ゴールデンウィークは東北を旅するのが恒例となっていが、今年は前半が飛び石となってしまい、後半は大混雑することが予想されたので、遠出は控えることにした。連休の二日目、抜けるような青空に誘われて、山梨県下を回った。


鐘嶽玄徽居士(竹居吃安の墓)

 竹居の吃安は、文化八年(1811)、甲斐八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市八代町竹居)名主の中村甚兵衛の四男に生まれた。十五、六才のころ、造り酒屋の下男にからかわれたことに腹を立て、脇差で斬り付けたことから勘当された。郡内下吉田の人斬り長兵衛に預けられて、博徒となった。のちに竹居に戻って一家を張るが、嘉永の博徒狩りで新島に流刑となった。安政五年(1858)七月、新島の名主前田吉兵衛を殺害して島抜けし甲州に戻り、黒駒の勝蔵を弟分として一家を再建した。侠客として人心収攬の才を発揮し、甲州一円はもとより伊豆地方まで勢力を伸ばし、子分数千人を誇った。巷間、清水次郎長との敵役として扱われることが多いが、実際に次郎長と抗争に至ったのは数回しかないという。「どどど」と吃れば人を斬る―――と伝説が残るが、実際に人を斬ったという記録は少ない。また、江川太郎左衛門の韮山の反射炉の建設に従事したといわれる。文久元年(1861)秋、捕えられ、翌年の十月、牢死した。毒殺ともいわれる。五十二歳。
 吃安の墓は、出身地である竹居の浄源寺、石和町唐柏の常在寺、石和町市部の仏陀寺の三カ所にあるが、それぞれ建立者や没年月日、戒名等が違っているのが興味深い。
 浄源寺は、まさに吃安の出身地である。この墓の側面には、「中村甚兵衛建之」とあり、父が建立したことが分かる。

(地蔵院)
 笛吹市春日居町桑戸の地蔵院の歴史は古く、天文十四年(1545)、箇覺光真禅師が茂林庵と寶聚庵を合併して地蔵院と称したのが起源である。以来、現在に至るまで二十五世の禅師によって引き継がれてきた。本堂の前に、二十五名の禅師の名が刻まれた石碑があるが、その二十三世「獨龍巨海大和尚」という人物が、実は新選組に在籍した立川主税である。


地蔵院


當山二十三世獨龍巨海大和尚
(立川主税の墓)

 立川主税は、筑前国鐘崎浦(現・福岡県玄海町)の出身。新選組入隊は、甲陽鎮撫隊結成の直前と推定される。勝沼・柏尾の戦争では援軍や食糧を調達した。その後、土方歳三に附属して箱館まで転戦した。落城寸前の五稜郭から脱出したが、官軍に捕えられ、戦後は秋田藩にて謹慎生活を送った。明治五年(1872)、同志の菩提を弔うため、仏門に入った。同じく新選組隊士であった斎藤一諾斎(秀全)の紹介で全福寺住職を紹介してもらい、そこで修業して住職となったという。春日居村の地蔵院に来たのは、明治十八年(1885)のことで、以後明治三十六年(1903)に没するまで同地に起居した。享年六十九。


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甲府 Ⅱ

2014年06月12日 | 山梨県
(行蔵院)


行蔵院

 祐天仙之助こと山本仙之助は、甲府元紺屋町行蔵院で修験者として起居していたという。のちに博徒となって津向の文吉と共に浪人桑原雷助を殺害した。また、竹居の吃安の逮捕にも協力した。文久二年(1862)、幕府による浪士隊募集に応じて参加、上洛したが、実はこの中に桑原雷助の遺児、大村辰尾がいた。その年の十月、祐天仙之助が板橋に遊びに来たところを、大村が討ち果たした。

(中央公園)


徽典館跡碑

 甲府市内中央公園内に徽典館(きてんかん)跡碑がある。徽典館は、寛政八年(1796)に甲府勤番支配、近藤政明と永見為貞の尽力により、甲府勤番士の子弟の教育を目的として創設された学問所である。享和三年(1803)には新校舎が建設され、一般からの入学も許可されることになった。命名は林大学頭衝(述斎)による。幕府の昌平坂学問所から毎年二名の教授が派遣されるようになり、その中には岩瀬忠震、田辺太一や中村正直ら幕末に活躍した著名な人材がいた。門下から杉浦譲ら多くの人材を輩出している。維新後、学制改革により開智学校と改称され、のちに山梨大学教育学部へと発展した。


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