(広徳院)
都留市の広徳院に天野開三(海蔵)の墓を訪ねた。都留市といっても、西桂町との境界に近い。
広徳院墓地に入ると、天野家の墓がたくさんあって、簡単に天野開三の墓を探し当てることはできない。没年月日から推定したが、表面は流麗な草書体で書かれており、解読不能。今一つ、自信が持てない。
広徳院
天野開三の墓?
天野開三は、文化十一年(1814)、甲斐都留郡境村に天野茂甫の長男に生まれた。若くして江戸に出て、江川太郎左衛門の知遇を得、品川台場建設工事を請け負った。彰義隊の天野八郎は、一時開三の世話になっており、養子となったといわれる。嘉永六年(1853)、下田地方が大津波に襲われたと知ると、江戸から大勢の人夫を引き連れて駆け付け、下田の人々を叱咤激励した。終始、幕府を支援したが、維新後は郷士に戻った。明治三十三年(1900)、十一月、八十七歳で没。
都留市の広徳院に天野開三(海蔵)の墓を訪ねた。都留市といっても、西桂町との境界に近い。
広徳院墓地に入ると、天野家の墓がたくさんあって、簡単に天野開三の墓を探し当てることはできない。没年月日から推定したが、表面は流麗な草書体で書かれており、解読不能。今一つ、自信が持てない。
広徳院
天野開三の墓?
天野開三は、文化十一年(1814)、甲斐都留郡境村に天野茂甫の長男に生まれた。若くして江戸に出て、江川太郎左衛門の知遇を得、品川台場建設工事を請け負った。彰義隊の天野八郎は、一時開三の世話になっており、養子となったといわれる。嘉永六年(1853)、下田地方が大津波に襲われたと知ると、江戸から大勢の人夫を引き連れて駆け付け、下田の人々を叱咤激励した。終始、幕府を支援したが、維新後は郷士に戻った。明治三十三年(1900)、十一月、八十七歳で没。